サミュエル・ピープスの日記(4)
翻訳・解説:原田範行(慶應義塾大学教授)
【国王一行やご主人さまとともに意気揚々とロンドンへ戻ったピープス。妻エリザベスも安堵したことであろう。これで王政復古(the Restoration)が実現したわけだが、事はそれほど容易には片付かない。下っ端役人の彼の前には、公私にわたってこまごまとした仕事が山積みである(なお、今月から登場人物索引を用意したので、適宜参照されたい)。】
トップの画像:クロムウェル、ブラッドショウ、アイルトンの「死後処刑」の描写。Wikipediaも参照。
6月13日
ご主人さまのもとへ。それから海軍会計官*のところへ。クリード氏とパーサーのピアースさんといっしょにローリンソンの店*へ行く。そこへワイト叔父*もやって来たので、みなに12シリングを振る舞ってやった。それからクルー氏*のところへ。私は新しいカーペットにしみをつけてしまったが、真水を使ってまたきれいにした。
ご主人さまといっしょに水路、ボートでウェストミンスターへ行き、それから海軍本部*へ。今は新しい場所に移っている。
そこで仕事を片付けた後、ライン・ワインの店へ、ブラックバーン氏*とクリード氏、それにワイヴェルさん*とで行く。
それからご主人さまの宿所へ行き、その後、父の家へ、それから就寝。
6月21日
ご主人さまのもとへ。仕事が山積。ご主人さまといっしょに枢密院*へ向かい、そこでご主人さまは宣誓をなさった。枢密顧問官就任の手数料は26ポンド。
ウェストミンスターの居酒屋「ドッグ」へ行く。マーフォードさん*が、マライア号のカール艦長*および彼らの友人二人と一緒に飲みに来ていた。艦長は、今日私がマライア号に対して発した1660年4月20日付*の任命辞令のお礼にと、金貨五枚を私に、また銀のコップを妻にくれた。
それから議事堂入口へ向かい、クルー氏の屋敷でご主人さまとともに食事。ご主人さまといっしょに国王衣裳室*を見学。そこからタウンゼンドさん*が、われわれを茶色の服を着た貧しい子どもたちの監督をしている人たちのところへ連れていった。子どもたちはここで11年間も暮らしてきたのである。この子たちをどのように扱えばよいか、ご主人さまは考えあぐねておられる。この建物はご主人さまがお使いになることになるからだ。子どもたちが歌を上手に歌ったので、ご主人さまは帰り際に私に命じて金貨五枚をこの子たちにあげた。
それからホワイトホールへ戻る。国王陛下は不在だったので、ご主人さまと私は長い間散歩をし、護国卿*の愚かさについて話をした。彼は、彼の父が彼に残したものをすべて失ってしまったのである。ご主人さまがサウンド海峡に向かわれた際、護国卿が最後にご主人さまにかけた言葉は、次のようなものであったという。すなわち、あの当時の反革命的企て、つまりそれは後に彼の命取りになるのだが、そんなことにご主人さまが関与するようであれば、自分は、あなたが(つまりご主人さまのこと)帰還の折に墓場に入っているのを見る方がはるかに喜びとするものだ、という言葉であったという。加えて護国卿は、G・モンタギュ、ブログヒル卿、ジョーンズ、国務大臣らが革命政権継続にかかわる政治を自分にやれと言うなら、何であれ自分は喜んでやるつもりだ、とも言ったそうだ。そこから妻のもとへ。途中、ブラグレイヴ氏*に会ったのでいっしょに帰宅し、フラジョレット*のレッスンをしてもらった。また彼には、銀のコップの使い始めを妻と私といっしょにしてもらった。
それから父の家へ。サー・トマス・ハニウッド*とその家族が突然やって来たので、われわれは階段を三つ上がったところの小さな部屋でみないっしょに寝なければならなかった。
6月29日
この一日、二日というもの、メイドのジェインが足を痛めて動けなくなってしまった。わが家は、彼女なしではどうしてよいか分からない。起床してホワイトホールへ行き、公爵からの海軍書記官許可書*を戴く。また、国務大臣から、ポーツマス伯爵にして*ヒンチングブルックのモンタギュ子爵であるご主人さまからの許可書も頂戴した。
それからご主人さまのもとへ向かい、このことをお知らせした。その後、サー・ジェフリー・パーマー*のところへ行ってこれらを渡す。それを基にした任命証書を書いてもらうためだ。彼によると、ご主人さまには特許状の前文をうまく書けるラテン語の使い手が必要だ、特許状には最近の業績をできる限りうまく書く必要があるのだから、とのこと。また彼は私に、サー・J・グリーンヴィル*が自分の特許状を大げさで派手な調子に仕上げさせたこと、彼としてはそれが好きではないこと、だが、サー・リチャード・ファンショウ*はマンク将軍の文書を実によく仕上げたこと、などを話してくれた。
ウェストミンスターへ戻り、宮殿でタウンゼンドさんに会う。彼と私、その他一、二名で「レッグ(脚)」へ行って食事。それからホワイトホールへ行くと、海軍本部でハッチンソン氏*から、私の前任の海軍書記官であるバーロウ氏*がまだ存命であり、彼がその地位を求めてロンドンに向かっているということを聞いた。それで私はいささか悲しくなってしまった。夜、ご主人さまにそのことをお話すると、特許状を取得するようにと命じられた。彼を追い出すために自分もできるだけのことはしようとおっしゃる。この夜、ご主人さまと私は艦長名簿に目を通し、ご主人さまが除外したいと考えておられる数名にしるしを付けた。帰宅して就寝。わが家のメイドは足の具合が悪く、ここ二日間、寝込んでいる。
7月7日
ご主人さまのもとへ。私の書記官の地位を買いたいという者が現れたので、100ポンドは必要と言ってやった。枢密院へ行き、海軍士官給与の前払いをするようにとの命令書を受け取った。私の給料の方は350ポンド*に上がっている。それから王立取引所へ行き、ルーベンスを版画にしたラゴの佳作*2点を購入。その後、ワイト叔父夫婦と食事。叔母の妹コン*とその夫もいっしょ。それから叔父とともにローリンソンの店へ行き、その後、海軍本部へ。役所の書類や物品、帳簿の目録作りを始めた。それからご主人さまのところへ。遅くまで手紙を書く。それから帰宅、就寝。
7月8日
日曜日。ホワイトホールの礼拝堂へ。大法官の前をキップス氏*といっしょに歩いていたので簡単に中へ入れた。非常によい音楽*を聴いた。これほどのオルガンと法衣に身を包んだ聖歌隊の歌は、覚えている限り、人生ではじめてである。チチェスター司教*が国王の前で説教をしたが、まったくご機嫌取りの説教であった。私は、聖職者があれこれ国政に口を出すのは嫌いだ。ルエリン、ソールズベリー*といっしょに小さな料理店で食事。帰宅して午後は、説教が終わるまで妻といっしょに過ごす。フェアブラザーさん*が呼びにやってきて、われわれは父の家へ夕食に出かける。フェアブラザー氏によると、彼は代理人を立てて、私に修士号が授与されるよう完璧に手はずを整えたという――それは嬉しいことだが、いとこのロジャー・ピープス*が先日、そんなことはやめるように言っていたのを思い出す。
食事をしていると、W・ハウがいっしょに夕食を取ろうとやって来た。食後帰宅して、就寝。
7月9日
午前中はずっとサー・G・パーマーのところで、任命証書を作ってもらうことについての相談をする。それから海軍本部へ行き、午後は会議に出席。はじめて支払い証書に署名*をした。その後、ホランド艦長*とハリッチのブラウンさん*に連れられて居酒屋へ行き、軽食をご馳走になる。そこからテンプル*へ行き、私の任命証書発行手続きを催促。その後、ご主人さまのところへ帰り、就寝。
8月8日
役所で会議。その後、帰宅して昼食。食事の後、妻といっしょに水路、ケイト・スターピンのところへ行く。ケイトと女主人のパイさんといっしょに、われわれは、ケイトのプチ氏*との結婚について話した。パイさんと私からの最良のアドバイスは、プチ氏が何らかの生計の資を得、ケイトの持参金に頼らずとも生活できるようになるまで結婚を延ばしてはどうか、というもの。それからバトラーさんの家へ行き、娘たちに会う。われわれが彼女たちを訪問するのははじめてだ。皆たいへんかわいらしい。ディロン大佐*もそこにいた。実に陽気で機知に富む人だ。もっとも私が思うに、皆派手な暮らしをしているが、実はとても貧しいようだ。その後、妻と私はブラックバーンさん*に会いに行く。彼女は一日か二日前に妻に会いに来てくれたのだが、妻は体調が悪くて会えなかったのだ。だがブラックバーンさんは家にいなかったので、妻は実家の母を訪ね*、私は王璽尚書局へ。夜、王璽尚書局から、ウッドソンさん*とジェニングさん*と私は居酒屋「ザ・サン(太陽)」へ行き、そこに遅くまでいた。それからご主人さまのところへ行くと、妻がブラックバーンさんのところから私に会いに来ていた。私はご主人さまのもとで用事を済ませた後、妻といっしょにハントさん*の家へ行った。今晩はぜひとも泊まっていってほしいと彼女は言う。妻といっしょにこんなに遅くまでいたのだから、私たちを家には帰したくない、と言うのである。
われわれは彼女の家で一晩中、楽しくまたくつろいで過ごした。明け方、私は妻と歓びを味わった。彼女の痛みが和らいで後*、はじめてである。
8月21日
朝、サー・W・ペン*と水路でホワイトホールへ向かう。途中彼は、サー・W・バッテンのもとでどう教育されたかについて話してくれた。われわれはコヴェントリー氏*の部屋へ行き、午後の委員会に備え、私が海軍の負債に関する文書*をどう書くかについて相談をした。それから海軍本部へ行き、ヒューアさん*とともに文書を書く。その後、ヒューアさんは叔母のブラックバーンさんのところへ。(今日、彼女の家で親類が一人亡くなり、今晩埋葬の予定。そのためヒューアさんは遅くまで戻らなかった。)私はウェストミンスター・ホールへ。クルー氏と会って食事をする。その場にヒックマン氏*というオクスフォードの人がいて、新任の旧聖職者たちの横暴を激しくなじっていた。信仰心に篤いコレッジのフェロウたちを追い出し、彼らが大酒飲みだと罵っているという。もし本当だとすれば、嘆かわしいことである。
その後ウェストミンスターへ行き、ピムさん*を訪問。ビロードの上着(こんな服をあつらえたのは初めてだ)が仕上がっており、ビロードのモンテロ帽*もできていた。私はそれらを持って王璽尚書局へ行き、しっかりしまい込んだ。それからクィーンズ・コートへ向かい、ずいぶん待たされた後、バーチ大佐*と面談。彼は私が作った文書を読み、幾つか加えてほしいとのことだったので、そうした。それから王璽尚書局へ戻ったが、あまりすることがなかったので、ムーアさんとロンドンへ向かっていると、その途中、エッチャーさん*(モンタギュ氏の召使)にサボイ近くで会った。彼に連れられてわれわれは、居酒屋「ブレイズン・ノーズ(真鍮の鼻)」へ行き、そこで飲んだ。別れてから私は馬車で帰宅。今晩は郵便配達日だったので、ご主人さまに、万事順調である旨を手紙でお知らせした。マンク将軍はアイルランド総督となり、また(総督代理に任命された)ロバーツ卿*は、国王以外の人の代理になるのは好まぬと言ってご機嫌斜めであるという。その後、就寝。
8月31日
朝早く出かけて、ホワイトホールでご主人さまにご挨拶。彼といっしょに公爵のお部屋へ。それからシージング・レイン*のわが役所へ。家へ帰って昼食。その後、再びご主人さまのもとへ。ご主人さまは、急な命令*があって航海に出ることになったので、そのことについての書類を書くようにと私におっしゃった。今日午後、わが家を手放して*ドールトンさん*(国王酒庫係、古いワイン・セラーで二、三度、いっしょに飲んだことがある)に41ポンドで譲ることに同意した。夜もなお王璽尚書局に詰め、明日の明け渡し*に備えて今月分の清算。しかし、いったい誰に対してなのかは分からない。われわれはビカースタッフさん*になればよいと思っていて、私は彼とマシューズさん*といっしょに、役所を出た後、遅くまで「ザ・サン(太陽)」で飲みながら、明日、どうバロン*に対応するかを話し合った。それから帰宅して就寝。私に関しては万事うまくいっていることを神に感謝。わが運命の変転に備えさせたまえと神に祈る。
9月13日
朝、イースト老人*が手紙を持ってやってきたので、ノースダウン・エール*を一本あげたところ、かわいそうにすっかり酔っぱらってしまった。
午後、妻は親類のスコット*の家の子どもの葬式に出かけた。注目すべきことに、今月、ワイト叔母は二人の女の子を産み、同じく親類のストラドウィック*は女の子と男の子を一人ずつ、それにスコットは男の子を産んだわけだが、みんな死んでしまったのである。
私の方は、午後、ウェストミンスターへ行った。ドールトンさんが家の代金を用意してくれていたが、書類がまだできていなかったので、今日はお預けとなった。ホーリーさんと会う。彼は今、長らく住んでいたボウヤーさんのところから引っ越し中だという。私は彼とW・ボウヤー*を連れて「ザ・スワン(白鳥)」へ行き、飲んだ。ホーリー氏は私に黒の小さなステッキ*をくれた。
水路、帰宅。
今日はグロスター公爵が天然痘で*お亡くなりになった。医者たちのたいへんな怠慢によるものだ。
10月13日
午前中、ご主人さまのところへ。そこで、カタンス艦長に会う。ただ、ご主人さまはまだ起きていらっしゃらなかったので、私はチャリング・クロスへ行き、ハリソン少将*が吊るされ、内臓を抉り取られ、四つ裂きにされるのを見に行った――そしてそれはその通り、実行された――少将は、このような状況において考えられる限り、陽気に振る舞っていた。彼の遺体はすぐさま綱から切り落とされ、頭と心臓が人々の面前に示されたが、これにより大きな歓声が湧き起こった。少将は、キリストの右側に立って、今自分を裁いた連中をすぐに裁きに来ると語っていたそうだ。少将の妻も、彼の再来を期待しているという。
かくして私は、ホワイトホールで国王が処刑されるのを見*、また、国王への復讐として最初に流された血をチャリング・クロスで見る機会を得たことになる。その後、ご主人さまのところへうかがい、カタンス艦長とシプリーさんを連れて居酒屋「ザ・サン(太陽)」へ行き、彼らに牡蛎をご馳走した。それから、水路、帰宅。家では妻のものがだいぶ散らかっていたので私は腹を立て、怒りのあまり、妻にオランダで買ってあげたきれいな小籠を蹴飛ばして壊してしまった。してしまった後で、私はひどく後悔した。
午後の間はずっと家にいて、書斎の棚を取り付けた。夜、就寝。
10月20日
今朝、ある人が、わが家の地下室のどこに窓をつけたらよいか*、相談に来た。サー・W・バッテンがふさいでしまったものの代わりである。様子を見に地下室へ行ったところ、足を糞の山に踏み入れてしまった。ターナーさん*のところのトイレがあふれて*、わが地下室に入ってきてしまったものらしい。困ったことだ。なんとかしよう。
陸路、ご主人さまのところへ。途中用事があって、数箇所に立ち寄る。ご主人さま、奥さま*といっしょに食事。ご主人さまはたいへん陽気で、フランスの料理人やお馬係を雇いたいとか、奥さまや子どもにはつけぼくろをさせたいとか、闊達にお話になった。妙な感じがするのだが、ご主人さまはすっかり宮廷人におなりだ。中でも、奥さまが、ジェム嬢さまのお相手には立派な商人がよいとおっしゃると、ご主人さまはこれに対して、彼女が行商人の荷を背負っている姿を見る方がましだ、町人ではなく紳士と結婚してもらいたい、とお答えになった。
午後、ロンドン市街を通り抜け、聖バーソロミューで家具屋のクロウさん*のところに寄る。新たな弑逆者*の手足がオールダーズゲイト*にかかげられているのを見た。なんとも悲しい光景である。今週と先週は血塗られた週であった。10人が絞首、内臓剔抉、四つ裂きになったのである。帰宅し、郵便で送る叔父への手紙を書く。それから就寝。
11月22日
今朝、大工がやって来て、家の裏側に、玄関へ通じる戸口を付けてくれた。これはたいへんありがたい。
昼、妻と私は古くからある取引所*へ歩いて出かけ、彼女はそこで白いネッカチーフを購入してさっそく身に着け、私は手袋を買った。それから馬車に乗ってホワイトホールのフォックス邸*へ。家には夫人がおり、また、ロンドンのある参事会員が、机の上に1,000ポンドか1,400ポンドほどの金貨を並べていた。国王に納める*ものだが、これほど金貨がたくさんあるのを目にしたのは初めてだ。
すぐにフォックス氏がやってきて、われわれを丁重に迎え入れてくれた。それから妻と私を、王妃謁見の間*へ連れて行ってくれた。彼は、わが妻を王妃*の椅子の背後に立たせ、私は観客の中に紛れた。やがて、王妃が二人の王女とともに食事の席にやって来た。王妃はかなり小柄で平凡な感じの年配の女性であり、その姿に敬意を覚えることもなければ、衣裳も普通の女性と変わらない。私はオレンジ公妃*には何度もお会いしたことがあり、ヘンリエッタ王女*は美しい方だったが、私の期待をはるかに下回った。髪を耳のところで短くカール*させているのも、私にはかえって貧弱に見えた。
しかし、彼女のそばに立つわが妻は、二、三のつけぼくろをして美しく着飾っており、王妃よりもはるかにきれいだと思った。
昼食が終わり、われわれは再びフォックス邸へ。多くの紳士も加わり、たいへん立派な食事であった。すべて、私とわが友人たちのためのものである。ただ私が妻と私自身だけでうかがったので、フォックス氏は食事仲間を呼んで、このすばらしい料理をたいらげるのを手伝わせたというわけだ。食事の最後には、ご主人さまが先日フォックス夫人に贈った金箔のジョッキで、サンドウィッチ卿*に乾杯。
食事の後、わが従僕ウィルから、ご主人さまが私のことを探していると聞き、お探ししたところ、ヨーク公爵とともに馬車に乗ってチャリング・クロスへ向かっておられた。追いつこうと試みたが追いつけず、それでフォックス邸へ戻り、ずいぶん丁重に扱われ、また話も弾んだのち、われわれは屋敷を辞した。
妻と私は馬車で家路に着き、私はストランドのメイ・ポールのところで馬車を降りて帰宅する妻を見送った。
私の方は新しい劇場*へ行って、『裏切り者』*(とてもいい悲劇)の一部を観劇。ムーン*が裏切り者の役を実にうまく演じていた。
それからご主人さまのところへ行き、奥さまと長い間お話をした。なかでも彼女は、この機会を捉えて、私が妻の父母をどう扱っているかをお尋ねになった(奥さまはドューリー夫人*と最近この話題をお話になったのである)。その点私は、奥さまにいい説明をした。奥さまはわが妻のことをたいへんよく思っておられるようだ。
そこから夜9時頃、ホワイトホールへ。私に付いてきた小姓のラウド*といっしょに、ヘンリー8世回廊を出、板張りの回廊の奥、ご主人さまがオーモンド卿*と散歩しておられるところへ行こうとしたのだが、出られない。サー・S・モーランドの鍵を借りたのだが、どうにもうまくいかない。ノックを続けていると、ようやく門衛のハリソンさん*がやって来て扉を開けてくれた。
セント・オーバンズ卿*の荷物をフランスへ運ぶ小帆船の手配についてご主人さまとお話をした後、ご主人さまと別れて徒歩で帰宅。夜遅く、道もぬかるんでいた。ひどく疲れて就寝。
12月4日
ホワイトホールのサー・G・カートレット*の部屋へ。士官全員が集合。そこから全員でヨーク公爵のもとへ参上すると、公爵はわれわれを私室へ招き入れてくれ、われわれはそこで、増え続ける艦隊の出費を食い止めるための計画を明らかにした。船員には手取りで給与のひと月分を払い、その後、残りの四か月分を払う、というものである。公爵はこの提案をお気に召し、われわれは彼の命を受けてサー・G・カートレットの部屋へ戻り、議会に提案するため、この計画の起草に取り掛かった。それから私はご主人さまのところへ行き、食事をともにしながら、今日のことをお話した。
サー・トマス・クルーも今日はご主人さまと食事をいっしょになさり、やはりそこに同席していたボケット婦人*とともに皆、実に楽しく過ごした。婦人はこのところ、いつも楽しそうなのだ。食事の後、サー・トマスとわが奥さま*は、『無口な女』*を劇場へ見に行った。私は水路、帰宅。ヘイターさん*と私は私の私室にこもって、今朝の提案の文章を練った。文書を作ってサー・W・バッテンのところへ持参すると、数人の紳士が彼といっしょにトランプ遊びをしていた(なかでもサー・W・ペンは、酒を飲んでかなり陽気であった)。私は夜中の1時まで彼らの様子をそこで見物した後、サー・W・ペンと帰路につき、そして就寝。
今日、議会は、オリヴァー、アイルトン、ブラッドショウ、およびプライド*の遺体を寺院の墓場から引き出し、処刑台まで運んでそこで吊るし、その下に埋めるようにとの議決をした。あのように勇敢な人間たちがこのように不名誉な目にあうとは、なるほど他の点ではやむをえないのかもしれないが、なんとも困惑させられることだ(と思う)。
12月31日
午前中はずっと役所。その後、帰宅。でも食事はせずに出かけ、セント・ポール寺院内で『ヘンリー四世』*の戯曲を買う。それから新劇場へ行き(途中、クルーさんのところへ立ち寄り、そこで食事中の人たちと一口だけいっしょに食べた)、上演を見た。だが、期待が大きかったせいで、あまり面白くなかった。きっと、あまり期待していなければ面白かっただろうと思う。本を買ったのも芝居見物に水を差したのだろう。
その後、ご主人さまのところへ。ご主人さまは、ローダーデイル卿*ほか数名の貴顕の方たちと奥でトランプをしていた。そこで私はシプリーさんとハーパーの店*へ行き、ビール一、二杯を飲んで別れた。わが従僕*は、ご主人さまのところから猫を連れて帰っていた。セイラ*がわが妻のためにと彼にあげたものである。わが家は鼠が多くて困っているのだ。
ホワイトホールで馬車を探していると、私と同じ方へ向かう一人のフランス人がいた。それでいっしょに馬車を雇い、私はフェンチャーチ・ストリートで下ろしてもらった。妙なことにこの人は、尋ねもしないのに自分の身の上話をしてくれた。父親のもとを飛び出してイングランドで国王に仕え、今また帰国するところだ、云々、とのこと。
帰宅して就寝。
【王政史上、最も波乱に富む一年と言ってもよい1660年が暮れました。国王の処刑、そして弑逆者の処分という血塗られたできごとの後で、これからイギリスは曲がりなりにも新たな国家形成を進めることになりますが、そうした日々の日常が、トイレの機能もままならぬ官舎に住み始めて人付き合いはよいがいささか飲み過ぎ、美人を見かけては声を掛けてしまうのに妻を愛さずにはいられない、そんなピープスの目を通して詳細に語られます。次回もご期待ください。】
12月4日
12月31日