
竹村はるみ『シェイクスピアと宝塚』未読感想序説
【以下は、竹村はるみ先生の『シェイクスピアと宝塚』について、Xに投稿しようとして、つい長く書いてしまったので、こちらのnoteに記すものである。「未読」とあるように、私は現時点で最初から最後までは読んでいない。でも、5章ぐらいまで飛ばし飛ばし読んだだけなのに、それでもあれこれ思うところがあった。一気呵成に書いている。乱文失礼。】
ご恵贈いただいた本。竹村はるみ先生の『シェイクスピアと宝塚』(大修館書店)。「AとB」という題名の本の場合、AとBのどちらが上か気になる。宝塚という話題で興味を引いてシェイクスピアの面白さを知ってもらいたいと「はじめに」にあるから、この本の力点はシェイクスピアにあることになるのだろう。
シェイクスピア学者の竹村先生の本だから当然それでいいわけだけれど、私にはこの本はシェイクスピアをだしにして、宝塚のシェイクスピア作品を語っているように見える。そして、そう感じさせるところがこの本の最大の魅力だ。
どの章も基本的には、これこれのシェイクスピアのお芝居はどういうお芝居で、そのお芝居の粗筋であるとか、現在の学問的、批評的動向などもきちんとまとめたうえで、宝塚がシェイクスピア作品をどんなかたちで取り上げているかといった順番で話が進んでいく。
つまり、この本は、いわゆるアダプテーション(改作)研究ということになるのだろう。しかし、この改作研究というやつ、いろんな作品が論じられていても、なんだ結局、シェイクスピアの偉大さを証明することに奉仕させられているだけじゃないか、と思ってしまうことが時々ある。
そういう研究では、改作された作品は論者にとっては楽しむべき対象とは見做されていないということになる。作品がそれ自体としては書き手によって信じられていないということだ。一部の改作研究のつまらなさはたぶんそんなところに理由があるのではないか。
ところが、この竹村先生の本では、宝塚作品のほうが原作より楽しいものとされるという事態がしばしば起こる。たとえば『テンペスト』だ。この作品には、いろんな筋が含まれているが、そのなかの一つは、ファーディナンドとミランダの恋愛成就というストーリーである。しかし、竹村先生によれば、この芝居を恋愛物語として見ると、シィエクスピア原作には「恋の成就を阻む障害」が決定的に欠けていると指摘される。
だから宝塚版では、この2人は嵐によって生き別れとなり、ミランダは失明、ファーディナンドは過去の記憶をなくすというストーリーへと改作される。その二人が最後に歌うデュエットについて、先生はこう言う。「言っちゃ悪いが、『テンペスト』のミランダとファーディナンドには逆立ちしえも出せないロマンスが供給」されるのだ、と。
つまり、ここで言われているのは、シェイクスピア後期作品は、これを恋愛劇という観点から眺めてみた場合、深みが欠けているのではないかという指摘なのだ。原作は改作と比べられることによって、その作品のある種の脆弱性が指摘されているのである。そして、このシェイクスピア学者は「言っちゃ悪いが」という但書きとともに、堂々と宝塚舞台の魅力を語るのである。
私には、竹村先生がシェイクスピアを語っているときよりも、宝塚のシェイクスピア作品について語っているときのほうが、どう見ても楽しそうにしているように見えるのだ。私は実は宝塚を一度もみたことがないのだが、<添い遂げ退団>とかいうものがあるとか、フェアリー系男役だとか、そういう話を聞くと、ものすごく興味をそそられるのである。
ここで、少し文章を引用してみよう。「配役予想の楽しみ」というところだ。
「宝塚ファンの多くは舞台を見る前に原作を予習する」というのは、出版界では有名なセオリーである。宝塚で上演されることが決まるやいなや、絶版になっていた文庫本が急ピッチで復刊されたり、宝塚の公演の画像を入れた帯を巻いた本が書店で平積みされたりという現象が生じる。なぜなのか。宝塚ファンにはとりわけ読書家が多いのか。要所要所で拍手をしたり、贔屓のスターをオペラグラスで追ったり、気になる新人を見つけて手元のプログラムで芸名を確認したり、観劇中にやることが多いので、せめてストーリーぐらいはあらかじめ頭に入れておきたいのか。それもあるかもしれないが、観劇前、特に公演が開始する前にファンが原則を読む理由となると、それはただ一つ、配役を予想するためである。(太字部分、評者)
なるほど、言われてみると配役予想というのはヅカファンだったらさぞかし楽しいだろうなあと思う。どの役には誰が似合うか、そんなことを予想して、ファン同士、場合によってはSNSで語っていることだろう。そして、それは宝塚に限られることではあるまい。お芝居全般についても、そしてこの本がテーマにしているシェイクスピア劇だって、誰がどの役をやるのか、それを予想することも演劇体験の一部なのだ。お芝居の大きな楽しみは、誰が何を演じるかへの興味のはずである。そんなことを改めて教えられる箇所だが、ここで私が注目するのは、太字部分である。こういう文章を読むと、先生は、きっと、要所要所で拍手をしたり、贔屓のスターをオペラグラスで追ったり、気になる新人の芸名を確認したりして、お芝居中はさぞかし忙しく過ごしておいでなのだろうなあ、と想像されて、思わず私はニヤリとしてしまうのである。
先生の「宝塚愛」はふとした言葉遣いに宿っている。いろいろと引用したくなってしまのだが、もう一つだけ、「男役同士の絆」という題されたところを引用しておく。
ヤンミキ、タモマミ、まさみり、ずんそら、れいまいと聞いて何のことか瞬時にわかる読者は、相当の宝塚通である(引用者注:私はまったくわからない。なんだそれ?)。
宝塚歌劇団は全員、芸名の他に愛称を持っている。この愛称は、劇団のホームページでも誕生日・出身地・身長・初舞台の演目と並んで公開される重要なプロフィール項目であり、ファンはスターを呼ぶ際に芸名以外に愛称で呼ぶことも多い。愛称は非公表の本名に由来する場合も多く、例えば私が高校生の時に贔屓にしていた花組男役スター朝香じゅんの愛称は、おそらく本名をもじったものと思われる「ルコ」で、ファンからは「ルコさん」と呼ばれていた。次いで私がファンになった望海風斗(のぞみ・ふうと)の愛称は、これまた本名をもじった「だいもん」だが、語感から「だいもんさん」とは呼びづらく、かと言ってスターを呼び捨てにするのに抵抗がある私は、愛称は使わずに「望海さん」と呼んでいた。それはともかくとして、例えば芸名の一部に由来したり、本名にも芸名にも全く関係がなかったりと、愛称のパターンは他にもある。
要するに愛称はいろいろあるという話なのだが、竹村先生は、高校時代の憧れのスターである朝香じゅんと望海風斗の名前を出したくて出したくて仕方がなくて、例を次々と繰り出してきたのではないのか。「それはともかくとして」は、ちょうど、オタクが、オタクでない人に向かって熱く語りすぎている自分に気が付いて話を戻しているかような口ぶりではないか。そして、また、「だいもんさん」とは呼ばず、呼び捨てにもできず、「望海さん」というやさしい響きの愛称を選んでいるところに、私は竹村先生のを望海さんへの敬愛を垣間見るような気がするのだ。
『シェイクスピアと宝塚』という本は、もちろん、宝塚シェイクスピアについてだけ書いてある本ではない。シェイクスピア学者として提供できる知識もたくさん詰め込んである本であるし、シェイクスピア作品についていろいろなことを教えてくれる。そこはどうか勘違いしないで欲しい。でも、「宝塚をエサにして、シェイクスピア劇の面白さを少しでも知ってもらいたい」という意図とは全く逆に、普段、シェイクスピア関連の研究書ばかりを作っていて宝塚とはとんと縁のない私にとっては、「シェイクスピアをエサにして、宝塚歌劇の面白さを教えられる」ような気がしたのである。そして、宝塚歌劇をこんなに面白く見ている著者の姿を見ながら、実は私は、シェイクスピア劇を楽しんでいたエリザベス朝時代の人びともこんな感じで芝居小屋に通っていたのではないか、と想像するのである。いつの時代も変わらぬお芝居の楽しみが伝わってくるのだ。
「あとがき」で竹村先生はこう書く。
「シェイクスピアを研究していますが、舞台で見るのは宝塚が一〇〇倍好きです」
一〇倍ではない。一〇〇倍である。言いも言ったり。「宝塚をエサにして、シェイクスピア劇の面白さを少しでも知ってもらいたい」という言葉はなんだったんだ!ーーと私は心のなかで呟く。
最後にもう一つだけ、気がついたことを書いておく。第6章は『ロミオとジュリエット』を扱った章である。副題は「ロマンティックが止まらない!」である。C-C-Bかあ。竹村先生は昭和歌謡の大好きな先生である。末尾の著者紹介を見ていたら、その冒頭に「横浜市生まれ」と記されていた*(私が作った竹村先生の『グロリアーナの祝祭』にはそんな記述は入れていない)。竹村先生のカラオケの十八番は、横浜の隣にある横須賀をフィーチャーした山口百恵「横須賀ストーリー」だということを先日聞いた。
*追記:「望海さん」ってどんな人なんだろうとネット検索した。なるほど、これはほれぼれするような方であった。出身地に「横浜」とあった。