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サミュエル・ピープスの日記(4)

翻訳・解説:原田範行(慶應義塾大学教授)

【国王一行やご主人さまとともに意気揚々とロンドンへ戻ったピープス。妻エリザベスも安堵したことであろう。これで王政復古(the Restoration)が実現したわけだが、事はそれほど容易には片付かない。下っ端役人の彼の前には、公私にわたってこまごまとした仕事が山積みである(なお、今月から登場人物索引を用意したので、適宜参照されたい)。】

トップの画像:クロムウェル、ブラッドショウ、アイルトンの「死後処刑」の描写。Wikipediaも参照。


6月13日


 ご主人さまのもとへ。それから海軍会計官*のところへ。クリード氏とパーサーのピアースさんといっしょにローリンソンの店*へ行く。そこへワイト叔父*もやって来たので、みなに12シリングを振る舞ってやった。それからクルー氏*のところへ。私は新しいカーペットにしみをつけてしまったが、真水を使ってまたきれいにした。

海軍会計官 16世紀半ばから19世紀初頭まで政府の一組織であったが、後に財務省主計局に統合された。
ローリンソンの店 フェンチャーチ・ストリートにあった居酒屋マイター亭のこと。
ワイト叔父 ウィリアム・ワイト。魚屋などを営む裕福な商人であった。
クルー氏 このクルー氏は、初代男爵の方。

 ご主人さまといっしょに水路、ボートでウェストミンスターへ行き、それから海軍本部*へ。今は新しい場所に移っている。

海軍本部 同じウェストミンスター地区のキャノン・ロウからホワイトホール・パレスへ移転したところであった。当時の海軍大臣はヨーク公。

 そこで仕事を片付けた後、ライン・ワインの店へ、ブラックバーン氏*とクリード氏、それにワイヴェルさん*とで行く。

ブラックバーン氏 ロバート・ブラックバーン。海軍の中心的な事務官の一人。
ワイヴェルさん エドワード・ワイヴェル。食料品店を経営。

 それからご主人さまの宿所へ行き、その後、父の家へ、それから就寝。

6月21日

 ご主人さまのもとへ。仕事が山積。ご主人さまといっしょに枢密院*へ向かい、そこでご主人さまは宣誓をなさった。枢密顧問官就任の手数料は26ポンド。

枢密院 枢密院は国王に助言する会議体で、閣僚のほか国王が任命する高官がメンバーとなる。26ポンドという手数料はこの後、少なくともアン女王の時代(在位1702–14)まで変わらなかったようだ。

 ウェストミンスターの居酒屋「ドッグ」へ行く。マーフォードさん*が、マライア号のカール艦長*および彼らの友人二人と一緒に飲みに来ていた。艦長は、今日私がマライア号に対して発した1660年4月20日付*の任命辞令のお礼にと、金貨五枚を私に、また銀のコップを妻にくれた。

マーフォードさん  ウィリアム・マーフォード。キャンノン・ストリートで材木商を営んでいた。
カール艦長 エドマンド・カール。マライア号をはじめ、幾つかの船の艦長を歴任。
1660年4月20日付 任命辞令が発出されなければ給料が支払われない。国王を迎えに行くにしても、王政を復古させるにしても膨大な辞令発出が必要になるわけで、ピープスが事務処理に追われていたことがよく分かる。

 それから議事堂入口へ向かい、クルー氏の屋敷でご主人さまとともに食事。ご主人さまといっしょに国王衣裳室*を見学。そこからタウンゼンドさん*が、われわれを茶色の服を着た貧しい子どもたちの監督をしている人たちのところへ連れていった。子どもたちはここで11年間も暮らしてきたのである。この子たちをどのように扱えばよいか、ご主人さまは考えあぐねておられる。この建物はご主人さまがお使いになることになるからだ。子どもたちが歌を上手に歌ったので、ご主人さまは帰り際に私に命じて金貨五枚をこの子たちにあげた。

国王衣裳室 国王衣裳室長官は、国王のそばに仕えて王室を支える重要なポストであり、ご主人さま(エドワード・モンタギュ)は、去る6月15日に国王から内々に長官就任を懇請され承諾していた。ところがその場所には、1649年、ロンドン市によって貧しい子どもたちを収容する施設があり、存続をめぐって嘆願も寄せられていた。結局エドワード・モンタギュは1661年、この施設を退去させている。
タウンゼンドさん 国王衣裳室の書記。

 それからホワイトホールへ戻る。国王陛下は不在だったので、ご主人さまと私は長い間散歩をし、護国卿*の愚かさについて話をした。彼は、彼の父が彼に残したものをすべて失ってしまったのである。ご主人さまがサウンド海峡に向かわれた際、護国卿が最後にご主人さまにかけた言葉は、次のようなものであったという。すなわち、あの当時の反革命的企て、つまりそれは後に彼の命取りになるのだが、そんなことにご主人さまが関与するようであれば、自分は、あなたが(つまりご主人さまのこと)帰還の折に墓場に入っているのを見る方がはるかに喜びとするものだ、という言葉であったという。加えて護国卿は、G・モンタギュ、ブログヒル卿、ジョーンズ、国務大臣らが革命政権継続にかかわる政治を自分にやれと言うなら、何であれ自分は喜んでやるつもりだ、とも言ったそうだ。そこから妻のもとへ。途中、ブラグレイヴ氏*に会ったのでいっしょに帰宅し、フラジョレット*のレッスンをしてもらった。また彼には、銀のコップの使い始めを妻と私といっしょにしてもらった。

護国卿 この護国卿は、オリヴァー・クロムウェルの息子のリチャード・クロムウェルのこと。サウンド海峡は、デンマークのシェラン島とスウェーデン南部の間にある海峡で、エドワード・モンタギュがここへ出兵したのは1659年初頭のこと。それまでリチャード・クロムウェルを支持していたモンタギュが、チャールズ2世との秘密交信を疑われるようになった時期である。「G・モンタギュ」はエドワードの甥のジョージ・モンタギュのことだが、リチャード・クロムウェルがここでその甥の名を出したのは、エドワードへの配慮からだったと思われる。「ブログヒル卿」とは、ブログヒル男爵ロジャー・ボイル、「ジョーンズ」は、フィリップ・ジョーンズ大佐、「国務大臣」とは、諜報活動の責任者としてオリヴァー・クロムウェルの下で活躍したジョン・サーロウ。「G・モンタギュ」以外はいずれもリチャード・クロムウェルの腹心の部下であった。
ブラグレイヴ氏 トマス・ブラグレイヴ。ヴァイオリニストにして作曲家。チャールズ1世、オリヴァー・クロムウェル、そしてチャールズ2世の前での演奏経験を持つ。
フラジョレット ここでは楽器の奏法のことではなく、木管楽器(縦笛)のこと。wikipediaを参照。

 それから父の家へ。サー・トマス・ハニウッド*とその家族が突然やって来たので、われわれは階段を三つ上がったところの小さな部屋でみないっしょに寝なければならなかった。

サー・トマス・ハニウッド 軍人出身で、共和制時代には国会議員を務めた。このハニウッド一家の本宅はイングランド南東部のエセックスにあったが、ピープス家をロンドン滞在中の宿所にしていたようだ。

6月29日

 この一日、二日というもの、メイドのジェインが足を痛めて動けなくなってしまった。わが家は、彼女なしではどうしてよいか分からない。起床してホワイトホールへ行き、公爵からの海軍書記官許可書*を戴く。また、国務大臣から、ポーツマス伯爵にして*ヒンチングブルックのモンタギュ子爵であるご主人さまからの許可書も頂戴した。
 それからご主人さまのもとへ向かい、このことをお知らせした。その後、サー・ジェフリー・パーマー*のところへ行ってこれらを渡す。それを基にした任命証書を書いてもらうためだ。彼によると、ご主人さまには特許状の前文をうまく書けるラテン語の使い手が必要だ、特許状には最近の業績をできる限りうまく書く必要があるのだから、とのこと。また彼は私に、サー・J・グリーンヴィル*が自分の特許状を大げさで派手な調子に仕上げさせたこと、彼としてはそれが好きではないこと、だが、サー・リチャード・ファンショウ*はマンク将軍の文書を実によく仕上げたこと、などを話してくれた。

海軍書記官許可書 海軍書記官は、海軍本部にあって、その事務部門の責任者である。ピープスは、抜群の事務処理能力とその勤勉さ、闊達な人間性が評価され、晴れてこの地位に任命されたわけである。ところが、この後、前任者が現れてその対応に追われることになる。なお、ここでピープスが拝領した許可書は、それを特許として示す法務長官発行の公的な任命証書にする必要があった。サー・ジェフリー・パーマーのところを訪れるのはそのためである。なお、ピープスの任命証書は、結局、英語で記されることになった。
ポーツマス伯爵にして・・・  これはいずれもエドワード・モンタギュの当時の爵位である。
サー・ジェフリー・パーマー 法律家、政治家であり、当時、法務長官であった。
サー・J・グリーンヴィル 王党派の地主で、王政復古後、その功績が認められた。
サー・リチャード・ファンショウ 王党派の外交官にして古典学者。チャールズ2世のラテン語書記官でもあった。

 ウェストミンスターへ戻り、宮殿でタウンゼンドさんに会う。彼と私、その他一、二名で「レッグ(脚)」へ行って食事。それからホワイトホールへ行くと、海軍本部でハッチンソン氏*から、私の前任の海軍書記官であるバーロウ氏*がまだ存命であり、彼がその地位を求めてロンドンに向かっているということを聞いた。それで私はいささか悲しくなってしまった。夜、ご主人さまにそのことをお話すると、特許状を取得するようにと命じられた。彼を追い出すために自分もできるだけのことはしようとおっしゃる。この夜、ご主人さまと私は艦長名簿に目を通し、ご主人さまが除外したいと考えておられる数名にしるしを付けた。帰宅して就寝。わが家のメイドは足の具合が悪く、ここ二日間、寝込んでいる。

ハッチンソン氏 リチャード・ハッチンソン。海軍本部の主要事務官の一人で経理担当。
バーロウ氏 トマス・バーロウ。1639年にデニス・フレミングとともに海軍書記官に任命された。フレミングはすでに故人であったので、ピープスはバーロウと交渉をすることになり、その給与の一部を支払っている。

7月7日

 ご主人さまのもとへ。私の書記官の地位を買いたいという者が現れたので、100ポンドは必要と言ってやった。枢密院へ行き、海軍士官給与の前払いをするようにとの命令書を受け取った。私の給料の方は350ポンド*に上がっている。それから王立取引所へ行き、ルーベンスを版画にしたラゴの佳作*2点を購入。その後、ワイト叔父夫婦と食事。叔母の妹コン*とその夫もいっしょ。それから叔父とともにローリンソンの店へ行き、その後、海軍本部へ。役所の書類や物品、帳簿の目録作りを始めた。それからご主人さまのところへ。遅くまで手紙を書く。それから帰宅、就寝。

350ポンド 役人としてのピープスのそれまでの給料は年額182ポンドであったから、これは倍増に近かった。ちなみに共和制時代、海軍書記官の職務を兼務していた海軍長官は、その代行料として250ポンドほど支給されていた。ピープスの昇給と同時期に、海軍の経理部長の給与は275ポンドから500ポンドになっている。
ルーベンスを版画にしたラゴの佳作 ピーテル・パウル・ルーベンスは16世紀後半から17世紀前半にかけてのフランドルの画家。フランソワ・ラゴは、ルーベンスの絵画をもとにした版画を多く制作した。
コン 詳細は不明。

7月8日

 日曜日。ホワイトホールの礼拝堂へ。大法官の前をキップス氏*といっしょに歩いていたので簡単に中へ入れた。非常によい音楽*を聴いた。これほどのオルガンと法衣に身を包んだ聖歌隊の歌は、覚えている限り、人生ではじめてである。チチェスター司教*が国王の前で説教をしたが、まったくご機嫌取りの説教であった。私は、聖職者があれこれ国政に口を出すのは嫌いだ。ルエリン、ソールズベリー*といっしょに小さな料理店で食事。帰宅して午後は、説教が終わるまで妻といっしょに過ごす。フェアブラザーさん*が呼びにやってきて、われわれは父の家へ夕食に出かける。フェアブラザー氏によると、彼は代理人を立てて、私に修士号が授与されるよう完璧に手はずを整えたという――それは嬉しいことだが、いとこのロジャー・ピープス*が先日、そんなことはやめるように言っていたのを思い出す。

キップス氏 トマス・キップス。初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイドの会計係。
非常によい音楽 王政復古により、こうした行事が再開したことがうかがえる。
チチェスター司教  ヘンリー・キング。王政復古当時、革命以前から司教であった聖職者は九人だけであったが、そのうちの一人。詩人でもあり、ジョン・ダンの親友であった。
ソールズベリー  ピープスの友人の画家だが、ファーストネームも含めて詳細は不明。
フェアブラザーさん  ウィリアム・フェアブラザー。ケンブリッジ大学キングズ・コレッジのフェロウでピープスの親友。
いとこのロジャー・ピープス  正確にはピープスの父ジョンの従弟。後に国会議員を務めた。ケンブリッジ大学クライスツ・コレッジに学んだが、彼自身は学位を取得していない。もっとも、カリフォルニア版の注釈によれば、大学に残って研究教育に携わるのでなければ学位は必要ないという考え方が、当時は一般的だったようである。ちなみにピープスは、この年の8月14日、修士号取得に関してフェアブラザーに9ポンド16シリングを払っている。

 食事をしていると、W・ハウがいっしょに夕食を取ろうとやって来た。食後帰宅して、就寝。

7月9日

 午前中はずっとサー・G・パーマーのところで、任命証書を作ってもらうことについての相談をする。それから海軍本部へ行き、午後は会議に出席。はじめて支払い証書に署名*をした。その後、ホランド艦長*とハリッチのブラウンさん*に連れられて居酒屋へ行き、軽食をご馳走になる。そこからテンプル*へ行き、私の任命証書発行手続きを催促。その後、ご主人さまのところへ帰り、就寝。

はじめて支払い証書に署名 海軍本部の新しいオフィスでのピープスの本格的な仕事始めと言ってよいであろう。支払い証書には、高等官2名の書名が必要であった。
ホランド艦長 フィリップ・ホランド。ピープス家とは家族ぐるみで交流があった。
ハリッチのブラウンさん  ジョン・ブラウン。ハリッチ(イングランド南東部の港町)の小売店主。
テンプル ロンドンのフリート・ストリートからテムズ川に向かう地域で、法曹関係の建物が集まっている。地域の中心にあるテンプル教会は、12世紀後半にテンプル騎士団のイングランド本部として建設された。

8月8日

 役所で会議。その後、帰宅して昼食。食事の後、妻といっしょに水路、ケイト・スターピンのところへ行く。ケイトと女主人のパイさんといっしょに、われわれは、ケイトのプチ氏*との結婚について話した。パイさんと私からの最良のアドバイスは、プチ氏が何らかの生計の資を得、ケイトの持参金に頼らずとも生活できるようになるまで結婚を延ばしてはどうか、というもの。それからバトラーさんの家へ行き、娘たちに会う。われわれが彼女たちを訪問するのははじめてだ。皆たいへんかわいらしい。ディロン大佐*もそこにいた。実に陽気で機知に富む人だ。もっとも私が思うに、皆派手な暮らしをしているが、実はとても貧しいようだ。その後、妻と私はブラックバーンさん*に会いに行く。彼女は一日か二日前に妻に会いに来てくれたのだが、妻は体調が悪くて会えなかったのだ。だがブラックバーンさんは家にいなかったので、妻は実家の母を訪ね*、私は王璽尚書局へ。夜、王璽尚書局から、ウッドソンさん*とジェニングさん*と私は居酒屋「ザ・サン(太陽)」へ行き、そこに遅くまでいた。それからご主人さまのところへ行くと、妻がブラックバーンさんのところから私に会いに来ていた。私はご主人さまのもとで用事を済ませた後、妻といっしょにハントさん*の家へ行った。今晩はぜひとも泊まっていってほしいと彼女は言う。妻といっしょにこんなに遅くまでいたのだから、私たちを家には帰したくない、と言うのである。

プチ氏 アンリ・プチ。詳細は不明だが、後にケイトと結婚する。
ディロン大佐 ケアリー・ディロン。後にバトラーの娘フランシスと婚約するも、結局破談に終わる。
ブラックバーンさん  ロバート・ブラックバーン(海軍の事務官)の妻。後出のウィル・ヒューアの叔母。ファーストネームは不明。ピープス家とは家族ぐるみの付き合いをしていたようだ。
妻は実家の母を訪ね ドロシア・サンミッシェル。
ウッドソンさん ジョージ・ウッドソン。王璽尚書局の事務員。
ジェニングさん 王璽尚書局の事務員と思われるが、ファーストネームも含めて詳細は不明。
ハントさん  エリザベス・ハント。税務署員のジョン・ハントの妻。ピープスの隣人。

 われわれは彼女の家で一晩中、楽しくまたくつろいで過ごした。明け方、私は妻と歓びを味わった。彼女の痛みが和らいで後*、はじめてである。

彼女の痛みが和らいで後 妻エリザベスは、8月2日頃から痛みに苦しんでいた。後世の診断では、間歇性月経困難症(spasmodic dysmenorrhoea)であったとされている。

8月21日

 朝、サー・W・ペン*と水路でホワイトホールへ向かう。途中彼は、サー・W・バッテンのもとでどう教育されたかについて話してくれた。われわれはコヴェントリー氏*の部屋へ行き、午後の委員会に備え、私が海軍の負債に関する文書*をどう書くかについて相談をした。それから海軍本部へ行き、ヒューアさん*とともに文書を書く。その後、ヒューアさんは叔母のブラックバーンさんのところへ。(今日、彼女の家で親類が一人亡くなり、今晩埋葬の予定。そのためヒューアさんは遅くまで戻らなかった。)私はウェストミンスター・ホールへ。クルー氏と会って食事をする。その場にヒックマン氏*というオクスフォードの人がいて、新任の旧聖職者たちの横暴を激しくなじっていた。信仰心に篤いコレッジのフェロウたちを追い出し、彼らが大酒飲みだと罵っているという。もし本当だとすれば、嘆かわしいことである。

サー・W・ペン サー・ウィリアム・ペン。海軍大将。アメリカ・ペンシルヴェニア州の創設者であるウィリアム・ペンの父。サー・ウィリアム・バッテンは海軍で航海長や検査官を務め、後に国会議員となった。ペンは若い頃、海軍でバッテンの指導を受けたことがある。
コヴェントリー氏 ウィリアム・コヴェントリー。政治家。海軍改革に取り組んだ彼の仕事については賛否両論あったが、ピープスは彼を評価していた。
海軍の負債に関する文書 海軍の抱える膨大な債務をめぐっては議会下院に特別委員会が設けられており、後出のジョン・バーチがその責任者になっていた。ピープスとバーチとの往復書簡は、ケンブリッジ大学ピープス図書館に保存されている。
ヒューアさん  ウィル・ヒューア。海軍の事務官でピープスの部下にして親友。
ヒックマン氏  ヘンリー・ヒックマン。オクスフォード大学モードリン・コレッジのフェロウだったが、8月6日に追放されている。「新任の旧聖職者たち」とは、共和制時代にオクスフォードで力を持ったピューリタン派の聖職者を追放し、革命によって追放されていた「旧聖職者」たちが「新任」として迎えられていたことを指す。ピューリタン派のヒックマンはそれで追放されたのである。なお、ヒックマンはクルー一家と親交があり、ジョン・クルーの息子でトマスの弟ナサニエルの家庭教師を務めていた。

  その後ウェストミンスターへ行き、ピムさん*を訪問。ビロードの上着(こんな服をあつらえたのは初めてだ)が仕上がっており、ビロードのモンテロ帽*もできていた。私はそれらを持って王璽尚書局へ行き、しっかりしまい込んだ。それからクィーンズ・コートへ向かい、ずいぶん待たされた後、バーチ大佐*と面談。彼は私が作った文書を読み、幾つか加えてほしいとのことだったので、そうした。それから王璽尚書局へ戻ったが、あまりすることがなかったので、ムーアさんとロンドンへ向かっていると、その途中、エッチャーさん*(モンタギュ氏の召使)にサボイ近くで会った。彼に連れられてわれわれは、居酒屋「ブレイズン・ノーズ(真鍮の鼻)」へ行き、そこで飲んだ。別れてから私は馬車で帰宅。今晩は郵便配達日だったので、ご主人さまに、万事順調である旨を手紙でお知らせした。マンク将軍はアイルランド総督となり、また(総督代理に任命された)ロバーツ卿*は、国王以外の人の代理になるのは好まぬと言ってご機嫌斜めであるという。その後、就寝。

ピムさん  ご主人さま(エドワード・モンタギュ)ご用達の仕立屋。
モンテロ帽 頭部にぴったりと被る帽子で頭飾りがついており、耳や首まで下げられるフラップもあった。もともとスペインで狩猟の際などに使われていたもの。
バーチ大佐 ジョン・バーチ。軍人で後に国会議員となった。海軍負債をめぐる議会下院の特別委員会の委員長を務めている。
エッチャーさん  詳細不明だが、「モンタギュ氏」(エドワード・モンタギュという名前だが、ご主人さまやその息子とは別人で、「ネッド」もしくは「ブロートンのモンタギュ」と呼ばれる)の召使であった。
ムーアさんとロンドンへ向かっていると ウェストミンスターからテムズ川沿いに東へ進んで、いわゆるシティの方へ向かっているという意味。サボイはその途中にあり、居酒屋「ブレイズン・ノーズ」はシティの東にあった。
ロバーツ卿 初代ランダー伯爵ジョン・ロバーツ。革命に際して議会軍の指揮にかかわったが、チャールズ1世が処刑される前に隠棲。アイルランド総督に任命されたマンク将軍は、イングランドでの権力を維持すべく総督代理の設置を求めたという。結局ロバーツは総督代理を拒否し、後に王璽尚書局長官となったが、さらにその後の1669年、アイルランド総督となっている。

8月31日

 朝早く出かけて、ホワイトホールでご主人さまにご挨拶。彼といっしょに公爵のお部屋へ。それからシージング・レイン*のわが役所へ。家へ帰って昼食。その後、再びご主人さまのもとへ。ご主人さまは、急な命令*があって航海に出ることになったので、そのことについての書類を書くようにと私におっしゃった。今日午後、わが家を手放して*ドールトンさん*(国王酒庫係、古いワイン・セラーで二、三度、いっしょに飲んだことがある)に41ポンドで譲ることに同意した。夜もなお王璽尚書局に詰め、明日の明け渡し*に備えて今月分の清算。しかし、いったい誰に対してなのかは分からない。われわれはビカースタッフさん*になればよいと思っていて、私は彼とマシューズさん*といっしょに、役所を出た後、遅くまで「ザ・サン(太陽)」で飲みながら、明日、どうバロン*に対応するかを話し合った。それから帰宅して就寝。私に関しては万事うまくいっていることを神に感謝。わが運命の変転に備えさせたまえと神に祈る。

シージング・レイン 海軍本部の所在地。ここが役人ピープスの本拠地。
急な命令 ご主人さま(エドワード・モンタギュ)は、チャールズ2世の妹でオランダのオレンジ公ウィリアム2世の未亡人であったメアリー妃をイギリスへ帰還させる任務を担った。出帆は9月7日。
わが家を手放して ピープス一家は、1658年以降、アックス・ヤードの家に住んでいて、彼が日記を書き始めたのもこの家だが、1660年9月から、一家はシージング・レインの海軍本部の広い官舎へ引っ越した。
ドールトンさん リチャード・ドールトン。国王酒庫係。
明日の明け渡し  これは9月1日に、王璽尚書局の新任書記が着任することを指している。この新任書記をめぐっては、後出のように、ビカースタッフとバロンの間で争いがあった。
ビカースタッフさん チャールズ・ビカースタッフ。王璽尚書局の書記だったが、9月1日、後出のバロンが新任書記となった。ただ彼は、後の1662年、王璽尚書局の別の書記に任命されている。
マシューズさん ジョン・マシューズ。王璽尚書局の別の書記。
バロン ハートギル・バロン。結局、それまでビカースタッフが務めていた書記のポストは、彼が担うことになった。

9月13日

 朝、イースト老人*が手紙を持ってやってきたので、ノースダウン・エール*を一本あげたところ、かわいそうにすっかり酔っぱらってしまった。

イースト老人  ファーストネーム不明。ご主人さま(エドワード・モンタギュ)のポーター。
ノースダウン・エール  ノースダウンはイングランド南東部ケント州の町で、ホップ生産で有名。

 午後、妻は親類のスコット*の家の子どもの葬式に出かけた。注目すべきことに、今月、ワイト叔母は二人の女の子を産み、同じく親類のストラドウィック*は女の子と男の子を一人ずつ、それにスコットは男の子を産んだわけだが、みんな死んでしまったのである。

スコット  ベンジャミン・スコット。ピープスの祖父トマスの弟ジョンの孫ジュディスの夫。なお、ジュディスの父であるサー・リチャード・ピープスは、王政復古前に、アイルランドの首席裁判官を務めている。
ストラドウィック  トマス・ストラドウィック。前出のジュディス同様、サー・リチャード・ピープスの娘であるエリザベスの夫。

 私の方は、午後、ウェストミンスターへ行った。ドールトンさんが家の代金を用意してくれていたが、書類がまだできていなかったので、今日はお預けとなった。ホーリーさんと会う。彼は今、長らく住んでいたボウヤーさんのところから引っ越し中だという。私は彼とW・ボウヤー*を連れて「ザ・スワン(白鳥)」へ行き、飲んだ。ホーリー氏は私に黒の小さなステッキ*をくれた。

W・ボウヤー 原文では “W. Bowyer”となっているが、これは “Wife of Bowyer”、つまりロバート・ボウヤーの妻エリザベスのことのようだ。
小さなステッキ 原文では “a little black Rattoon”となっているが、”an Indian rattan cane”、つまり籐のステッキのことのようだ。

 水路、帰宅。

 今日はグロスター公爵が天然痘で*お亡くなりになった。医者たちのたいへんな怠慢によるものだ。

グロスター公爵が天然痘で 1660年後半、ロンドンでは天然痘が流行した。ピープスの日記には、このグロスター公爵(チャールズ2世の弟)の逝去と前後して、有力者の相次ぐ死が記されている。先にご主人さま(エドワード・モンタギュ)の護衛でオランダから帰還したメアリー妃も12月に天然痘で亡くなった。「医者たちのたいへんな怠慢」というのは、グロスター公爵はすぐに回復するとして、侍医たちが当初、施療に当らなかったことを指す。

10月13日

 午前中、ご主人さまのところへ。そこで、カタンス艦長に会う。ただ、ご主人さまはまだ起きていらっしゃらなかったので、私はチャリング・クロスへ行き、ハリソン少将*が吊るされ、内臓を抉り取られ、四つ裂きにされるのを見に行った――そしてそれはその通り、実行された――少将は、このような状況において考えられる限り、陽気に振る舞っていた。彼の遺体はすぐさま綱から切り落とされ、頭と心臓が人々の面前に示されたが、これにより大きな歓声が湧き起こった。少将は、キリストの右側に立って、今自分を裁いた連中をすぐに裁きに来ると語っていたそうだ。少将の妻も、彼の再来を期待しているという。

ハリソン少将 トマス・ハリソン。急進的なピューリタンの一人で、ピューリタン革命で活躍。一時期、オリヴァー・クロムウェルの側近となったが、彼が護国卿になると決別。急進的な反体制派として活動し、王政復古にも強く反対した。千年王国思想に基づき、第五王国派とも呼ばれる。日記の記述にある通り、国王弑逆の罪で処刑された最初の人物。妻はキャサリン。

 かくして私は、ホワイトホールで国王が処刑されるのを見*、また、国王への復讐として最初に流された血をチャリング・クロスで見る機会を得たことになる。その後、ご主人さまのところへうかがい、カタンス艦長とシプリーさんを連れて居酒屋「ザ・サン(太陽)」へ行き、彼らに牡蛎をご馳走した。それから、水路、帰宅。家では妻のものがだいぶ散らかっていたので私は腹を立て、怒りのあまり、妻にオランダで買ってあげたきれいな小籠を蹴飛ばして壊してしまった。してしまった後で、私はひどく後悔した。

ホワイトホールで国王が処刑されるのを見 ピープスは、ケンブリッジ大学入学の直前、チャールズ1世の処刑を目撃している。当時の彼は共和制支持者で、国王処刑に際し、「邪悪なる者の記憶は朽ちる」と友人に語っていたことが、11月1日の日記に記されている。

 午後の間はずっと家にいて、書斎の棚を取り付けた。夜、就寝。

10月20日

 今朝、ある人が、わが家の地下室のどこに窓をつけたらよいか*、相談に来た。サー・W・バッテンがふさいでしまったものの代わりである。様子を見に地下室へ行ったところ、足を糞の山に踏み入れてしまった。ターナーさん*のところのトイレがあふれて*、わが地下室に入ってきてしまったものらしい。困ったことだ。なんとかしよう。

地下室の窓 当時バッテンは海軍に務めていて、官舎でピープスとは近所づきあいをしていた。彼が地下室の窓をふさいだのかどうかははっきりしないが、ピープスもこの官舎に職人を入れていろいろ工事や修理をさせている。ターナーさん  トマス・ターナー。海軍の事務官でピープスの同僚。
トイレがあふれて 水洗トイレ方式は、エリザベス一世の名づけ子であるサー・ジョン・ハリントンによってすでに発明されていたが、しかるべき流水を確保しつつ優れた錘(おもり)制作の技術も必要だったことから、当時は裕福な家庭でもあまり普及していなかった。

 陸路、ご主人さまのところへ。途中用事があって、数箇所に立ち寄る。ご主人さま、奥さま*といっしょに食事。ご主人さまはたいへん陽気で、フランスの料理人やお馬係を雇いたいとか、奥さまや子どもにはつけぼくろをさせたいとか、闊達にお話になった。妙な感じがするのだが、ご主人さまはすっかり宮廷人におなりだ。中でも、奥さまが、ジェム嬢さまのお相手には立派な商人がよいとおっしゃると、ご主人さまはこれに対して、彼女が行商人の荷を背負っている姿を見る方がましだ、町人ではなく紳士と結婚してもらいたい、とお答えになった。

奥さま  ご主人さま(エドワード・モンタギュ)の妻。結婚する前はジェマイマ・クルー。ご主人さまとの間に10人の子どもがあり、ピープスのよき理解者でもあった。

 午後、ロンドン市街を通り抜け、聖バーソロミューで家具屋のクロウさん*のところに寄る。新たな弑逆者*の手足がオールダーズゲイト*にかかげられているのを見た。なんとも悲しい光景である。今週と先週は血塗られた週であった。10人が絞首、内臓剔抉、四つ裂きになったのである。帰宅し、郵便で送る叔父への手紙を書く。それから就寝。

クロウさん  ウィリアム・クロウ。ロンドン市の参事会員でもあった。
オールダーズゲイト ロンドンの市街地(シティ)を囲む城門の一つで、シティの北側にあった。
新たな弑逆者 ピープスの日記にある通り、この時期、弑逆者の処刑が続々と行われていた。当時刊行されていた『マーキュリアス・プブリカス(Mercurius Publicus)』によると、前日の19日にはフランシス・ハッカー、ダニエル・アクステル(いずれも軍人で、チャールズ1世の拘禁・処刑に直接かかわった)の2名の処刑記事がある。

11月22日

 今朝、大工がやって来て、家の裏側に、玄関へ通じる戸口を付けてくれた。これはたいへんありがたい。

 昼、妻と私は古くからある取引所*へ歩いて出かけ、彼女はそこで白いネッカチーフを購入してさっそく身に着け、私は手袋を買った。それから馬車に乗ってホワイトホールのフォックス邸*へ。家には夫人がおり、また、ロンドンのある参事会員が、机の上に1,000ポンドか1,400ポンドほどの金貨を並べていた。国王に納める*ものだが、これほど金貨がたくさんあるのを目にしたのは初めてだ。

古くからある取引所  1563年、豪商トマス・グレシャムの提案でシティに設立された取引所。その後、エリザベス1世により「王立取引所」と名付けられた。この時ピープス夫妻が訪れたのは、すでに約一世紀を経た初代の建物であったが、この建物は、その後のロンドン大火で焼失した。
フォックス邸  サー・スティーヴン・フォックス。後に軍主計官。妻はエリザベス・フォックス。
国王に納める 人頭税をめぐってロンドン市が国王に10万ポンドを支払うという交渉があり、それにかかわるものではなかったかとカリフォルニア版では推定している。

 すぐにフォックス氏がやってきて、われわれを丁重に迎え入れてくれた。それから妻と私を、王妃謁見の間*へ連れて行ってくれた。彼は、わが妻を王妃*の椅子の背後に立たせ、私は観客の中に紛れた。やがて、王妃が二人の王女とともに食事の席にやって来た。王妃はかなり小柄で平凡な感じの年配の女性であり、その姿に敬意を覚えることもなければ、衣裳も普通の女性と変わらない。私はオレンジ公妃*には何度もお会いしたことがあり、ヘンリエッタ王女*は美しい方だったが、私の期待をはるかに下回った。髪を耳のところで短くカール*させているのも、私にはかえって貧弱に見えた。

王妃謁見の間 当時王族は、ある特定の日の昼食の様子を公開していた。なお、昼食は一日の主要な食事であった。
王妃 ちなみにここでいう王妃は、チャールズ2世と1662年に結婚する王妃キャサリン・オヴ・ブラガンザではなく、チャールズ2世の母、すなわちチャールズ1世の王妃であったヘンリエッタ・マリア・ステュアートのことで、当時51歳であった。
オレンジ公妃 チャールズ1世の長女のメアリー王女のこと。
ヘンリエッタ王女 ヘンリエッタ・ステュアート。メアリー王女の妹(チャールズ1世の末娘)で、当時16歳。
髪を耳のところで短くカール 「コルク栓抜き型カール」と呼ばれ、ピープスの批判的見解にもかかわらず、当時の流行であった。

晩年のヘンリエッタ・マリア(=チャールズ1世の王妃)。Sir Peter Lelynによる肖像画。

 しかし、彼女のそばに立つわが妻は、二、三のつけぼくろをして美しく着飾っており、王妃よりもはるかにきれいだと思った。

 昼食が終わり、われわれは再びフォックス邸へ。多くの紳士も加わり、たいへん立派な食事であった。すべて、私とわが友人たちのためのものである。ただ私が妻と私自身だけでうかがったので、フォックス氏は食事仲間を呼んで、このすばらしい料理をたいらげるのを手伝わせたというわけだ。食事の最後には、ご主人さまが先日フォックス夫人に贈った金箔のジョッキで、サンドウィッチ卿*に乾杯。

サンドウィッチ卿 もちろんご主人さま(エドワード・モンタギュ)のこと。サンドウィッチ伯爵の称号は、チャールズ2世により1660年にモンタギュに与えられた。なお、サンドウィッチは、「ド」の音を略して、「サニッチ」もしくは「サニッジ」とも発音される。

 食事の後、わが従僕ウィルから、ご主人さまが私のことを探していると聞き、お探ししたところ、ヨーク公爵とともに馬車に乗ってチャリング・クロスへ向かっておられた。追いつこうと試みたが追いつけず、それでフォックス邸へ戻り、ずいぶん丁重に扱われ、また話も弾んだのち、われわれは屋敷を辞した。

妻と私は馬車で家路に着き、私はストランドのメイ・ポールのところで馬車を降りて帰宅する妻を見送った。

 私の方は新しい劇場*へ行って、『裏切り者』*(とてもいい悲劇)の一部を観劇。ムーン*が裏切り者の役を実にうまく演じていた。

新しい劇場  ヴィア・ストリート脇に初の常設劇場として作られた王立劇場のこと。トマス・キリグリューが率いた。後のドルアリー・レイン劇場。『裏切り者』 ジャイムズ・シャーリーの傑作悲劇(初演は1635年)。
ムーン マイケル・ムーン。革命前後にわたって活躍した俳優。

 それからご主人さまのところへ行き、奥さまと長い間お話をした。なかでも彼女は、この機会を捉えて、私が妻の父母をどう扱っているかをお尋ねになった(奥さまはドューリー夫人*と最近この話題をお話になったのである)。その点私は、奥さまにいい説明をした。奥さまはわが妻のことをたいへんよく思っておられるようだ。

ドューリー夫人 詳細不詳。

 そこから夜9時頃、ホワイトホールへ。私に付いてきた小姓のラウド*といっしょに、ヘンリー8世回廊を出、板張りの回廊の奥、ご主人さまがオーモンド卿*と散歩しておられるところへ行こうとしたのだが、出られない。サー・S・モーランドの鍵を借りたのだが、どうにもうまくいかない。ノックを続けていると、ようやく門衛のハリソンさん*がやって来て扉を開けてくれた。

小姓のラウド 詳細不詳。モンタギュ家の小姓であったようだ。
オーモンド卿 オーモンド公爵ジェイムズ・バトラー。アングロ・アイリッシュの政治家で王党派の軍人。アイルランド総督を務めた。
門衛のハリソンさん ジェイムズ・ハリソン。ホワイトホールの門衛。1月18日の項に登場した「ハリソンさん」とは別人。

 セント・オーバンズ卿*の荷物をフランスへ運ぶ小帆船の手配についてご主人さまとお話をした後、ご主人さまと別れて徒歩で帰宅。夜遅く、道もぬかるんでいた。ひどく疲れて就寝。

セント・オーバンズ卿 初代セント・オーバンズ伯爵ヘンリー・ジャーミン。王党派の政治家で、若い頃、チャールズ1世の王妃ヘンリエッタ・マリアの寵愛を受けた。

12月4日

 ホワイトホールのサー・G・カートレット*の部屋へ。士官全員が集合。そこから全員でヨーク公爵のもとへ参上すると、公爵はわれわれを私室へ招き入れてくれ、われわれはそこで、増え続ける艦隊の出費を食い止めるための計画を明らかにした。船員には手取りで給与のひと月分を払い、その後、残りの四か月分を払う、というものである。公爵はこの提案をお気に召し、われわれは彼の命を受けてサー・G・カートレットの部屋へ戻り、議会に提案するため、この計画の起草に取り掛かった。それから私はご主人さまのところへ行き、食事をともにしながら、今日のことをお話した。

サー・G・カートレット ジョージ・カートレット。チャールズ1世および2世を強く支持した王党派の大物政治家、カートレット准男爵。海軍の財務責任者や王室内大臣、国会議員などを歴任した。

 サー・トマス・クルーも今日はご主人さまと食事をいっしょになさり、やはりそこに同席していたボケット婦人*とともに皆、実に楽しく過ごした。婦人はこのところ、いつも楽しそうなのだ。食事の後、サー・トマスとわが奥さま*は、『無口な女』*を劇場へ見に行った。私は水路、帰宅。ヘイターさん*と私は私の私室にこもって、今朝の提案の文章を練った。文書を作ってサー・W・バッテンのところへ持参すると、数人の紳士が彼といっしょにトランプ遊びをしていた(なかでもサー・W・ペンは、酒を飲んでかなり陽気であった)。私は夜中の1時まで彼らの様子をそこで見物した後、サー・W・ペンと帰路につき、そして就寝。

ボケット婦人 詳細は不明だが、ピープスの記述によるとおしゃべりでずうずうしい人であったようだ。だいぶ先になるが、1667年5月1日にも登場する。
わが奥さま ご主人さま(エドワード・モンタギュ)の妻ジェマイマのことで、ピープスは日記においてしばしば my Lady と呼んでいるので、拙訳でも「わが奥さま」とした。
『無口な女』 原題はEpicœne, or The Silent Woman。ベン・ジョンソン作の喜劇。1609年初演。初演当時は不評で、ジョンソン自身も失敗作としたが、王政復古期になってジョン・ドライデンらがこの作品を強く支持し、トマス・キリグリューによってたびたび王立劇場で上演された。
ヘイターさん トマス・ヘイター。ピープスの後輩格で、のちに彼の海軍事務責任者の後任となる。

  今日、議会は、オリヴァー、アイルトン、ブラッドショウ、およびプライド*の遺体を寺院の墓場から引き出し、処刑台まで運んでそこで吊るし、その下に埋めるようにとの議決をした。あのように勇敢な人間たちがこのように不名誉な目にあうとは、なるほど他の点ではやむをえないのかもしれないが、なんとも困惑させられることだ(と思う)。

オリヴァー、アイルトン、ブラッドショウ、プライド それぞれ、オリヴァー・クロムウェル、ヘンリー・アイルトン(オリヴァー・クロムウェルの義理の息子で、革命時には議会派軍の将軍として活躍、チャールズ1世処刑の命令書に署名)、ジョン・ブラッドショウ(チャールズ1世の処刑を決した裁判で判事を務めた)、トマス・プライド(革命時には議会派軍の将軍で、チャールズ1世の処刑を決した裁判の判事)。この議決をした際、議会は、クロムウェルらの「遺体」(bodies)ではなく「死骸」(carcasses)という語を用いたが、ピープスは “bodies” としている。なお、日記の原文では、プライドの箇所が空白になっており、カリフォルニア版の注釈によって補った。

12月31日

 午前中はずっと役所。その後、帰宅。でも食事はせずに出かけ、セント・ポール寺院内で『ヘンリー四世』*の戯曲を買う。それから新劇場へ行き(途中、クルーさんのところへ立ち寄り、そこで食事中の人たちと一口だけいっしょに食べた)、上演を見た。だが、期待が大きかったせいで、あまり面白くなかった。きっと、あまり期待していなければ面白かっただろうと思う。本を買ったのも芝居見物に水を差したのだろう。

『ヘンリー四世』 ウィリアム・シェイクスピアの史劇。二部構成だが、ピープスがこの日観劇したのは、トマス・キリグリューの興行によるその第一部と推定される。

 その後、ご主人さまのところへ。ご主人さまは、ローダーデイル卿*ほか数名の貴顕の方たちと奥でトランプをしていた。そこで私はシプリーさんとハーパーの店*へ行き、ビール一、二杯を飲んで別れた。わが従僕*は、ご主人さまのところから猫を連れて帰っていた。セイラ*がわが妻のためにと彼にあげたものである。わが家は鼠が多くて困っているのだ。

ローダーデイル卿  ジョン・メイトランド。2代伯爵ローダーデイル。チャールズ2世の治下で活躍したスコットランドの有力政治家。
ハーパーの店 ホワイトホール近くの居酒屋。
わが従僕 ウェインマン・バーチ。ピープスに “my boy” と呼ばれた、彼の従僕。当時、10歳から12歳であったという。
セイラ ご主人さま(エドワード・モンタギュ)の家政婦。ファミリー・ネームは不明。

 ホワイトホールで馬車を探していると、私と同じ方へ向かう一人のフランス人がいた。それでいっしょに馬車を雇い、私はフェンチャーチ・ストリートで下ろしてもらった。妙なことにこの人は、尋ねもしないのに自分の身の上話をしてくれた。父親のもとを飛び出してイングランドで国王に仕え、今また帰国するところだ、云々、とのこと。

 帰宅して就寝。

【王政史上、最も波乱に富む一年と言ってもよい1660年が暮れました。国王の処刑、そして弑逆者の処分という血塗られたできごとの後で、これからイギリスは曲がりなりにも新たな国家形成を進めることになりますが、そうした日々の日常が、トイレの機能もままならぬ官舎に住み始めて人付き合いはよいがいささか飲み過ぎ、美人を見かけては声を掛けてしまうのに妻を愛さずにはいられない、そんなピープスの目を通して詳細に語られます。次回もご期待ください。】
























 











12月4日

12月31日