KKL 20221212 研究室会議レポート

こんにちは。今回の研究室会議レポートを担当するM1の波島です。

 実験実習費や理科設備費の使い道、忘年会の話など事務的な話題が増え、年の瀬を感じる今日この頃ですが、研究室会議では相変わらず結露が滴るほどの熱い議論が交わされています。

-近況


 今週の個人発表では、学部4年生8名と修士1年生4名の発表がありました。4年生の発表は卒業設計まで6週間を切り、力の入れる場所やスケジュールの立て方、乗り切り方など、かなり現実的な話題も増えてきました。また、内容としてもリサーチの全貌が共有されてくるにつれ、より具体的なプログラムや設計手法についての話題がメインになってきたように感じます。
 頭の中ではなんとなくできていたはずなのに、実際手を動かしてみると、または人にイチから伝えようとしたときに出てくるあんな問題やこんな問題、耳を塞ぎ、目を背けてしまいたくなるような矛盾の数々。それらに対し覚悟を決めて歯を食い縛り、ひとつひとつ向き合っていくしかない。正真正銘、山場の時期です。いよいよ走り切るしかないという空気の中、今まで蓄積してきたモノとして何をもっているのか。今までどんな議論の末、今の提案に至るまでにどれだけ悩み議論してきたのか、ということを冷静に再把握し、出口(アウトプットの設計)まで見据えながら様々な要求を同時多発的に処理できたらよいと思っています。(言葉で言うのは簡単なのは重々承知です。。)
 

-記憶の記録化


 しかしそんな状況の中、いくつもの模型とパース が並び、それらを見ながら作られ方や舞台設定の話ができたのは大きな成果ではないでしょうか。手を動かすというのは自分と会話をするということです。歴史をみても記憶を記録化することで人類は自分を超越する思考や視点を手に入れてきました。そんな大きな話を励みに走り抜いて欲しいと思います。
 そして、今週は全体の前で発表するということが最後であるということもあり、様々な議論に花が咲きました。時期も時期ですので、今回は「いかにして建築を作るか」ということを主題として記憶に残った2つを共有できたらと思います。(これぞ記録化!)
 1つ目は建築の作り方がリサーチから必然的に現れてくるという手法についてです。建築はその場所の生産背景に大きく依拠してきました。物流が発展する前はその地域にあるもののみで建築を作るしかなかった。しかし、流通網をはじめとしたテクノロジーが大きく発達し、資源に関する制約が事実上かなり小さくなりました。しかし、だからこそたくさんの問題も生まれているというのは、みなさんが共有している前提だと思います。それを逆手に取り、意図的に資源の有限性が設定された舞台を設計することで、得られる構築物そのものが非常に強い批評性を持ち得る。とにかくモノで語るという勝ち方は大いにあり得ると思います。
 2つ目は建築の文法を意図的に混ぜ、混成物として立ち上げるという建築の作り方です。建築を構築する(形が存在し得る)ためには必ず立ち上げるための文法が存在します(必ずしも操作という意味だけではない)。僕たちがその場所らしさを感じるというのはその文法を(無意識的かもしれないが)感じているからではないでしょうか。では、もしその文法が意図的に書き換えられたとしたら、それによって作られたモノが、見えていなかった文法を暴き出す装置になり得ます。それはすなわちその場所の根拠、その場所がその場所である由縁と言い変えてもよい。舞台の設定によっては場所そのもののもつポテンシャルや問題、あるいはそれをみている観察者の側の問題を暴き出すことにつながるといって何ら差し支えはないと思います。これはモノのもつ違和感そのものが問題の根源であるという語り方になると思います。

-さいごに


このように何で作るのか(構法と材料)が決まってくると一気に案の解像度が上がってきます。そしてそれらは多くの場合舞台設定から必然的に決まってしまうのではないでしょうか。卒業設計はどこまでいってもフィクションです。だからこそ、モノの持つ説得力は計りしれない。もし門脇研らしさをあげるとしたら、それはみながモノの持つ説得力を信じ、命を削り、どうモノに落とし込むかという一番しんどいところに徹底的に向き合っているかどうかだと思います。言葉は簡単にコピペできてしまう時代に、1つの作品を作り出す覚悟を持った人間の魂はどこに宿るのか。だからこそ、冷静に、戦略的に、ときには「えいっ!」と決めてしまうことも大切だと思います。
 時間を含む有限の資源の中でどこに時間をかけるか。それは卒業設計というものとの向き合い方そのものであり、それこそが卒業設計なのかもしれない。だからこそ、互いに励まし合い、ポジティブな議論を交わしながら研究室一丸となって熱い冬を乗り越えていきたいと思います。頼れるものは頼る。ハングリーな精神で研究室を使い倒していきましょう!頑張るぞー!えいえいおー!

-追記:展覧会「ABOUT TIME」のレヴュー

 また、当日は学部4年生、大橋真色さんによる卒業設計のための展覧会が開催されました。僭越ながら、本展覧会を一言で言い切るとするならば「切り裂かれた空間に投影された映像を、それでも理解しようとするときに生まれる破壊的な時空間体験」でしょうか。
 時間の側にたてば空間を介在させ、選択肢を創出、脱時間体験を拡張する映画観の提出であるように思うし、空間の側にたてば従来的な建築の構造を崩し、不均一性を挿入することにより、空間体験を拡張させることに成功していたと思います。
 本展覧会は学内における一度きりのインスタレーションという体験の特殊性、閉鎖性を孕んでいるため、事後的な語りによって開く必要があると考えます。そのため、事前に研究室会議で議論された内容の共有も含めながら、一人称視点から体験をなるべく丁寧、かつベタに記述をします。さらに、観察者・体験者として、僕個人の考察も踏まえながら、本展の批評性を解き明かす一端としたいと思います。
 本展覧会は明治大学生田キャンパス中央館4階のフロア全体を使って行われました。本校舎は中央に6層の大吹き抜けとトップライトをもつ建築であり、建築計画としてはいわゆるボイド型とよばれるものになります。1番のポイントはこの大げさな操作が、2階以降の建築体験にほとんど影響を与えていないように思われることです。共用部の不均衡さ、空間の質の単調さ、教室の環境の悪さなどなど、空間の無駄遣いを体現する先生として普段から大変参考にしています。(徹底的に正方形を使って建築を構成しようとする姿勢は好きです。)
 この、単調で不健康な建築を映像を使用することでどう魅力的な体験に変換するのか。その差分こそがこのインスタレーションの意義であり、批評性の宿るところであります。

明治大学明治大学生田キャンパス中央館。電気が消えているところが会場の4階。


 本展覧会では「ABOUT TIME」という映画を題材に、12のシーンとして切り裂き、さまざまな空間に投影させていきます。本作品の選定の根拠として
・1人の人生、という分かりやすい一方向の流れ
があること。
・特徴的な時間構造を持つこと
を特筆して挙げており、ほかに
・鮮やかな色彩であること
・心地よい音を使用していること
・暮らしに溶け込みやすい絵とスピード感であること
を挙げており、実際その効果は十分に発揮されているように感じました。

filmarksのサイトに飛びます。概要などが気になる方は是非。


 そして、それら12のシーンを廊下や部屋にさまざまなレトリックを使用しながら投影させていきます。説明のパートから始まり、徐々に個別のシーンをより分解度を高めながら空間に散りばめていきます。最初は空間的にも時間的にも閉じられていたものが、だんだんと開けてくるように設定とすることで、建築計画としては無機質なものを、別の要素を組み合わせることで豊かさとして認識されるように工夫されています。そして、それらを2周することによって、記憶の中であちらとこちらをつなげることが可能となり「枠」の外を設計することに成功しています。それは映画というものの脱監督的体現としても評価できるし、それは機能的な空間をハックするという意味で脱モダニズム的ともいうことができるのではないでしょうか。
 

展覧会「ABOUT TIME」のフライヤー

 例えばシーン06、父の部屋(当日変更)では、壁と天井の境に照射された映像が、幾何学的に正しく投影されることで、建築計画における利便性、あるいは合理性と全く別の論理で建築体験が組み立て得ることを示しています。それは、あるひとつのシーンにおいて、現実的な時間の流れと同じ流れ方をする映像というものが、建築によって歪められ、映像的レトリックとして我々の前に再度現れるという、単純だが、効果的な視覚言語を最大限に刺激する幾何学のみに注目をして、体験を多様化しています。

シーン06、父の部屋を正面から見る
シーン06、父の部屋を裏から見る

 シーン04、シャーロットと夏の思い出では、プロジェクターの前に三角柱のアクリル板を置き、意図的に映像を多方向に屈折させることで、多重の投影先に切り裂かれた映像(空間)とひとつの音声(時間)の分離を体験することができます。そこでは、正方形のみで形成された窓が新しい意味を帯び、わたしたちの前に立ちはだかります。クリスチャン・ノルベルグ=シュルツが「実存・空間・建築」の中で指摘している通り、ある場所・空間の特性は、その場所とそれを取りまく状況との相互作用の結果生じるもので、「地」と「図」との議論上にあるということができます。しかし、本展覧会では、その「地」と「図」を別のファクターを乗せることで、多重に反転させ、同一の場所でありながら、映像の変化(時間)の介入により、空間を変化させることに成功しています。このとき、相互作用の主従関係が連続的に変化し、それらに合わせて、空間の質にも大きな変化をもたらします。それは、必ずしも映画の時間の流れ方に完全に依存するわけではなく、映像が映らなくなってしまう部分や、我々には認識不可能になってしまう体験のムラによって、逆に時間のムラを体験のムラに変換することに成功しています。

シーン04、シャーロットと夏の思い出

 さらに、シーン6、父の部屋とシーン7、コーンウォールの家は同時に体験ができるようになっています。シーン6は建築の内部に、シーン7は建築の外部に投影され、廊下→部屋、あるいは廊下→外部の関係あるいは、内部や外部という見方そのものが壊れる可能性があることを易々と想起させる内容になっています。人間の頭の中では、誰もが無意識のうちに、空間の体験を通して空間の要素を抽出し、実存的空間の構築や空間把握をしているわけですが、それらは決して空間単体の特権ではない。むしろ、それを飄々と乗り越え、新しい時空間体験の可能性を切り拓くことを感じられる展示方法でありました。

シーン6、父の部屋とシーン7、コーンウォールの家(1)


シーン6、父の部屋とシーン7、コーンウォールの家(2)


シーン6、父の部屋とシーン7、コーンウォールの家(3)

 空間が人の心身に与える影響について考えることから始め、研究室で議論を重ね、ひとつのアウトプットとして、空間芸術に分類される建築における時間の考察に辿り着きました。これは、空間による時間芸術のremixとして、十分に強度をもっていたように思います。時間の流れに「付き合わせられる」制約が現代のメディア需要に合わない、という、多くの人が感じているであろう、分かりやすい現代的な課題を鮮やかに払拭すると同時に、現代の映画館というすごくヒエラルキーが強い空間に異議申し立てを行いました。それだけでは飽き足らず、本建築物のようなツリー構造として整理できる建築計画は無時間的であることを暴き、その空間が強烈な体験を与えられるよう、独立した論理を重ね合わせることで複雑な時空間体験を易々と引き出す様子は圧巻の一言でありました。建築の一義的な見方を拡張させることで、必然的に従来の建築における構造が崩れるような舞台を作成。映画の持つ一定である時間の流れを、空間の仕上げ素材や、透過度など素材が持つ様々なファクターによって多様な読み替えが可能になるような設定を選択し、複数の意味として代替する手法を鮮やかに見せつけられています。それこそが建築の持つポテンシャルとして、時空間の融合可能性という視点から、見方を変えるアウトプットとして秀逸であり、不均質性を紛れ込ませた時空間体験を与えることで、計画という枠そのものの限界、あるいは乗り越え方のひとつを提示されたように思います。
 もちろん空間と時間の関係は古くから考えられていたことであり、今回は体験におけるムラというものから、失われたものを頭の中で復旧する作業を通じて、時空間の再解釈に大きな意義を与えていました。総体の体験に時間というファクターを真正面から入れることにより、今ある建築計画に大きな異議申し立てができていたのではないでしょうか。それらは室の配列関係が常識的なものと異なるような、例えば室の接続方法によって時間性を入れ込むことが可能ではないだろうか、という計画そのものの拡大(あるいは破壊)を予感させるものであるように思います。
 また、構法計画研究室としてもガラス、角、表層の材料など既存のエレメントがもつ意味がかなり変わる予感を、あるいはその組み立て方に全く別のものが浮かび上がってくる可能性を感じずにはいられませんでした。コロナ禍にのよって暴かれた機能的である、という冗長性のなさ、その危うさ。それを別の側面から、別のアプローチで暴き出し、レトリックによって時空間をどう繋ぐかという実験的なインスタレーションによって、その先まで見せてくれた本展覧会。総じて十分に満足をさせてもらいました。可能であれば、もう一度より多くの人に見てもらえる機会があればよいと思います。



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