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いみじき哉

 こんばんは、お疲れ様です。
今日も寝れずにいるので、こうやって私の言葉をネットの海に放流するわけですが、まぁ一つお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

 最近思うのです、果たして甘やかすことは正しいのか。

「教育して叱ってやれ」

東京事変/群青日和(2004)

 私はどうしても親しい人間に対して甘やかすことを是としてしまう傾向があるようで、特に特上の愛情を与える者に対しては過保護なほどになってしまう。過保護って恐ろしくて、叱るいやそれどころか怒る感情すら浮かんでこない。そして私の場合では、その過保護にする相手よりも苦労している状況でないといけないという強迫観念が私の礎として心に打ち込まれている。だから自分に嘘もつけないし、下手に力を抜けない。

 自分が考える愛情を注ぐという事は、自分の我儘ワガママとエゴイズムの集大成といえる。よく考えてほしい、人に愛されるのは嬉しいことではあるが、一方としては面倒であると考えられるかもしれないし、自分とは見合う相手でもないのに勝手に気持ちを注がれても困ると思われているかもしれない。そういった思想が私の中にある、いやあるどころかそれらが構成主体として私を作り上げている。こんな人間が人を教育できるだろうか、否、そんなわけがない。現状から脱さねばならぬな。

 話が飛んでしまった。愛情を注ぐという部分から今日の本題から乖離かいりしていってしまった。あくまで今日の本題は『甘やかすことは正しいのか』という部分であった。

 甘やかすことによって、その人自体の成長を止めてしまうのかもしれないが、私はあくまで「私の与える愛情の十字架を背負っている分だけ軽くする贖罪しょくざいである」と思う。甘やかすほどに愛を与えられる側も大変である。まったくもって人生においてそこまでめんどくさいことはないだろう。無償の愛とはよく言ったもんだが、愛を注ぐにも注がれるにも膨大な時間が犠牲となっており、その時間でできたことへの機会損失を考えたら、愛を与えることの罪深さは計り知れないと思う。だからこそ、私は人に甘やかしてしまう。正しくなかろうが、私の中での正義はそれだからしかたない。受け入れてくれ。

 だがしかし、こういった独善的な考えも改めなければと思う。どこまで行っても自分が大好きなんだなぁって思う。子供なんだな、一人っ子で甘やかされて生きてきたから、甘やかされるのがスタンダードになって是としているのだろう、だったらいま自分が一番求めなきゃならないのは、私を叱って教育してくれる存在なんだろう。自分がそれになる前に、しっかりと叱られて、教育されて、正しい価値観を踏まえなければならないのだろう。

「叱ってもらって育ってやれ」

東京事変/仏だけ独歩(2021)

 そういう事ですかね。もう涅槃に入ります。あ、布団か。さらば。
こういう自分のために、新曲の「原罪と福音」があるような気がしてしょうがないな、歌詞を見てると。さて、明日も人を信じて生きていこう。何事もまずは前向きに、それのためには寝るのが一番。頑張って寝てみようと思います。おやすみなさい。

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