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サミュエル・ピープスの日記(5)

翻訳・解説:原田範行(慶應義塾大学教授)

【日記を書き始めて一年が経過し、ピープスは次第に王政復古後の政治の中枢にかかわるようになっていきます。混乱がまだまだ収まらぬ中、チャールズ2世は戴冠式の日を迎えますが、相変らず好奇心旺盛にして観察好き、芝居と音楽と酒をこよなく愛するわれらがピープスは、自由闊達に当時の社会を活写しています。それにしても、式典の最中、自然の欲求にしたがってこれを抜け出してしまうとは・・・。】

トップの画像:1661年4月23日、ウェストミンスター寺院でのチャールズ2世の戴冠式。


1661年

 昨年末から新年にかけて、私は、高等官の一人として海軍省に属する家の一つで暮らしている。ここに住んでもう半年だ。改修のため職人といろいろあったが、それもようやく落ち着いた。いっしょに暮しているのは、私と妻、ジェイン、ウィル・ヒューア、ジェインの弟ウェインマンである。

 私は相変らず健康で、たいへん調子がよく、元気いっぱいだ。神に祝福あれ。妹のポーリーナ*もここに住まわせるつもりである。国のことについては――国王は王位に落ち着かれ、皆に愛されている。ヨーク公は最近、大法官の息女*と結婚されたが、これはあまり喜ばれていない。王妃は、ヘンリエッタ王女とともに*フランスへお帰りになろうとしている。オレンジ公妃*は最近お亡くなりになり、われわれも新たに彼女のための喪に服した。

ポーリーナ   ピープスの妹。ピープス家としばらく同居し、その家政を手伝うことになる。
大法官の息女 ヨーク公(後の国王ジェイムズ2世)と結婚したのは、大法官であった初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイドの娘アン・ハイド。後の国王メアリー2世およびアン女王の母である。 
王妃は、ヘンリエッタ王女とともに  つまり、チャールズ2世の母であるヘンリエッタ・マリア・ステュアートとその末娘(=チャールズ2世の妹)ヘンリエッタ・ステュアートのこと。
オレンジ公妃  チャールズ1世の長女メアリー王女のことで、1660年12月24日、天然痘のために29歳の若さで亡くなった。

 われわれはまた、最近、大きな陰謀事件*に驚愕した。多くの者が捕らえられ、事件の恐怖はまだ落ち着いていない。議会は、国王のためにたいへんな尽力をしたのだが、また党派的行動が強くなってきたので、国王は先月、つまり12月29日にこれを解散した。新たな議会*が迅速に選ばれるであろう。

大きな陰謀事件 「オーヴァトンの陰謀」と呼ばれる事件で、1660年12月16日に発覚。ロバート・オーヴァトン少将は、ピューリタン革命時、議会派の軍を率いて活躍したが、その過激な思想によって共和制時代にはたびたび逮捕・拘束された。1660年3月にもハルで蜂起したが失敗に終わっている。1660年12月当時、オーヴァトンはロンドン塔に幽閉されていたが、40人ほどの兵士を率いてホワイトホールに火をかけ、国王およびジョージ・マンクの暗殺を謀ったとの嫌疑をかけられたのであった。オーヴァトンはピープスにも面会して嫌疑を否定。彼が指示してロンドンに運び込んだとされた武器は、すべて売るためだったと述べている。
新たな議会 総選挙の後、国王が新たに招集した議会は、1661年5月8日に開会している。

 今やわが財産は正味300ポンド。あらゆる品物、あらゆる借金はすべて支払い済み、きれいさっぱりだ。

1月3日

 朝早く財務省へ出かけ、ご主人さまと私の所持金を勘定した。970ポンドほどだ。それからウィルの店(ウィルズ)へ行き、スパイサー*といっしょに、ウィルが出してくれた豚の脚肉のローストで食事をした。その後私は劇場へ。『乞食のブッシュ』*をやっていた。なかなかよい出来で、私はここで初めて舞台に立つ女性*を見た。それから父の家へ行ってみると、母は運送屋のバード*に連れられてブランプトン*へ出かけていた。伯父のたっての願いによるもので、伯母の命が危ないのである。その後、帰宅。

スパイサー ジャック・スパイサー。王璽尚書局事務官。
『乞食のブッシュ』 ジョン・フレッチャーおよびフィリップ・マッシンジャーによる喜劇。1622年初演で、戯曲は1647年に刊行されている。
初めて舞台に立つ女性 1629年、ブラックフライヤーズ劇場に出たフランス人女優や、1656年、ラトランド・ハウスでのオペラに登場したエドワード・コールマン女史など、女優の登場はこの時が初めてであったわけではないが、ピープスの記述は女優登場のきわめて早い時期の記録と言える。
運送屋のバード バード(もしくはビアード)はロンドン北郊ハンティンドンの運送屋。当時、ロンドンと郊外を結ぶこうした運送業者は二百から三百もあったという。荷物や手紙だけでなく、いっしょに人を運ぶこともあった。
ブランプトン ハンティンドンから二マイルほど南西にある村。ピープスの伯父ロバート・ピープスは地方行政官であった。

1月7日

 今朝は寝床に報せが来て、夜、狂信徒による騒動*があったとのこと。蜂起して六、七人を殺害、皆、逃亡したという。市長ならびに全シティは武装しており、その数は四千人あまり*。役所へ出かけ、その後、食事へ。弟のトム*もやって来て、いっしょに食べる。食事の後(12シリングを従僕に渡し、夜食べるケーキを買っておくように言った、今日は十二夜なのだから)、トムと私と妻は劇場へ行き、『無口な女』*を観た。この芝居を見るのは初めてで、なかなか見事な劇である。なかでも少年キナストン*が三つの姿で現れたのはよかった。つまりその一、普通の服を着た貧しい女性として現れ、モロース*を喜ばせる。次いで、豪華な衣装を身にまとった洒落者として登場したが、その見事な扮装の彼女は、明らかに場内随一の美人である。そして最後に、今度は男として登場。ここでもやはり場内随一の美男子であった。観劇の後、松明の明かりで、親戚のストラドウィックの家*へ。そこには父とわれわれとピープス博士*と、それからスコットとその妻*、ワード氏*とかいう人とその妻がいた。おいしく夜食をいただいた後、われわれは例の極上のケーキを取り出した。女王のしるしを切ってしまったので、二人の女王ができた。これは私の妻とワード夫人。国王のしるし*の方はどこかへ行ってしまったので博士を国王に選び、博士にはワインを注文してもらった。それから帰宅。その途中、多くの場所で厳しい尋問を受けた。もっともひどかった時期よりも厳しく、狂信徒の暴動再発への恐怖感がある。目下のところ、誰かが逮捕されたという話は聞いていない。

 狂信徒による騒動 トマス・ヴェナーを首謀者とする第五王国派(急進的なピューリタンの一派)による暴動で、約60名が武装して集結し、キリストの名において国を支配することを唱えた。
四千人あまり 原文では「四万人」となっているが、これは誤り。
弟のトム トマス・ピープス。日記作家の弟で、伯父のトマス・ピープスとは別人。
『無口な女』 1660年12月4日の項を参照。
キナストン エドワード・キナストン。女性を演じた最後の少年俳優と言われる。
モロース キナストン演じる美しいエピセーネ(実は男)に恋してしまう裕福な老人。
親戚のストラドウィックの家 トマスとエリザベスのストラドウィック夫妻の家のこと。エリザベスは、サミュエル・ピープスから見ると、祖父トマスの甥でアイルランドの首席裁判官を務めたリチャード・ピープスの娘にあたる。なお、トマスは、糧食調達の仕事に従事していた。
ピープス博士 トマス・ピープス。サミュエル・ピープスの祖父トマスの弟のトールボット・ピープスの息子。外科医でケンブリッジ大学トリニティ・ホールのフェロウ。
スコットとその妻 ベンジャミンとジュディスのスコット夫妻。ジュディスはエリザベス・ストラドウィックと同じく、リチャード・ピープスの娘。
ワード氏 詳細不明。
女王のしるし 十二夜に供されるケーキには、インゲン豆とエンドウ豆が乗っており、それを受け取った者が、それぞれ国王、女王の役目をすることになっていた。つまり、ピープス博士は、国王の役目を果たすべくワインをご馳走することになったのである。以下のサイトのThe Twelfth Night Cakeの項目も参照。

 帰宅したのは真夜中の十二時すぎ、月明かりが実にきれいだった。帰ってみると、家の者たちはずいぶん陽気にやっていたようだ。妻が後で話してくれたところによると、デイヴィスの息子*や隣人たちも加わって楽しくやっていたらしい。でも、それも結構なことだ。

デイヴィスの息子 ジャック・デイヴィス。父ジョンと同様、海軍省の事務官であった。

1月31日

 今朝、コヴェントリー氏*とともにホワイトホールで、ご主人さまの松板をリンへ*運ぶ船について協議。ギフト号*にした。それから昼に、ご主人さまのところへ。奥さまのお加減があまりよくなかったので、一口食事をして劇場へ行き、貴婦人などなどのグループに混ざって平土間に腰を下ろした。『アーガラスとパーセニア』*の初演を観ようと、劇場は超満員。実際、よい芝居であったが、いささか期待しすぎたのがよくなかった。何事も期待のしすぎはよくない。それから母に会おうとして父の家へ行った。母はブランプトンから帰って来たところだったが、元気にしていた。母によれば、伯母はだいぶ持ち直したものの、そう長くはもつまいとのこと。伯父は元気で、母の話では、伯母が亡くなった後、再婚しようとしているようだ。神よ、禁じたまえ。その後、帰宅。

コヴェントリー氏  ウィリアム・コヴェントリー。政治家で、海軍の改革に手腕を発揮した。汚職の噂が絶えなかったが、ピープスはその力量を評価していた。
松板をリンへ  代々モンタギュー伯爵家の邸宅として使われることになるヒンチンブルック・ハウス(イングランド東部)を修復するため、木材をリン(イングランド東部の町で、ヘンリー八世の宗教改革以降、キングズ・リンと呼ばれる)へ運ぶことになったことによる。リンからヒンチンブルックまではウーズ川を利用した。
ギフト号  もともとはスペインの軍艦で軍事使用されていたが、このような運搬にも利用されていたことが分かる。
『アーガラスとパーセニア』  ヘンリー・グラップソーンによる牧歌劇。1632年から38年にかけて執筆され、1639年に出版された。この日が、王政復古後の初演である。
神よ、禁じたまえ ピープスは、実は伯父ロバートの相続人になっており、その財産の行方に無関心ではいられなかった。特にブランプトンの家は風光明媚な地にあり、ピープスは引退後にそこへ住みたいと考えていたようだ。もっとも、この伯父は、実際には伯母のアンよりも三か月早く、1661年に病没している。

エドワード・モンタギュのヒンチンブルック邸
(現在は小学校および会議場として使用されている)

2月13日

 午前中はずっと役所で仕事。昼食は家でとる、哀れなウッドさんがいっしょ。食事の後、彼は私にお金を借りようとしたが、貸さなかった。その後、馬車で、サー・W・ペンとともにホワイトホールへ。あまり仕事もなかったので、ローリンソンの店*へ戻り、彼といっしょに中へ入ってワインを一杯ご馳走した。サー・W・ペンは、ローリンソンさんと旧知の仲だったのである。この店で私はワイト叔父に会い、彼もわれわれといっしょに飲んだ。それから、ワイト叔父*とともにサー・W・バッテンの家へ。妻をそこへ呼び、われわれは明日に備えてヴァレンタインの恋人を選んだ。妻が私を選んでくれので*、私はたいへん嬉しい。バッテン夫人はサー・W・ペンを、といった具合。ずいぶん遅くまでそこにいて、それから帰宅、就寝。バッテン夫人*が私の風邪薬にと、スプーンひと匙ほどのはちみつをくれた。

 ローリンソンの店 ロンドンのシティ東部フェンチャーチ・ストリート沿いにあった「マイター亭」のこと。鹿のパイ包みが名物で、ピープスの大好物であった。店の主人のダン・ローリンソンは熱烈な王党派で、チャールズ1世処刑の際には、危険をも顧みず、弔意を示すしるしを店に掲げたという。
ワイト叔父 ウィリアム・ワイト。サミュエル・ピープスの父ジョンの異母弟。魚屋と雑貨屋を営んでいた。
妻が私を選んでくれたので ところがピープス自身は、2月14日には、「独りよがり(complacency)」にもバッテンの未婚の娘マーサを選んでいる。
バッテン夫人 エリザベス・バッテン。

2月18日

 午前中はずっと役所で仕事。家へ帰って昼食。たいへんなご馳走に、妻と私だけ。めったにないことだ。午後、妻と私、それに、わがヴァレンタインの相手であったマーサ・バッテン嬢を連れて王立取引所へ出かけ、刺繍の入った手袋ひとつと、普通の白手袋六つを購入。しめて四〇シリングをマーサ嬢のために払った。それからロンバード通りの端の織物屋へ行き、彼女は絹織物ひとそろいを自分で購入。その後、帰宅。夜、いつもの仲間やサー・ウィリアム・ペンをわが家に呼び、ライン地方のワインや砂糖を振る舞って、夜遅くまで。それから就寝。

 国王陛下はすでにリーニュ公子の姪*と結婚していて息子が二人もいる、との噂がしきりにささやかれている。そんな話を聞くのは残念だが、ヨーク公一家が王位に就くよりはまだましだ。なにしろヨーク公はカトリック信者の友*であることを公言されているのだから。

リーニュ公子の姪 リーニュ公子とは、ベルギーの貴族クロード・ラモラルのこと。スペイン王カルロス2世の大使として、イングランドのチャールズ2世の宮廷を訪れた。(当時のベルギーは、なおスペインの支配下にあった。)リーニュ公子に「姪」はなく、噂が立つとすればそれの妹のことだが、いずれにしても根拠に欠ける話であった。
ヨーク公はカトリック信者の友 ヨーク公(後のジェイムズ2世)がカトリックの信仰に転じたのは1660年代後半だが、この時すでにカトリックの信者を重用していた。

2月28日

 朝早く、ご主人さまのところへうかがう。少しお話をした後、ホワイトホールの桟橋でボートを雇い、レドリフへ。だが途中、カタンス(ロジャーの方)とテディマン*の両艦長のボートに追いついたので、いっしょにクウィーンズハイズで上陸し、皆で居酒屋へ行って牡蛎ひと樽を食し、その後、出かけた。

テディマン トマス・テディマン。共和制時代から海軍の艦長を務めていた。

 カタンス艦長と私はレドリフからデトフォードまで歩いて行き、アスウェイトさん*の家で、両サー・ウィリアム(ペンとバッテン)とサー・ジョージ・カートレットと合流、皆で食事をした。わが決意にもかかわらず、他に食べるものがなかったので、私は四旬節*にもかかわらず肉を食べてしまった。でも、できる限り食べないようにしようと思う。

アスウェイトさん ジョン・アスウェイト。デトフォードにあった測量部の事務官。
四旬節 キリストの復活祭(イースター、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日のことで、概ね3月末から4月下旬にかけてである)の46日前の聖灰水曜日から復活祭の前日までの期間。節制や慈善活動に励み、祝宴を自粛するキリスト教徒が多い。

 食事の後、われわれはバディリー艦長*のところへ行って、古物を蝋燭競売*にかけた。最初は少額なのに、やがて二倍、三倍に値が上がっていくのを見るのは実に面白いものだ。

バディリー艦長 ウィリアム・バディリー。艦長で、デトフォードの海軍工廠主任。バディリー艦長邸での競売は公的なもので、二週間前に告知がなされていた。
蝋燭競売  一インチの蝋燭が燃えている間に競りを行い、消える寸前の値で落札するという方式の競売。Wikipediaも参照

 その後、サー・ウィリアム・ペンと私、バッテン夫人とその娘は、陸路、レドリフへ向かい、「ハーフウェイ」*でひと休み。舟に乗ろうとすると、サー・ジョージらがわれわれのためにずいぶん待っていたことが分かり、皆、申し訳ない気持ちだった。

「ハーフウェイ」 文字通り、ロンドン橋からデトフォードの中間地点にあって、食事などを提供していた。

 家へ帰って、就寝。

 今月の終わりにあたって大きな秘密が二つある。盛んに議論されてはいるが、真相を知る者はごくわずか。一つは、国王陛下の結婚のお相手*は誰か、ということ。もう一つは、今われわれが装備を進めている南方への艦隊派遣*はいったい何のためなのか。もっぱら、トルコに対抗するためにアルジェへ向けてであるとか、オランダに対抗すべく東インドへ向けてであるなどと言われている。たしかにオランダはそちらへ向けて大艦隊を送り出しているそうだ。

 結婚のお相手 チャールズ2世は、1662年、ポルトガルのブラガンサ王朝の初代国王であるジョアン4世の王女カタリナ(英語では一般にキャサリン・オヴ・ブラガンザと呼ばれる)と結婚した。この婚姻が公表されたのは、1661年5月8日のことであった。
艦隊派遣 ご主人さま(エドワード・モンタギュ)指揮の下、この艦隊は実際に1661年6月に北アフリカのアルジェ(現在のアルジェリア)へ向けて出帆し、キャサリン妃を迎えることになる。

3月9日

 ホワイトホールへ。二時間ほど、クリード氏と楽しく庭園を散歩した。この庭は、今やたいへんきれいな場所*になっている。

今やたいへんきれいな場所 ピープスがクリード氏と散歩したのはセント・ジェイムズ公園。ホワイトホールの西側、バッキンガム宮殿の東側にあるこの庭園は、隣接するペル・メル街の再開発などを含め、1661年1月までに改修・整備された。湖や水路が造られたのもこの時である。

セント・ジェイムズ公園(バッキンガム宮殿を望むこの池は、1661年の改修によるもの)

 われわれはここで、お互いの状況についてじっくりと率直に語り合った。彼の方から私に機会をくれたので、私の航海中の任務外労働への謝礼金として60ポンド*ほどを支払ってほしい旨を彼に話した。彼もさして嫌な顔はしなかった。だから私はこのことを話せてよかったと思う。

60ポンド 依頼した60ポンドの任務外労働への謝礼金のうち、この時すでに50ポンドはピープスに支払われていた。

 彼といっしょにご主人さまのところへ。ご主人さまはヒンチンブルックからお戻りになったばかりであった。かの地に住む*わが伯父はたいへん元気だが、伯母はあまり長くないようだ。

かの地に住む  ピープスの伯父ロバートと伯母アンが暮らすブランプトンは、モンタギュ邸のあるヒンチンブルックと同じケンブリッジシャにある。

 私はしばしとどまってご主人さまと食事をした。彼は私を脇へ連れて行き、国王陛下のご結婚について世の中ではどのように語られているか、お尋ねになった。私は何も知らないかのようにお答えしたので、ご主人さまもそれ以上はお訊きにならなかった。だが、このやり取りから私は、何か、まだ世間には明らかにされていないことがもうすぐ明らかになるのではないかと感じた。

 食事の後、私はロンドンへ出て*ターナー夫人、それから父を訪ねて帰宅。ここ四日間の日記*を書くため、遅くまで起きていて、その後、就寝。

ロンドンへ出て ここでの「ロンドン」も、いわゆるシティのこと。
ここ四日間の日記 ここに見られるように、ピープスは、時々、日記をまとめて書いている。

4月23日

 私はシプリーさんといっしょに寝て、四時頃には起床。

 今日は国王陛下の戴冠日。

 それでウェストミンスター寺院へ行き、検査官サー・J・デナム*と彼が率いる仲間たちの後について行った。だいぶ苦労しつつも、デナムの部下であるクーパーさん*の好意で、寺院北端の大きな桟敷席へ入ることができた。そこでまただいぶ辛抱し、四時過ぎから一一時まで、国王陛下の入場を待った。寺院中央部が高くなっていて緋毛氈に覆われ、その上に玉座(つまり椅子)と足載せ台が置かれている。こんな光景を目にするのは実に喜ばしいことだ。あらゆる種類の役人たち全員、それからヴァイオリン奏者に至るまで、みな赤の外衣を身に纏っている。

サー・J・デナム  サー・ジョン・デナム。詩人にして建築にも詳しかった。1660年6月より王室検査官(特に建物の修復などの監督にあたる)の職にあった。後に、王立協会フェロウとなる。
クーパーさん  ヘンリー・クーパー。王室検査官であるサー・ジョン・デナムの部下。

 ついにウェストミンスターの首席司祭と聖堂参事会員が、主教たちとともに入ってきた(多くの者は金のケープを着ている)。それに続いて貴族たちがみな議会用ローブを纏って入場、壮観であった。それから公爵と国王が、王笏(これを持っていたのはご主人さまのサンドウィッチ卿)と王剣、宝珠、王冠*を前にして入場した。

王笏、王剣、宝珠、王冠 王権の象徴となるこうした宝物類は、ピューリタン革命の後、破壊もしくは売却されていた。その再興を担ったのが、国王衣裳室長官でもあったご主人さま(エドワード・モンタギュ)である。


戴冠式の様子。Wenceslaus Hollar作。

 ローブを纏い、頭には何もかぶらずにおられる国王陛下は、たいへん立派であった。みなが席に着いた後、説教と礼拝があった。それから、大祭壇の聖歌隊席で、王は、戴冠式のすべての儀式を済まされたのだが、たいへん残念なことに、私をはじめ寺院内の多くの者には見えなかった。王冠が王の頭上に載せられると大歓声が起きた。王はそれから玉座の方へ進み出て、そこでさらに数々の儀式が行われた。誓いを述べたり、主教*によっていろいろな言葉が読まれたり、貴族(王が王冠を戴くとみな帽子をかぶった)や主教が王の前に進み出て跪いたり、といった具合である。

主教 カンタベリー大主教が高齢で病気であったため、ロンドン主教であったギルバート・シェルドンが重要な行事にあたった。

 それから、筆頭上級紋章官*が、三度ほど、桟敷席にある三つの空いている場所へ行き、チャールズ・ステュアートがイングランドの王になってはならぬ何らかの理由を示せる者があるならば、ここに進み出てそれを述べよと宣言した。

筆頭上級紋章官 当時は、サー・エドワード・ウォーカーが務めていた。

 続いて、大法官卿*が大赦令を読み上げ、コーンウォリス卿*が数々のメダルをあたりにまいた。銀製のものだったが、私の手には入らなかった。

大法官卿・・・コーンウォリス卿 当時、大法官を務めていたのは、初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイド。またサー・フレデリック・コーンウォリスは、当時、国王の宝物保管係の任にあった。

 それにしてもたいへんな騒音だったので、音楽の方はほとんど聞き取れなかった。実際、誰の耳にもそれは届かなかったであろう。ただ私はひどく尿意をもよおしたので、国王がすべての儀式を済ませる少し前に抜け出し、寺院を回ってウェストミンスター・ホールへ向かった。ずっと柵の中を通って行く。人出は一万人、地面は青布で覆われていて、桟敷席が続いている。ホールへ入ってみると、立派な掛け物があって、桟敷席が幾重にも設けられており、華やかなご婦人方であふれている。右側の小さな桟敷にわが妻がいる。

 ここで私はあたりを行ったり来たりしながら待つことにした。するとついに、陛下が入場されるところが、脇の桟敷の上から見えた。昨日の騎馬行列に連なったすべての人々(兵士を除く)を従えている。いずれもローブを身に纏っている姿は、見ていて実に楽しいものであった。国王陛下は王冠を戴き、王笏を手に持って天蓋の下におられる。この天蓋は六本の銀の柱で支えられており、それを要衝五港の代表者たちが支えていた。柱の先には小さな鈴がついている。

 陛下は時間をかけて奥の端まで達し、皆、幾つかのテーブルに分かれて着席した。これも、めったに見られぬ光景だ。続いて国王の最初の食事がバース勲爵士たちによって運ばれてきた。そこでまた多くの華やかな儀式が行われた。紋章官たちが人々を陛下の前に連れて行き、皆、お辞儀をしている。アルベマール卿*はキッチンの方へ行き、陛下の食卓に供せられる魚料理の味見をしている。

 アルベマール卿 ジョージ・マンクのこと。

 だが、とりわけ見事だったのは、ノーサンバランド卿*、サフォーク卿*、オーモンド公爵*の三人が食事の前に馬に乗って現れ、食事の間ずっとそこに留まっていたこと。彼らは最後に、みな馬上で鎧に身をかためたまま、国王護衛官(ディモック)*を連れて来た。護衛官は、槍と盾を前にして登場。紋章官の一人がここで、チャールズ・ステュアートが法に適ったイングランドの国王であるということを認めない者があるならば、ここで護衛官が決闘のお相手をしようと宣言し、この言葉にあわせて護衛官が籠手を投げ捨てるのだ。このことをすべて、護衛官は三度繰り返してから国王のテーブルへ向かう。ついに彼がやって来ると、陛下は彼に対して祝杯をあげ、その杯を彼に授けるのである。護衛官はこれを飲み干した後、この杯を手に持って再び馬に乗って戻って行くのである。

ノーサンバランド卿 一〇代ノーサンバランド伯爵アルジャノン・パーシー。
サフォーク卿 三代サフォーク伯爵ジェイムズ・ハワード。
オーモンド公爵 ジェイムズ・バトラー。アイルランド総督も務めた。
国王護衛官(ディモック) 国王護衛官は、キングズ・チャンピオンもしくはチャンピオン・オヴ・イングランドと呼ばれ、戴冠式の正餐に際して武装して乗り込むことになっていた。ピープスの記述の通り、布告を三回行って国王への挑戦者がいなければ、国王はこの護衛官のために祝杯をあげ、その杯を護衛官本人に授けた。リチャード2世以来のディモック家がその職を世襲したが、1821年のジョージ4世の即位式以後廃止された。

 私はテーブルからテーブルへと回って、食事をしている主教たちやその他の人々の様子を眺めた。無上の嬉しさを感じた。貴族のテーブルへ行くとウィル・ハウがいて、ご主人さまに私のことを伝えてくれたので、ご主人さまは、ウサギ四匹に初年鶏一羽を私のためにとハウに渡してくださった。それで私はそれらを頂戴した。またクリード氏と私はミッチェルさん*に会ってパンをもらったので、われわれは桟敷へ行ってそれらを食べた。他の人たちもみな、手に入れたものを食べていた。

ミッチェルさん この「ミッチェルさん」は書店経営者のマイルズ・ミッチェルで、アンの夫。

 あちこち歩き回ってご婦人方を眺めるのも実に楽しいことであった。各種の音楽も聞こえたが、なかでも二四人のヴァイオリン*はよかった。

二四人のヴァイオリン チャールズ2世が、フランス宮廷の様式に影響を受けて導入した宮廷音楽隊の一つ。

 夕方六時頃になって食事は終わった。妻のところへ行くと一人の美しい女性がいた(医師の妻でフランクリン夫人*、ボウヤ-さんの友人)ので、二人にキスをした。それからみなでボウヤ-さんの家へ。考えてみると妙なことだが、ここ二日間、晴天に恵まれ、今すべてが終わって国王陛下がウェストミンスター・ホールをお出になると、雨が降って来て雷や稲光が始まったのである。それもここ数年見たこともないようなものだった。人々は、ここ二日間のことに対する神の祝福だと騒いでいたが、そんなことで騒ぐというのは愚かしいこと*だ。

フランクリン夫人 ピープスのお気に入りだったようだが、詳細は不明。
そんなことで騒ぐというのは愚かしいこと 戴冠式後のこの雷雨については、当時から、それを吉兆とする者と凶兆とする者がいたようだ。ちなみにチャールズ1世の戴冠式の折には地震が起きている。ピープスのここでの記述は迷信に対して否定的だが、彼が常にそうであったわけではない。1665年1月には、ウサギの足を身につけていると疝気がおさまるという話が記されている。

  一連の行事の中で、ちょっとした騒動*があった。もっとも、国王陛下の従者たちが例の天蓋を持ち出し、五港の代表者たちから奪おうとしただけのこと。従者たちはなんとかこれを再び自分たちのものにしようとしたのだが、結局できず、アルベマール卿がそれをサー・R・パイ*の手に委ね、決着は明日に持ち越された。

ちょっとした騒動  天蓋を支える柱を担った要衝五港の代表者たちは、この騒動のために、正餐のテーブルにつくことができなかった。ピープスの記述では、「決着は明日に持ち越され」とあるが、チャールズ2世は直ちにこの騒動を起こした従者たちを牢に入れ解雇している。
サー・R・パイ サー・ロバート・パイ。財務省の会計検査官。

 ボウヤ-さんの家には多くの客が詰めかけていた。知っている人もいれば、知らない人もいた。遅くまでわれわれは屋根に上ったり屋根から下りたりしながら花火を見たいと思っていたのだが、今晩は花火は行われなかった。ただシティ全体が、栄誉の光のごとく、あかあかとかがり火に照らし出されていた。

 結局私はキング・ストリート*へ出て、クロックフォード*を父の家とわが家へ使いに出し、道はぬかるんでいるし、馬車もつかまらないだろうから、今夜は家に帰らないと伝えさせた。

キング・ストリート 議会近くの南北に走る細い道で、多くの居酒屋が軒を連ねていた。
クロックフォード 荷物運搬人だったようだが、詳細は不明。

 それから、ハーパーさんの店*でひとりエールを一杯飲んで、またボウヤーさんの家へ戻った。もうしばらくそこにいてから、妻とフランクリン夫人をアックス・ヤード*へ連れて行った(私はフランクリン夫人に、今晩は妻といっしょにハントさんの家に泊まっていくよう勧めたのである)。中へ入ってみると、奥の方に、大きなかがり火があって、男女の伊達者たちが大勢いた。連中はわれわれをつかまえて、かがり火用の薪の上に膝をつき、国王の健康を祝してひざまずいて杯を開けよ、と言う。そこでそのようにすると、連中はわれわれのために次から次へと杯をあけた。実に奇妙なお祭り騒ぎではある。もっとも連中はこうしてずっと飲み続けているわけで、ご婦人方もよく飲むものだとびっくりした。

ハーパーさんの店 ホワイトホール近くの居酒屋。
アックス・ヤード ピープス一家が以前住んでいた場所である。

 ようやく私は、妻と、寝床を共にする夫人を床につかせ、それからハントさんと二人でソーンベリーさん*(彼は国王酒庫係で、ずっとお客たちにワインを振る舞っていたのだ)に連れられて彼の家へ行った。家には、彼の妻と二人の妹、それに洒落者数名がいて、みな、ただただ国王陛下の健康のためにと飲み続けていたので、ついに一人の紳士が酔いつぶれて倒れ、ゲロを吐いてしまった。私はといえば、かなり機嫌よくご主人さまのところへ向かった。だが、シプリーさんと寝床に入るやいなや、頭がぐるぐる回り出し、嘔吐してしまった。酒でつぶれるということが私にこれまであったとすれば、まさに今この時だった。だが、朝まで私はすっかり眠りこけていたのだから、その間こそ本当につぶれていたのかも知れない。ただ、目覚めてみると、私の吐いたゲロのせいでもうびしょびしょだった。こうしてこの日は、いずこも歓喜に包まれて終わった。神に祝福あれ。一連の行事を通じて、災難に遭った人*のことは耳にしていない。ただ、上級法廷弁護士のグリンは、昨日、馬の下敷きになって死にかけているそうだ。そのことを人々は、神が正しく、あのような悪党をこのような時に罰するとはすばらしい、と言って喜んでいる。グリン*は今や王室弁護士の一人となってメイナードとともに騎馬行列にも加わっていたのだが、このメイナード*についても同じようなことが起きればと人々は願っていた。

ソーンベリーさん ギルバート・ソーンベリー。ピープスの記述にある通り国王酒庫係で、アックス・ヤードに家があった。ハント家の隣の隣であったという。
災難に遭った人 ピープスは「災難に遭った人のことは耳にしていない」と書いているが、後述のグリンのほかにも、音楽のせいで馬を御しきれず落馬した人は多かったようだ。ヨーク公は二度落馬し、国王は音楽を止めさせたと言われている。
グリン サー・ジョン・グリン。ピープスの記述の通り、当時は王室弁護士を拝命していた。かつてオリヴァー・クロムウェルの配下で手腕を発揮した人物だけに、王政復古後の転向や授爵に憤るピープスの気持ちは理解できるが、一般には優れた法律家であったとされる。ちなみにグリンは、落馬による瀕死の重傷を負いながらも、1666年まで存命であった。
メイナード サー・ジョン・メイナード。グリンと同様、共和制の時代に手腕を発揮しつつも、王政復古後に転向した法律家で、やはり不人気であった。

 また今晩はこんなこともあった。キング・ストリートで、少年がたいまつを馬車に投げ込んだため、ある女性が失明したという。

 こうしたことがすべて済んだ今、私は次のように言うことができる。つまり、こうして実にいろいろな誉れ高きものを眺めて楽しんだ以上、今や自分は、他のものに対しては目を閉ざすことになろう、あるいは今後、立派なもの、華やかなものをわざわざ見るような面倒はしなくなるであろう。このようなことを見ることは、もう二度とあるまいから。

5月24日

 午前中はずっと家にいて、私の個人勘定書を作成。なんと人生で初めて、きっかり500ポンドの財産があるということが分かった。もちろん他に、家財などもある。

 午後は遅くまで役所。それから国王衣裳室へ。ご主人さまは夕食をとっておられたので、それが済むまでしばらく散歩した。その後、中へ入ってご主人さまにお会いし、私の個人勘定書を点検、それをムーアさんに回して、私に支払われるべき残額を支払ってもらうようにした。それから、バター付きパンを少しいただこうとキッチンへ行って食べた。キッチンにいたメイドの一人の顎をつまむ。スーザン*かと思ったのだが、その姉であった。実によく似ている。

スーザン 詳細不明。同名の女性は後に登場するが、これは別人。

 それから帰宅。

5月25日

 午前中はずっと家で仕事。昼にテンプル法学院へ行き、プレイフォードの店で本を一、二冊、立ち読みする。それから劇場へ行って、『無口な女』の一場面を観る。たいへんよい。帰宅する途中、セント・ポール寺院境内の店で『奴隷』*を買う。そうして帰宅。家の中がきれいに片付き、このたび大きくした暖炉と料理用の竈も据え付けられている。実に喜ばしいことだ。

『奴隷』 1624年に刊行されたフィリップ・マッシンジャーの悲喜劇。

【国王戴冠式の夜、ついに酔いつぶれたピープスは、もうこれ以上の喜ばしき光景に触れることはあるまいとの感懐をもらしますが、まだまだ日記をやめる気配はありません。チャールズ二世の結婚はいかに――政治の中枢と一市民の日常を自在に往復するピープスの日記、次回の一六六一年後半もどうぞご期待ください。】