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取りまとめもない事

悲しい、ムカつく。
辛い、やめたい。
消えたい。タヒにたい。



 ”こういうことばっかり言ってると、引かれるよ。そういう人間は嫌だ”

と言われてもう何年経ったんでしょう。もう最近は冒頭のような事は言わないようにしている。というか自発的に言う気にならない。

 自分にこれを言ってくれた人は、もう自分の前には居ないし、多分その人と会えることがあったとしても覚えていないだろうし、もう僕のことも忘れているのでしょう。


 でも意外と人間ってちょっとした一言が、人生を変えたりするんですよね。
 まだまだ中学生の半ばでこんなことばかり言って、挙句の果てに自死願望ばかり唱えていた自分が、そこまで自死願望を持たないようになったのは、その人がそう言ってきたからなんだなぁって、今でも思うのです。


 多分、僕を知っている大多数の人は、こいつ明るくて、でも少し脆くて、でも自死願望とかはあまり唱えないやつだよなって思っていると、自分は勝手に憶測で考えています。


 でも、本当の自分はそんなもんではありませんでした。むしろ、自分を蔑ませて、勝手に絶望の淵に立って、独りだと自分勝手に決めつけて挙句の果てに自死願望をひけらかせて反応を見て悦に入る。自己矛盾の塊みたいな人間なんです。もうそういう人間だったんです。今でも自己矛盾が激しいんですけど、昔よりは良くなってるから大目に見てください。お願いします。
つらいよ。怒られるのは。好きじゃない。本当に。


 だけど、あの人に、あの時に、「そういう人間は嫌い」と言われたのが、本当に青天の霹靂のようにズバーンと体の中を抜けていった。そして、ああ
こういう人間はダメなんだな、というかこうやって卑下するのはダメなんだな、と気づかされて、今の自分が居ます。

 だけど、やっぱり、このnote始めた頃みたいなメンタルコンディションだと、表面はなんとか維持できるけど、文章という自慰道具を手に入れちゃうと、全くと言っていいほど外面を無視して昔の自分が出てきてしまう。多分今日もメンタルコンディションは雲量10。でも雨は降ってないね。この前散々降らせたから。自分が悪くて。


 自分にとって涙は、雨であると思う。雨はすべてを流してくれる。でも、災害も引き起こす。ある意味それは心のトラウマかもしれない。涙を流すたびに僕はトラウマを心に植え付けて、それを大事に育ててしまうのかもしれない。


 雨降って地固まる。じゃないけど、泣くと進化できる部分もある。でも、自分しか進化出来ない。人と生きていく上で、泣いてばかりいるとそれはただの自己満足しか出来ない。

 生きていく上で必要なのは、強靭さかもしれないけど、自分には無いのかなって思う瞬間が多すぎる。


 だけど、もう、生きていくしかない。それを乗り越えられなかったら、未来はない。でも、あの言葉がある限り生きていくしかないし、人にさらけ出して縋ることもできない。

 自分をある意味救ってくれた言葉だし、変化させてくれた素晴らしい言葉かもしれないが、僕にとっては十字架と化しているのかもしれないね。

 異常に嫌われることに、臆病なのかもしれない。というか臆病だ。というか、アレルギーだ。アナフィラキシーショックレベルの。嫌悪アレルギー。自分は嫌悪する癖に、人に嫌悪されるのは非常にダメなの、自己矛盾の自己満足野郎過ぎますね。ありえない。

 いつから自分はこんなに、自分のなりたくなかった人間に変化していったんだろう。考えるたびにがっかりしていく。もう人を傷つけたくないと思いながら、自分を癒すために人に触れ、傷つけ、自分を傷つけ、泣けもしない謎の感情に苛まれる。

 アルコール依存症ではないと思うけど、アルコールで流すということを学んでしまった自分が怖い。大人ってそんなもんだよねって昔から思ってたけど、自分が実際主体となって、すべてをアルコールで流すことに快感を得ていることに対して非常に恐怖を感じる。これが正常な人間なのかとね。


 いつからこんな人間なのかな。もう分からない。辞めたい。でもあの言葉が僕を縛り付ける。そして無理にでも生を認識させ、強迫観念として襲ってくる。それに耐えきれずまた正常じゃないと考える人間らしい行動を取ってしまう。

 こんな最悪なスパイラル、デフレスパイラル並みに是正しなきゃダメでしょ。でも心の中央銀行は、精神の政府に課された十字架に雁字搦めにされているから身動きが取れない。詰みだね。

 そういえば僕は詰み将棋が大好きだった。あの頃。中学生の頃は少しは将棋のことを考えてたな。部長もやってたわけだし。詰み将棋は良い。詰ませるのが正解だから。今自分が指しているのは、自分の首を自分で絞める、自分の人生を詰ませるものだ。詰ませるのは間違いなんだろうけど、自分は詰み将棋が得意だったから、どうも詰ませる方向で頑張っちゃうんだろうな。

 最近好きな曲がある。東京事変の「落日」と椎名林檎の「青春の瞬き」・「ありあまる富」である。メロディーラインもキャッチーなのはさることながら、歌詞がやはり良い。自分が見落としがちなことに対しての答えがある気がしてしょうがない。勝手に歌詞を汲んでるだけかもしれない。

 勿論、今でも平沢進を聴いているが、むしろ最近は椎名林檎を聴くのがスタンダードかもしれない。心情の変化というか、環境の変化というか。主体的要因も変わってきたのかもしれない。
 平沢進の歌詞もしみる部分がある。しかし彼の歌詞は非常に難解とされており、私も自己解釈であるから全て正しいとは言い切れない。むしろ最近は頭が働かないから、椎名林檎のような直接的な歌詞に惹かれているのかもしれない。




 ”取りまとめもない”と宣言したから、どこまでもマイペースに自分勝手に脈略もなく話を進めていい、ということではない、取りまとめもないにそんな免罪符的な意味はない、ということはわかっている。でも、今日はこう、心をさらけ出しながら、指先に全てを委ねてみたい。

 自分は字がへたくそだ。小学生の頃から書写の欄はCである。
 字がへたくそなおかげで、パソコンに非常に愛を感じ、タッチタイピングを練習し続けていた。まぁそれのせいで、ホームポジションもない我流の変な打ち方になっている。右手は一本しか指を使わず、左手はなぜか全部の指を使っている。そんなこんなであまり打つのは早くない。右手が利き手なのに。

 だからこそ、こうやってパソコン上で無意識に文章をつらつらと垂れ流すことが出来る。意識してない。書くことを。


 もうさすがに3000文字近くなってきているのが面白い。原稿用紙何枚分だ
学生時代はあんなに長い長いと思っていた3000文字の文章を、なにも考えずに30分ほどで書き上げているのが非常に滑稽である。

 椎名林檎の歌詞の話に戻ろう。脱線しすぎた。人にも言われる。僕は話が脱線しやすいと。ほら、また脱線した。
 椎名林檎氏のPVのコメントで気になるものがあった。「この人は悲しみを何回も味わったからこういう歌詞が書ける」こういう内容だったと思うが、多分大筋はこれだ。

 なるほどなぁと思った。確かにそうかもしれない。でも実際はどうなのかは分からない。しかし、悲しい心の私に響くということはあながちそうなのだろう。そのコメントを書いた人もそうであるように。

 生きることは難しい、幸せは分からない。富は見えない。でも、悲しみなんて、太陽が去って夜が来ただけなんだ。また日は上る、そういうことを歌詞から学ばされた。弱い人間だから、自分は。こういう歌詞でウルっと来てしまうし、でも泣けない。なぜか。最近は。

 最後に「刹那主義」という言葉の話をしたい。ネットニュースを見ていたらこの言葉が最近の若者に人気だという。ほう。「刹那」の言葉の通り、今の一瞬を中心に考えるという思想を表した言葉だそうだ。
 私はこれは正解だと思う。今が楽しくなくて、いつが楽しいのか。昔か?未来か?過去はもう、一度味わってしまっているのだから今改めて感動するためには日々更新するしかないから、過去を振り返る必要は無いし、未来には何の保証もない。だからこそ、今が一番ではないのか?未来を考えて悲観している自分が言えた義理もないし、今こうやって心を慰めるために、やらなければならないことをすべて放棄してこう文章を垂れ流している行為を辞めろとしか言いようがない。

 僕にとって、自分は、私は、何なんだろう。イメージが沸かない。
 だから自己分析が苦手で人に投げてしまう。そしてそれに一々感動して、その人を好きになってしまう。どんだけ自分を愛するのが下手なんだ。その割には自分が大好きで。しょうがない。

 自分が好きだから、人からの評価を気にして、嫌われるのが物凄くダメで、愛されていると感じると有頂天になってしまうのであろう。

 毎回同じようなオチに持っていっているように感じるが、今日は「取りまとめもない事」というタイトルだから、このまま尻切れトンボで終わらせてもらう。

 何も纏めないし、むしろ放つ。そしてあなたがどう思うか、侮蔑されても良い。でもそれでまた、自分が削れていく。しょうがない。それが自分が求める承認欲求なのだから。



 やっぱりなんかさみしいね。


今日のこの投稿は散文詩ってことにしときます。詩です。

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