土砂降りの中のランニング〜「不快があってもいい」とすると何が変わるか
走り始めたら土砂降りに遭った
走りに出てしばらくすると、ゴロゴロ空が鳴り出し、稲光が空を駆け巡り、ポツポツだった雨粒が、河川敷につく頃にはバケツをひっくりかえしたような土砂降りになり、ずぶ濡れになった。
最初は「ウワッ」思ったのだが、もう仕方がないので気にしないようにして走り続けていたら、雨は不快でなく心地良くなった。目に入るので前を見にくさという難点はあるが、「濡れるのはヤダ」「濡れてはならない」ということを手放して受け入れてしまったら全く気にならなくなったのだ。
元々、雨の中を走ることはシャワーランとも呼ぶし、意図的に雨の中を走ることもある。ただ、自分の場合は、どちらかというとやはり、濡れることを良しとせずに、雨の日は休む口実として外に出ないことがほとんどだ。
ここで「濡れたくない」という思考はどこからくるかというと、「濡れたら玄関でタオルで身体をちゃんと拭かないといけないなどの面倒が増える」「濡れると目が痛くなる」「濡れると風邪をひくかもしれない」などという、心配事・面倒事を想起することで湧いてくる。
しかし、上記を「まぁ別にいいか」と受け入れた途端に、濡れることは全く気にならなくなった。それどころか、橋の下で雨宿りする人たちを尻目に、雨の中を走り続けるのも、非日常感(レースの最中に土砂降りに遭うことはたまにあるので体験がないわけではない)がある。この時期の、暑すぎず寒すぎない気温で雨に打たれることは、むしろ皮膚への心地よさを感じる。あ、もちろん、目に水が入って痛くなったり目が開けないこともあったのだけど。
「あってはならない」を「あってもよい」とする利点
僕らは日常的に「不快はあってはならない」と決めつけている。でも、その「あってはならない」を「あってもよい」と変えるだけで、世界はどれだけ生きやすいことになるだろうか。
「あってはならない」は大抵、それが起きたあとの面倒事や不安・恐れを予測するために生まれる。その予測自体は、もともとの生存のための危険予測だから良いも悪いもない。でも、未来の危険予測ばかり考えて生きていたら、「今を生きる」よりも「未来の心配」ばかりしていることになる。
もちろん、未来の心配をすることが悪い訳では無いが、未来のことばかり心配し終始しているのなら、本当の意味で「今を生きる」ことができていないということになる。
自分の中にある「あってはならない」を「あってもよい」と受容することをやってみてはどうだろうか。そのとっかかりとして、「雨の中を濡れて帰る」ことをおすすめしたい。
春じゃなくても、まずはここから始めてみてはどうだろう。
自宅についたら、当然びしょ濡れ。玄関にバスタオルを持ってきてもらい、身体を拭いてから風呂場に直行したが、床をそれでも濡らしてしまって妻に怒られ、次男に濡れた床を拭いてもらった。ここだけを見ると、だらしない大人の話で終わってしまうが、雨の中を走り続けたおかげで、気づきが降りてきてこの記事がかけたと考えると「雨の中濡れて走り続ける」があってもよいとしたかいがあったと言えるのではないだろうか。