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NKZ_2019【Day3】後編

東京理科大学西田研究室・明治大学門脇研究室の合同ゼミ「NKZ2019」

「建築映像を撮る」をテーマに、3日目後半は事前に製作して持ち寄った映像の上映会と講評会を行った。

【A班:A邸】※非公開

スクリーンショット 2020-02-03 14.13.21

A邸は抽象度が高い空間で、建築的に自律的強度が高い空間である。それを逆に利用したら、上下左右が全くわからなくなるなど、説明と言うよりは遊び倒すようにA邸の映像を撮れると感じた。その中から逆説的に抽象度が浮上する作品として製作した。

ーーーーーーーーーー以下講評

能作>無重力感からのスタートというのはわかる。しかし、もっとおどろおどろしい、変な世界みたいなのを表現できたのでは。
ネタバラシがやや早い。なんかこの世界、ちょっと異常かも?と気づいてからもうワンジャンプあるみたいな構成がよいのでは。
オシャレな感じと変な感じが交互というより、明快に前後でよかったかも。

仲本>アイデアを出そうとした点はよかったが、建築の魅力と映像の手法(ギミック)どっちがやりたかったの?
大柳>手法からスタートしたが、現地でA邸側に寄ってしまった。
仲本>「建築の線の誤読」と「無重力感」は別のコンセプト。フォーカスが絞れてない。
一番面白かったのは最後のドキュメンタリーかもしれない。
ただ、このプロセスを通してA邸を楽しんでる所が伝わってきてよかった。

伊藤>映像が床壁天井に展開して、A邸の全方位性が感じられた。
ただカメラを置くときに気になるのは前後関係で、A邸の連続したシークエンスを固定したカメラで描き出せるのだろうか?映像の断片同士の繋がりは意識していたのか?
大柳>見え方の似ている、錯覚の仕方が似ているものを繋げて全体のシークエンスを作った。
冨永>撮ってみてからの新しい発見はあった?
大柳>実際は絵コンテの半分しか実現せず、半分現場で検討という感じ。
冨永>実際に建物を訪れた時のジャンプが欲しかった。
現地で発見したものや撮れなかったものの価値でもう一作品作れてしまうのではという無い物ねだり

西田>仲本さんの🦀の映像では、どんな家かに興味を持たなかった。一方この映像ではA邸自体に興味が湧き、その全体像を見たいと思う自分もいた。しかし断片の映像だけでも面白かった。建物の全体を捉える映像は必要か?
門脇>A邸自体の設計コンセプトを最後に伝えないと撮り方の趣旨が伝わらない?ネタがわかった後に何が起こるかが重要。どういう解釈ができるかを鑑賞者と一緒に発見できるような映像の方が良かった。
能作>もっと自動的に頭の中で建物の全体性が浮かぶようなディメンションをたくさん提示すればよいのではないか。
西田>門脇さんや自分世代は構成を欲してしまうが、次の世代は関係性程度でオープンエンドな緩めの思考なのではないか。そこで構成を欲してしまうのは古いんじゃないかという葛藤もある。

仲本>映像作家として言うと、門脇さんの構成のやり方では5分では足りない。また、タイトルに「A邸」を冠しているならA邸を見せてほしい。
門脇>15分の建築動画は新しいかもしれない。
仲本>授業で映像を半年教えているが、(ストーリーに頼らず映像として)意味がある15分の映像を作るのは本当に難しい
神永>建物は他者の感じ方が大切なので、設計者と関係ない人が建物の映像を撮るのは面白いと思った。
西田>映像を撮ったことによって、A邸の強度などの発見はあったか?
門脇>キュービックな建物であればどこでも撮れる手法なので、まだ想像的解釈には至っていない。A邸を知るからこそそう思うというのはあるが...
西田>だからこそ全体像ではなくても、愛?手法を面白がるのではなく、建築自体をもっと面白がって表現に活かせるとよい。
能作>建築を学んだ人(より設計者に近い人)が作った映像はどう面白くなるか?自分は映像作家か建築家かどちらが作ったものか分からないことが面白いと思う。そもそも現代は全員がカメラを持っている、使えること自体が凄いこと。
建築を理解しているのであればその理解が映像に現れるべきなのでは。
門脇>ちょっと最後のドキュメンタリーは"大学生感"がありすぎたかも?


【B班:まちのような国際学生寮】

この建築はどこから撮っても全体を把握できず、写真だとわかりにくい建築だと思った。
スマホで動画を撮ること=パラレルな体験を共有することだから、むしろ動画の方が分かるのではないか。
動画では、それぞれの人が動き方がルールによって規定されている。
スイッチをつける人/特定の階だけ歩けるルール/電気がついた場所が歩けるようになるルールetc....
規則性の中に不規則な出会いが生まれ、その結果居場所が生まれたりすることを表現した。

ーーーーーーーーーー以下講評

能作>最初にルール説明をした方がいいタイプだったのでは
門脇>どっかで裏切って欲しかった。ルールが不自然すぎて、動画のための動画になってしまっている。これでやるなら、そのルールが「当たり前に見える」くらいに没入できるようにしなければならない。
ー青木淳のサッカー的な

能作>世界が完成して初めて、その世界と建築の関係が語れるようになる
十文字>中山英之展のカノンみたいなことがしたかった。
小松>こういう面白さと、良さ・クオリティは改めて両立して初めて作品なんだなあと
冨永>もっと詳細にロールモデルを設定したらすごい動画になってた。
門脇>与えられた条件に素直すぎ。撮るのは2人にしたりしてもよかった。

能作>多様な空間を多様な人で作ったせいで均質に見えてしまった。視点は一つに絞るとかした方が多様さは伝わったはず。建築の構造と映像の構造を対応させるべきか否か?
伊藤>スマートフォンを皆が持っている同時性と捉えたのは良かったが、形式が統一されてるから均質な映像に見えた。
門脇>iPhoneで固定したのは良いが、固定したことの良さを活かしきれてなかった。
仲本>サブカルチャーのコンテクストの高さと低さについて。映像を見せる相手は誰か?現代美術ではローコンテクストなルールを必ず課してる。つまり世界のある問題を知っていれば誰でも楽しめるようにできている。
門脇>進撃の巨人はなぜあのルールに入り込めるのかとかを分析した方がいいかも。
西田>学生寮の日常が均質だという前提でスタートして見える。もっと「歩きスマホの世界」に見えるように撮ってもよかった。


【C班:CASACO】

ーーーーーーーーーー以下講評

仲本
>ドキュメンタリーの種類には、カメラマンが介入するものと離れて客観視するものがある。フレデリック・ワイズマンは先にカメラを置いて撮影するので、場所を選ぶことに意味がある。自分自身が風景になる。
能作>あの上がり框で起こるアクティビディが抽出されてたという意味で紙袋を渡してるシーンは良かった。もっと人が絡み合うような場所(塀や段差など)にカメラを置くとかにしても良かった。
なぜそこにカメラを置いたか不明→こんなことが起こります、という伏線回収や、なんでもない周りを撮ってカサコによる周辺の変化を映すなどしてもいいのではないか。

門脇>この動画で日常性を担保してるのはカメラの位置の中立さである。導入は別のやり方を考えた方が良かった。また、ブラックアウトは1日の終わりに見えてしまう。日常の時間が地続きにあることを表現したかったのなら最初と最後の暗転は両方いらなかった。タイトルもいらないのではないか?我慢できないくらい長い作品でもよかった。つまりずっと見れちゃう。
ループさせても良かった。「あ、ずっと見てたけどループだった」みたいな

冨永>竣工時の達成感とは全く別の空気に変質して見えた。
門脇>カサコの撮り方として合っていた。
冨永>カサコからぼんやり眺める映像も欲しかったかも。
西田>飽きさせないのは、切り替えのタイミングがうまかったから。見ててずっと見られる、間が持つのはかなり重要。

門脇>ロゴが入ってると、この映像は誰かが作ったものだという事を示してしまう。だがクレジットは必要。そうなった時にどう入れるかもデザイン。
伊藤>空気として感じる内外の連続性の存在を映像から感じた。建具以外にも建築の内外を感じるエレメントがあることに気づいた。
能作>「こう撮ってもらったら嬉しい」というのと「自分で撮る映像」の差は何なのか。("観察者"と"設計者"の違い)
門脇>CASACOはコンセプト的に設計者が映像を撮るのもありうる。もっと傲慢な建築をこのテイストで撮ったらもっと"観察者"的な作品になってた。
tomitoのお二人に喜んでもらえたのはコンセプトと親和的だったから。
柱や蚊取り線香など時間というテーマが共通して見えた。
冨永>映像にわざとらしさがなかったのは撮影者が当事者じゃないからかも
門脇>設計者の視点を盛り込みつつ遠いところに持っていくバランスを示唆している。視点がゼロだとそれはもはや建築動画でしかない。
仲本>撮影者と編集者が一緒なのに客体化できていて良かった。
門脇>主題がわかりずらかったかもしれない。オープンエンドな作品ということを突き詰めるならもっとやってよかった。


【D班:ヨコハマアパートメント】

ヨコハマアパートメントが普通の住戸とどう違うかを突き詰めた。共用部の中でそれぞれの独立したストーリーがあるはずで、視点によってストーリーが切り替わっている事を映像で表現しようとした。

ーーーーーーーーーー以下講評

冨永>全体を通してストーリー調で、なんて事のないシーンが普通と違う感じが不思議な感じだった。敷居を跨いだり忘れ物を取りに行くような境界を越えるシーンは、個人によるものだから描写があると面白い。
伊藤>フレームの外側への想像力が働く。映像でしか撮れない質感や、弟の連続性を捉えている。
能作>建築の使い方を表すアイテムとしての動画だと感じた。状態を表す"アイテム"を使っているので、建築学科の強さを生かすならモノの残骸だけで全部示すとか。台詞なしで
仲本>なぜ演劇的でなければいけなかったのか。なぜここを選んだのか。
門脇>建築自体が劇場的だと気づいた(楽屋みたいとか舞台みたいとか)
撮影方法と建築は合ってた。それによってこの建築の性質があぶり出されている。構成が強い分、撮り方でどう表現するか考えなければならない。


【E班:ヨコハマアパートメント】

普通じゃない日常を普通に描くドラマを撮った。1日の時間軸の中での共用部を映像にした。時間軸と共に人間の行為から建築へと視点がシフトしていく。異様さとは距離感だと捉え、あえて階段のような接続詞は写さずに一続きの日常の中で異様さを描こうとした。

ーーーーーーーーーー以下講評

仲本>これぞ建築動画という感じで、人よりも建築がメインに見えた。ナラティブな部分もあったが抽象度高かった。フレームの外を常に想像した画角を選びとっているのが良かった。
門脇>「顔を書かない」という建築パースの原則のようでもある。
能作>これは建築動画なのか、ドラマなのか?手法が建築動画だけどドラマ仕立てになっている。顔の見えなさとゴミの捨て方の不穏さで違ったテーマが見出されてしまいそう。
門脇>全く別のクリエイターが撮ったように見えた。
鈴木>違和感を撮りたかった。
門脇>そこは一貫してたと思う。

仲本>顔を写さないけど不吉じゃない映し方もある。演者の白い服からはドラマが思い描かれ、ケチっぽく見えてしまう。映さないことによって映す趣味的動画はあるが、建築動画として打つなら趣味性は排除したほうがいい。
門脇>ヨコアパのハッピーさに対するカウンターに引っ張られてる感はあり、そういう意味で不穏さを排除したものは見たかった。
むしろハッピーさが映っていないのに感じられるみたいな方が良かった。
いい構図で淡々と日常を描いたのはよかった。
「建築を映さないことによって建築を映す」ことには可能性がある。
冨永>桐島部活やめるってよ的な?

伊藤>ヨコアパの距離感と映像がリンクして、与えられた情報が自分の中で立ち上がってしまう。もっと余白のある作り方でも良かったかも。
西田>部分が多い建築だと、部分の連続だけでは動きが見えない。間に生活があることで繋がりが見えてくる。生活だけでも建築だけでもないところを映したい。
冨永>料理は現象なので映してもいい

【総評】

■能作さん
2011年に初めてムービーを出した時、建築は映像では示し切れない等の批判に納得いかなかっただけに、今日呼んでもらったこういう場があること自体が凄いと思った。
映像に対するハードルは世代的な感覚の違いもあると思う。編集技術的な面もそうだが、自分達の世代とも少し違う物語的な建築の捉え方が時間の流れを伴う映像というメディアにすんなり乗っているのは驚きだった。

■仲本さん
美大で映画を教えているが、今回このクオリティの映像が出てきたのは驚き。似たものがなく、一つ一ついろんなコンセプトのもとでそれぞれの場所に向き合って制作したことが伝わってきて良かった。

■伊藤さん
今回カサコを通して呼んでもらったが個人的にも映画や映像が大好きでメチャメチャ興奮した。皆さん何かの扉を開いてしまったのではないか。
建築をどの様に表現するかという事以上に、建築映像から建築をどう批評できるかと言う問題にタッチしている気がした。
映像の作り方の中にも建築的な思考が垣間見えるところがあり、各自の設計にもフィードバックできる所があると思う。

■その後、先生方のツイート

文責:磯野

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