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サミュエル・ピープスの日記(7)

翻訳・解説:原田範行(慶應義塾大学教授)

【王妃のイングランド入りを間近に控え、ピープスも大忙し。かなり忙しかったようで、日々の記録も短く済ませている箇所が少なからずあります。もっともピープスは、そういう大忙しの日々にだいぶ満足しているようで、ますます仕事に精を出しています。やがて王妃が到着・・・ただしこの結婚、実はいろいろな問題をはらんでいたようで、ピープスも気が気ではありません。】

トップの画像:キャサリン妃のポーツマス上陸


1662年1月10日

 ホワイトホールへ行ってサー・ポール・ニール*に会い、ご主人さまから彼に向けてお尋ねのあった数学の問題について話した。その問いを私が彼に伝えると、人を雇ってお答えすると彼は約した。月と星の観測に関することのようだが、問いの内容については特に気に留めなかった。ホワイトホールでムーアさんに会うと、大法官庁ではT・トライス敗訴*の命令が下されたとのことで、私はたいへん嬉しかった。それまでいささか心配していたからだ。ムーアさんといっしょにウェストミンスター・ホールへ行き、彼と正午まで散歩していろいろ話をした。それから衣裳室へ食事に行く。衣裳室ではピカリングさんといっしょにいるのが退屈だったので、ウェストミンスターへ戻った。ハントの奥さん*のところで妻と落ち合い、子どもの名付け親になる約束をしていたのである。われわれだけでこれを済ませ、たいへん楽しかった。ハントの奥さんには、わが妻の名付け子のためにと、コップとスプーンを贈った。それから馬車で帰宅し、私は書斎で遅くまで読書。それから床に入ったが、妻は、こんなに遅くまで家の者を起こしていて、と腹をたてていた。

サー・ポール・ニール  廷臣で、天文学を専門とする王立協会フェロー。
T・トライス敗訴  1661年11月19日の項(連載第6回)を参照。ピープスの伯父ロバートの遺産をめぐる訴訟が大法官庁の管轄の下に置かれ、トライスは勝手に行動を起こせなくなった。
ハントの奥さん  税務署員ジョン・ハントの妻エリザベス。ピープス夫妻はその息子ジョンの名付け親になった。

1月21日

 午前中、会計官の勘定書を仕上げる。それからまた食事*。昨日同様、みなで愉快にやった。その後帰宅。それから役所へ戻って夜遅くまで仕事。それから帰宅して手紙を書き、楽器の稽古をし、それから就寝。ポルトガルへ向かっている艦隊*がどのくらいまで進んでいるのか、何の報せもない。風向きがまた変わって、立ち往生し、またアイルランド沖まで押し戻されてしまうのではないかと心配だ。

それからまた食事  前日も同様の仕事をしていて、ピープスは会計官の接待を受けている。
ポルトガルへ向かっている艦隊  ヘンリー・アイシャム艦長の艦隊のこと。1661年8月24日の項(連載第6回)を参照。

2月1日

 今朝は11時まで家にいた。それからペット弁務官と役所へ。彼が書類を作成している間、私はサー・ペンと庭を散歩。彼が息子をケンブリッジへ*転学させようとしている件で話す。そのため私も今晩、フェアブラザー博士に手紙を書いて、モードリン・コレッジのバートン氏*について知らせてもらうつもりである。

息子をケンブリッジへ  息子のウィリアム・ペンはオクスフォード大学クライスト・チャーチ・コレッジに在学していたが、異端の教義に影響されることを恐れた父がケンブリッジ大学への転学を促した。しかしこの試みは心配に終わり、父子の間にわだかまりを残すことになった。
バートン氏  ヘジカイア・バートン。神学者でケンブリッジ大学モードリン・コレッジのフェロー(のちに学寮長)。

父と対立した若き日のウィリアム・ペン(1666年)。のちに彼はアメリカ・ペンシルヴェニア州の創設者となる。

 その後、ペット氏とともに画家*のところへ。彼も私たち夫婦の肖像画を気に入ってくれた。もちろん私も気に入っている。それから二人でサンドウィッチ伯爵夫人*のもとへ。ペット氏を彼女に引き合わせてその手にキスをし、三人で食事をするためだ。夫人には(サー・W・ペンが今日私に教えてくれた)報せを伝えた。ご主人さまから手紙を持った急使が到着したこと、たいへんな暴風雨のためにアルジェの防波堤が壊れて敵側の多くの船が沈んでしまったということ、である。つまり、今や全能なる神が、われわれが不運に見舞われた用向き*に決着をつけてくださったというわけである。まことにもってよい報せである。

画家  サヴィルのこと。1661年12月31日の項(連載第6回)を参照。
サンドウィッチ伯爵夫人 もちろんご主人さまの奥さまのことで、ピープスは多くの場合、my Lady(奥さま)と記しているが、ここでは伯爵令夫人の呼称を用いている。
われわれが不運に見舞われた用向き  悪天候に阻まれてアルジェ攻撃が不首尾に終わったこと。1661年9月30日の項(連載第6回)を参照。

 食事の後、役所へ行き、ペット氏と私は遅くまで仕事をした。それから私は帰宅し、遅くまでかかって、父とフェアブラザー博士に手紙を書き、また弟のジョンには怒りの手紙*を書いた。私に手紙を書いて寄こさないからだ。そうして就寝。

怒りの手紙 ピープスは、何かとケンブリッジ大学在学中の弟ジョンの世話をしていたが、弟の方はこの兄にあまり感謝していなかったようである。

3月13日

 終日、役所か家で仕事。夜遅くまで大忙し。最近私はずいぶん仕事を頑張っている。それが実に愉しく、大いに満足している。

4月10日

 両サー・ウィリアム*といっしょに水路ウェストミンスターへ行き、幾つか仕事をする。それからムーアさんといっしょに衣裳室へ行って食事。昨日、トールボット大佐*が、ポルトガルからの手紙を持ってやってきた。王妃は今週*、イングランドへ向けて乗船する決意をされたとのこと。

両サー・ウィリアム ウィリアム・ペンとウィリアム・バッテンのこと。
トールボット大佐  リチャード・トールボット。アイルランドの名家出身。カトリックを信仰。王政復古後はヨーク公に近侍した。
王妃は今週  実際に乗船したのは4月13日のこと。トールボットは、タホ川(スペイン中部からポルトガルを通り、リスボンで大西洋にそそぐイベリア半島最大の川)で王妃一行と別れて一足先にイングランドへ到着したようだ。

 それから役所へ行って、午後はずっと仕事。ウィンザー卿*がやってきて仕事の話をし、お別れの挨拶。彼は、今度出発する艦隊に乗って、ジャマイカ総督に赴任するのだ。

ウィンザー卿  7代ウィンザー準男爵のトマス・ウィンザー。ウィンザー卿は、ジャマイカ赴任にあたって、海軍と交渉をする必要があった。彼が総督としてジャマイカに到着したのは7月のことである。

 役所で遅くまで。帰宅。仕事のことで頭がいっぱい。就寝。

4月28日*

 博士*と私は学問的な話を始めた。これは実に楽しい。学者コレッジ*に入るよう勧められ、ブランカー卿*に紹介すると言ってくれている。また、解剖見本も見せてくれるそうで、私としては実に嬉しい。ロンドンへ戻ったら、ぜひともそうしようと思う。サー・W・ペンは昨晩届いた手紙のことで大いに困っている。オーウェン博士*が彼の息子に宛てた手紙の一通を今朝私に見せてくれたのだが、息子の方はオーウェン博士の影響でだいぶ邪道の方に傾いているようだ。今になって気づいたのだが、このことが気になって、サー・ウィリアムは長いこと不快な思いをしていたのである。馬車で会計事務室へ向かい、また仕事をする。それから食事。また戻って仕事。夕方になって海軍工廠へ行き、夕食を取って就寝。

4月28日 ピープスは、目下、サー・ウィリアム・ペンや後述のティモシー・クラークなどとともに海軍の拠点の一つポーツマス(ロンドンから南西へ約110キロのところ、ハンプシャー南部にあってイギリス海峡に面している)に滞在中である。用件は、海軍の人員削減に伴う解雇金の支払い。
博士 医学博士のティモシー・クラーク。王立協会創設時からのフェローで、後にチャールズ2世の侍医となる。
学者コレッジ 王立協会(the Royal Society)はもともと学者コレッジ(College of the Virtuosoes)と呼ばれていて、王の勅許を得て王立協会になるのは1662年7月15日のこと。
ブランカー卿 2代ブランカー子爵ウィリアム・ブランカー。王立協会初代総裁。連分数(分数の分母にさらに分数を含む分数)に関心を持っていた。
オーウェン博士 ジョン・オーウェン。神学者で国教会非信従者(ノンコンフォーミスト)の主導的立場にあった。共和制時代はオリヴァー・クロムウェルを支持してプロテスタントの精神的支柱となっていた。オクスフォード大学では副総長に任じられている。

初代王立協会総裁ウィリアム・ブランカー
王立協会勅許(1662年)

5月15日

 ウェストミンスターへ。玉璽局で、コヴェントリー氏がわれわれの仲間として監督官に就く証書を見た。喜んでいいものかどうか*、まだ私には分からない。途中、幾つかの用務をしつつ、歩いて帰宅。食事の後、役所へ行って午後はずっと仕事。夜、王妃の到着*を祝して町中の鐘が鳴り、かがり火が焚かれた。昨晩、王妃はポーツマスに着き、上陸したのである。ただ、歓喜一色というわけではなく、人々の心は冷淡なようだ。宮廷の贅沢奢侈や借金が膨らんでいることに、人々はだいぶ不満を募らせている。

喜んでいいものかどうか  ピープスは、後にウィリアム・コヴェントリー(既出)と親しくなってその手腕を評価しているが、現在のところ、あまり仲がよくない。
王妃の到着  王妃が到着しても国王はすぐに迎えに行くわけにはいかない。王がロンドンを離れる法律を通過させなければならないからだ。結局、国王がロンドンを出たのは5月19日の夜のこと。国王と王妃はその後、ハンプトンコート宮殿に入ることになる。

5月24日

 衣裳室へ行って、またご主人さまと話をし、W・ハウに会った。彼はずいぶん男前になっていて、真面目である。そこからクリード氏と外出。知りたいと思っていたことすべてを訊くことができた。その内容は次の通り。ご主人さまは、夏の間ずっと、国王からのしかるべきはっきりとした命令が来なくて大いに困っていたということがまずひとつ。枢密院の面々は、以前のように仕事をせず、自分たちの楽しみや利益のことばかり考えているのではないだろうか。それから、「フエゴ・デ・トロス」*は単純な娯楽のわりに、スペインでは最も人気があるということ。王妃は、艦長や士官にはいっさい報酬を支払わなかったが、ご主人さまだけには報酬を与えたということ。それは一四〇〇ポンド*ほどの金貨一袋であったこと(立派な贈り物というほどのものではない)。王妃はずっと引きこもっていて*、航海の間、甲板にお姿を見せたり、船室から顔を出されたりすることは一度もなかったが、ご主人さまの楽隊をたいへん好まれ、これを広間の方へしばしばお呼びになり、ご自身の船室でそれを聞いておられた、ということ。ご主人さまは、持参金の支払い*をめぐってポルトガルの枢密院と衝突しなければならなかったこと。この支払いとは、タンジール割譲とインドとの自由貿易のほかに、二〇〇万クラウンに及ぶもので、半分は即金、残り半分は12か月以内、というものであった。だが先方は、金をわずかしか持ってこず、残りは、砂糖やその他の商品、為替手形などで支払った。それから、ポルトガル国王*はまことにもって無能で、政務はその母が担っている、ということ。彼はなんとも愚かな人物だということ、など。

「フエゴ・デ・トロス」  闘牛の牛に見立てた金属製の牛にかがり火をつけ、町中を練り歩く祭典。
一四〇〇ポンド 「立派な贈り物というほどのものではない」とはいえ、1662年のピープス家の貯金総額の2倍はある。
王妃はずっと引きこもっていて  王妃キャサリン・オヴ・ブラガンザは内気な性格であったとされ、ポルトガルの宮殿でもめったに外出しなかったとの記録がある。
持参金の支払い  ピープスは記していないが、この持参金にはボンベイの割譲も含まれていた。当時のクラウン硬貨は銀貨で5シリング相当。したがって、200万クラウンは10万ポンド。結局、この支払いは完済されなかった。
ポルトガル国王  アルフォンゾ6世。1656年から83年まで在位したが、情緒不安定で、王権はきわめて脆弱であった。

 チープサイドの「スター」で朝の一杯をやり、その後、クリード氏を取引所へ連れて行き、それから家へ。ところが妻はすでに食事を済ませていたので、クリード氏を連れてフィッシュストリートへ行き、二人でロブスター二匹を取って食事。いろいろ語り合った。それから私は役所へ。仕事を終えてから、サー・W・ペンと私は水路デトフォードへ向かい、ルース艦長*を見舞う。彼はだいぶ具合が悪いのだ。それから陸路で帰宅の途中、「ハーフウェイ」に立ち寄り、二人で食べ、飲む、それから帰宅して、就寝。

ルース艦長  リチャード・ルース。やがて体調が回復し、その後も艦長として活躍する。

5月28日

 早起きして、私の部屋のものを整理する。それからご主人さまのところへ行き、いくつかの用件についてお話した。それからクリード氏とともに、あちこちへ行って用事をする。靴屋のウットンさん*の家にも行き、そこで朝の一杯。それから昼頃、帰宅。そのうち父が約束通りやって来ていっしょに食事。楽しく語り合った。父もかわいそうだ*、ロンドンにいる間はできるだけ楽しませてあげたい。食事の後でワイト叔父がやって来て、しばしわれわれと話し込む。それからわれわれ三人は、レドン・ホールの「マム・ハウス」*へ行き、そこにしばらくいた。その後私は彼らと別れ、衣裳室へ。ご主人さまはハンプトンコートへ出かけていた。午後の間ずっと、遅くなるまで私は、クリードさんとフェラーズ艦長とともにここにとどまり、みなで、明日ハンプトンコート*へ出かけるかどうかを相談した。しかしやがてフェラーズ夫人*がお嬢さんたちと戻って来て(いっしょに外出していたのである)、ハンプトンコートには行きたくないと言ったので、ハンプトンコート行きを延期することにした。そうして帰宅。とはいえ、心の中では明日、ハンプトンコートへ行きたくて仕方がない。その後、就寝。

靴屋のウットンさん  ウィリアム・ウットン。ピープスは彼と仲が良く、食事をすることも多かった。ウットンは、ゴシップを含む町の情報をピープスの耳に入れていたようだ。
父もかわいそうだ  兄のロバートの死後、ピープスの父母はロンドンを離れ、ブランプトンで暮らしていた。
「マム・ハウス」  マムは、濃厚でアルコール度の強いドイツビール。
ハンプトンコート  ロンドンの西郊、テムズ川沿いにあって、ヘンリー8世が王宮とした宮殿がある。翌29日、このハンプトンコート宮殿で国王は自らの誕生日を祝い、王妃を迎えることになっていた。
フェラーズ夫人  本文では「フェラーズ」となっているが、フェラー艦長(既出)の妻ジェイン・フェラーのこと。

ハンプトンコート宮殿から出かけるチャールズ2世

5月29日

 午前中はずっと在宅。正午、衣裳室へ行き、奥さまと食事。食事の後、長くとどまって奥さまとお話をする。その後、家へ。ロンバード・ストリート*で、ロンドン市のバックウェル参事会員*に窓から呼び止められたので、家へ行き、夫人に挨拶をした。これがまたたいへんな美人である。ここにクリード氏もいたのだが、隣家で火事があったらしく、そのため家の中はいささか混乱していて、家財道具を運び出したりしていたようだ。もっとも私がやって来た頃には、鎮火していた。それから帰宅し、妻と二人の侍女、それにボーイ*を連れてボートに乗り、旧スプリング・ガーデンのヴォックソールへ*。ずいぶん久しぶりだ。しばらく散歩をし、侍女たちは、なでしこの花を摘んでいた。妻と私は長いこと、ここにとどまる。ただ、何かを食べるにしても値段は高いし、ずいぶん待たされるので、二人だけでひそかにここを抜け出した。中で何かを食べていたら、気づかれていたかもしれない。それから新スプリング・ガーデンへ。ここに入るのは初めて、旧ガーデンをはるかに凌ぐものだ。ここでも妻と私は散歩。ボーイは生垣に入り込んでバラの花をたくさん集めていた。しばらく散歩をした後、妻と私は、旧ガーデンを抜け出したように、またここも抜け出した。そこから定食屋へ行き、ケーキと塩漬け肉とエール。それから水路を使ってまた帰宅、非常に楽しかった。

ロンバード・ストリート  シティの中心的な通り。13世紀末にエドワード1世がユダヤ人金融業者を追放した際、これに代わってイタリア・ロンバルディア出身の商人が多く住みついたことからこの名がある。
バックウェル参事会員  エドワード・バックウェル。金細工師にして金融業者。ロンドンの政治にも参事会員としてかかわった。
二人の侍女、それにボーイ  ジェインとセイラ、それにウェインマンである。
旧スプリング・ガーデンのヴォックソールへ  ヴォックソール・マナーはロンドン南郊サリー州の荘園。美しい庭園と邸宅で有名(現在はVauxhallとなっているが、ピープスはFoxhallと綴っている)。ピープスが記しているように、旧スプリング・ガーデンに対して新スプリング・ガーデンが、1661年、造営され、名所となって多くの客で賑わった。サー・サミュエル・モーランド(発明家にしてスパイとしても知られる)が開発した園内の水力ポンプも有名。なお、ロンドンのチャリング・クロスにあったスプリング・ガーデン(しばしばオールド・スプリング・ガーデンと呼ばれた)とは別。

ヴォクソール庭園(ただし、18世紀の庭園を描いたもの)

 今日は国王陛下のお誕生日であり、たいへん厳粛にお祝いがなされた。王妃がちょうど今日、ハンプトンコート宮殿に到着されたのだから、なおさらである。夜はかがり火が焚かれたが、以前の臀部議会*のときほどの数ではない。

 それから就寝。

以前の臀部議会  第1回連載の冒頭(1660年初頭の日記)を参照。特に1660年2月11日、王政復古が実現するかしないかの微妙な状況下にあって、マンクがロンドン市に与して臀部議会に欠員議員の補充を要求する書簡を送った際には(=議会を開き、王政復古の決議を迫るもの)、王政復古実現を喜ぶ人々が焚くかがり火にロンドン市が包まれたという。

6月25日

 朝4時までには起き、ご主人さまとの会計関係のことをきちんと整理する。それから役所へ。ここでもいろいろなことをきちんと整理。衣裳室へ行ったが、ご主人さまはハンプトンコート宮殿へお出かけになっていて留守。シプリーさんと話した後、彼と別れて私はテムズ・ストリート*をロンドン・ブリッジの先まで歩いて行き、多くの店で、タールや油の値段を訊いてみた。大いに満足、こうしてみることで、国王陛下の出費をだいぶおさえることができると思う。帰宅して食事を取り、それから取引所へ。それからまた帰宅し、その後役所へ行って、午後の間はずっと、明日の仕事の準備。夜、妻と一緒にヴェランダを散歩*。それから夜食を取って、就寝。妻は最近、耳にひどい痛みがあり、今晩から薬を飲み始めた。私は風邪を引き、そのため昔の痛み*がひどい。

テムズ・ストリート  テムズ川の北岸を走る大通りで、この道路と川の間に多くの桟橋があった。
ヴェランダを散歩  家の屋根の上の平らな部分に囲いをつけた部分を散歩するというもので、1662年に入り、ピープス夫妻はしばしばこうしたヴェランダ散歩を楽しんでいる。
昔の痛み  結石の摘出手術に伴うもので、ふだんは問題ないものの、風邪を引くとこの痛みが出てきたようだ。

6月30日

 朝早く起きて役所へ行ってみると、グリフィンの娘*が掃除をしている。ああ神よ、許したまえ、彼女に対して私はなんと心が動いたことか。でも、ちょっかいを出したりはしなかった。彼女が行ってしまってから、部屋の壁に穴を開けておくことを思いついた。つまり、いったん出て行くことなく、私の部屋から大きな事務室が見えるようにするのだ。まったくもっていい考えだ。

グリフィンの娘 本文中では「グリフィン」となっているが、海軍省事務局の守衛であったウィリアム・グリフィスのこと。

 それから仕事。正午、妻とともに衣裳室へ行って食事をし、その後、午後の間中ずっとご主人さまとお話をする。午後4時頃、妻と奥さまといっしょに馬車へ乗り、わが家の方へ。途中、カートレット夫人*のところに立ち寄る。彼女はちょうど家にいたので(彼女はここ一、二か月の間、デトフォードにいたのだ)、少しの間、座って話をした。彼女はいろいろな話を奥さまにしていたが、なかでも、たんにフランスの肩を持つというだけの理由でファンショウ夫人*と疎遠になってしまったという話には、かつて両者は姉妹のようにつきあっていただけに、奥さまも驚かれたようだ。とはいえ、この世の中、長続きする真の友情などありはしない。

カートレット夫人 エリザベス・カートレット。サー・ジョージ・カートレットは既出。
ファンショウ夫人 アン・ファンショウ。サー・リチャード・ファンショウは既出。

 そこからわが家へ。私は誇らしくも奥さまの手を取り、前庭を通って拙宅へご案内した。彼女のお姿はたいへん見事なもので、小姓が服の裾を持ち上げていた。

 奥さまは拙宅に滞在された後、庭を歩いて水路に出られ、国王陛下のヨット*に初めて乗り、たいへんお喜びであった。それからグリニッジ公園へ行き、奥さまは、たいへん難儀しつつも、歩いて丘の一番上まで登られた。そこからまた下りてきてボートに乗り、ロンドン・ブリッジを通ってブラック・フライアーズまで来てお帰りになった。奥さまは今日の散策を何から何まで楽しまれたのである。奥さまとは夕食をともにして別れ、妻と私は歩いて帰宅。そして就寝。

国王陛下のヨット キャサリン号と名付けられた国王所有のヨットのこと。キャサリン妃との結婚にあわせて塗装や金箔を直したばかりであったが、それに450ポンドもの支出があったという。

今月の所感

 目下の情勢は、私の見るところ、きわめて悪い。国王陛下と新王妃はハンプトンコート宮殿で自分たちの楽しみに耽るばかり。誰もが不満を抱いていて、王は人々の願いを叶えていないと言う者もあれば、他の者たち、つまりあらゆる種類の狂信者たちは、国王が自分たちの良心の自由を奪ったと言っている。すっかりお高くとまっている主教たち*も、また全てをダメにしてしまうのではないかと心配している。人々は、サー・H・ヴェイン*の死に方を賞賛しているが、なるほどそれもそうだろう。人々は、暖炉税*反対を強く叫び、支払わないと言っている。他方、海外では戦争が起こりそうだ*、それもよりによってポルトガルを助けるためというのである。国内では普通の経費さえ支払うお金がないというのに。

すっかりお高くとまっている主教たち 言うまでもなくこうした英国国教会の聖職者たちの姿勢がピューリタン革命に至る原因の一つでもあったということ。
サー・H・ヴェイン サー・ヘンリー・ヴェイン。政治家、国会議員。ピューリタン革命以前にはマサチューセッツの総督も務めた。革命政府の要職にあったことから、1662年に処刑された。
暖炉税 チャールズ2世の王室経費に充てるための税。人頭税のように課税基準が人の数ではなく、暖炉の床(炉床)の数で決められた。後者の方が課税対象を簡単に見つけて決められるからである。
海外では戦争が起こりそうだ 6月27日、ヨーク公は、20隻の軍艦を6か月の航海を想定して準備せよとの命令を発した。対オランダ戦争の予兆である。実際には1664年に本格的な準備が始まり、1665年に第二次英蘭戦争が勃発することになる。なお、王妃の出身国ポルトガルはオランダと敵対関係にあった。

 私自身は今、わが家とサー・W・バッテンの家を高くする工事のために、すっかり埃まみれである。実に気持ちいいことに、今私は仕事に精を出しお金をため、神様のおかげでそのお金が増えているという次第。そういう生活に喜びを感じ、その効果が目に見えてきている。ブランプトンを見に行きたいと思っているのだが、3日間の休みが取れないのだ。できることをするまでだ。

 妻も私もたいへん健康である。

【ご主人さまが主導したキャサリン王妃のイングランド入りは無事成功、ピープスもさぞや喜んで祝賀会に参列するかと思いきや、彼の国王夫妻に対する視線には冷たいものさえ感じられます。他方、ピープスは、海軍およびご主人さまにかかわる自分の仕事に専念し、また家族や親族の健康と融和のために行動するようになります。そういう中で、後に総裁となる王立協会との縁も生まれたわけです。少しずつ個を確立して本格的に実力を発揮していくピープス――次回もぜひご期待ください。】