人や虫に対する嫌悪感についてのあれこれ
人はなぜ虫を嫌いになるのか?
先日、FBで虫嫌いな知人のコメントから、もしかすると虫に対する嫌悪感は、自分の中の醜い部分や嫌な部分を虫に投影しているのではないだろうか?という仮説が浮かんだ。まったく根拠はないんだけど。
そういえば、虫嫌いについて昔考えていたことがあったので、あらためてまとめてみた。
虫嫌いについての研究結果
現代人の虫嫌いについて、昨年こんな研究が発表されていた。
上記の研究仮説としては以下の通りだ
13000のオンライン実験と調査の結果、上記の仮説が支持されたと結論付けられている。
わからないと、こわい?
自分は生物を専攻していたわけではないが、子供の頃から生き物全般は好きで、昆虫、クモ、ムカデ、爬虫類、両生類など、日常目にする生物はかなりの種類を判別できるし、危険性も把握している。
子供の頃は何でも捕まえたり飼っていた。野外では、アシナガハチに刺されたり、クモやムカデに噛まれたり、シマヘビに噛まれたり、いろいろやらかしていた。その結果として生物の危険性についても概ねイメージできる。
一方、自分の周囲の大人で、そこまで昆虫や小動物に詳しい人は、生物専攻の人以外には滅多にお目にかからない。大抵の人は、ムカデとヤスデの区別もつかないし、ユスリカとイエカの区別もつかないようだ。
とにかく「虫は怖い・苦手」というイメージが先行しているように思える。
先日、友人がムカデを見た時に、どこで噛まれるのか、刺されるのかのイメージもわからないと言っていた。驚いたのはこの一言だ。
尻尾で刺すのはサソリであって、ムカデは顎で噛まれるがお尻の触手は刺しません。また、「ムカデはかたそう」というイメージも聞いたことあるが実際は別に固くはない。
これもまたよくあるが、ヘビについて「ぬるぬるする」とイメージしてる人が案外多いらしい。
ヘビは実はサラッとして夏は冷たくて気持ちいい(そしてちょっと青臭い)。ヘビの筋肉の力は思ったよりすごいのだけど、こんなことも捕まえて触ったりして体験しないとわからないことだ。
ちなみに、自分は国内の毒蛇以外のヘビは見つけたらすぐに捕まえる習性があります。
危険・安全の区別がつくか?
危険生物のハチについても、基本は巣に極端に近づいたり、こちらから攻撃しない限りは大抵は刺すことはない。(スズメバチ、一部のアシナガバチは例外もある)
クマバチのように大きく羽音が凄いハチも攻撃性がなかったり、オスは刺さない(卵管が進化したのが毒針なので)といった知識があるかないかで恐怖心が変わる気がしている。
妻に虫嫌いの話を聞いた所「テントウムシは触ると汁を出すから嫌だ」とか「子供の頃コオロギを授業で捕まえないといけなくなり、捕まえたら噛まれて痛かったので嫌いになった」などのエピソードを聞いた。元々地方出身だから、それなりの虫との体験を通じて不快なイメージができたようだ。
自分も、子供の頃によく水生昆虫のマツモムシを手づかみして刺されて痛かった思い出があるから、今でも極力手づかみしないようにしている。しかし怖さは特にない。
おとなになると虫が怖くなる?
一方で、子供の時はそれほど抵抗感がなかった虫に対して、大人になると嫌悪感が増すのでは?という気もしている。
これは自分の子どもたちを見ていて、子供の頃はそこまで極端に虫嫌いじゃなかったのに、成人近くになり「もういるだけで嫌」と嫌悪感が増すのが不思議だった。
自分自身も、子供の頃はあらゆる虫を捕まえたりすることが可能だったのに、成人して何十年ぶりかに大型のクモ類を見た時に、それまでになかった嫌悪感・抵抗を感じたのが衝撃だった。
昔はクモに関してまったく平気だったし、子供の頃はクモ図鑑を持ち、実際にクモを飼ってもいた自分ですら、嫌悪感が湧いて身体が反応してしまうという事実がそこにはあった。
自分の知識・経験は変わらないのに、嫌悪感が生じるとはどういうことなのだろう?
自己分離によって嫌悪感が生まれる?
冒頭で紹介した「自己の受け入れられない・嫌悪している部分があると、虫たちにその投影をするのでは?」という仮説は、自分の成人後にクモに対して嫌悪感が生じた体験もあって、案外可能性はあるのでは?と考えている。
クモに嫌悪感を抱いた大人になった自分は、子供の頃と比べると、自分の嫌な部分、受け入れざる部分がたしかに存在していた。
子供の頃は素直だったのに、成長するにつれて自分の嫌な部分を見ないようにするようになり(自己分離)、その投影として嫌いな人が出現する。
これは『ザ・メンタルモデルワークブック』の4章でとりあげられている仮説だが、この事自体は、自分の経験からもそのとおりだと思う。
嫌いな人は、自分の中にある分離している部分、つまり「あるのにないようにしてる」部分に目を向けていくことで徐々に反応がなくなり消えていく。
同じように、嫌いな虫という存在に対しても、自分の内側にある自己分離が投影している可能性はあるのではないだろうか?(もちろん、すべてがそうだとも言えないし、検証してみないとわからないけれども。)
この考えが浮かんだ後、カエル嫌いの友人が「カエルに自己を投影しているから嫌いなのかもしれないという」という話を聞いて、更に興味が湧いてきた。
役に立たない・不快なら殺してもよいの?
虫への嫌悪感と自己分離の関係性はさておき、生物多様性が叫ばれる今、虫との関係性も見直さなければならないのではと感じる。
私達は、ついつい虫たちを「益虫・害虫」というように、自分の役に立つか、立たないかでラベリングをする。不快だという理由だけで、殺虫剤をまいて虫を殺すことにためらいを持たない人が多い。
農業などをやっていて作物の被害を防ぐというだけでなく、見るだけで気持ち悪い(不快害虫)からという理由で虫を殺すというのは、個人的には暴力性を感じる。それがたとえ「自分を守るための行為」だとしても殺すということの正当化に過ぎない。
こういうことを書くと、
「不快なんだから、気持ち悪いんだから仕方ないじゃん」
という反応がある。また、殺すことでしか不快を回避する方法をしらない、というそれをせざるを得ない理由があるかもしれない。
しかし「不快だから・役に立たない・危険だから殺してもいい」というロジックは、究極的は「役に立たない、不快な人間は切り捨てていい」という発想に繋がる分離の思考だと個人的には捉えている。
果たして、これは極端な例だろうか?あなたは職場の同僚を「できる人・できない人」と区別して対応していないだろうか?世の中の人たちに対して「役に立たない人はいらない」と考えていないだろうか?
そしてなにより、自分自身に対して「役に立たない自分には価値がない・居場所がない」という無自覚な信念を握りしめていないだろうか?
理解できたら怖くなくなる?という仮説
虫の話に戻そう。自分は冒頭の仮説のうち2番を支持したい。
たとえば、何かの虫を見た時に、この虫の生態はXXXで、自然界にこういう役割があるんだ、というのがわかれば、不快感が減らないだろうか?
たとえば、室内によくいるハエトリグモなどは、ハエや蚊を食べてくれるという生態を知っていれば殺そうとは思わなくなるかもしれない(あくまでも益虫という分類ではあるが)
見た目の不快害虫であり、室内に侵入しやすい、ヤスデ、ダンゴムシ、アリ、クモなども、害はないし、痛くもないし、ということがわかれば嫌悪感は減るのかもしれない。
危険な虫として有名なスズメバチ、アシナガバチも、生態系の中ではハンターとして様々な虫を捕食する存在として重要な役割を演じている。
我が家の庭にも多くのアシナガバチが訪れて、植物につく様々な虫を捕食している。庭の植木にアシナガバチの巣がある時は、大事に育てている。
最も身近な不快害虫として嫌悪される蚊やゴキブリは、人間になんらかの害をもたらすことで嫌われているが、彼らにもそれぞれの役割がある。
蚊は、汚れた水、ちょっとした水たまりでも、容易に繁殖できる。このことは、どんな場所でも水さえあれば蚊やボウフラ(蚊の幼虫)が発生することを意味しており、学校のプールのような閉鎖水域でヤゴが育つのは、その餌になる蚊を始めとする水生昆虫が生息するおかげだ。ゴキブリですらも生物界の分解者として活躍している。
自分は、家族には「できるだけ虫を見つけても殺さないで」とお願いしている。といっても蚊は即やられてしまうけど。できれば逃してあげてほしい。
人の内的世界を知ると捉え方は変わる
実は、人間に対しても、その人の内的世界を理解することで、恐れや嫌悪感がなくなる、という仮説を支持している。
どんなに、外側から見たら迷惑な行動をしている人も、その人の内的世界を理解すると「ああ、こんなにつらい人生を送っているんだなぁ、こんなに嫌なことがあるんだなぁ、そうせざるを得ないのだなぁ」ということがわかり、その人に対する捉え方が大きく変わる。
人も虫も、相手を理解しようとする意識のひとつで関係性が大きく変わるのではないだろうか。
蚊帳という共生文化
また話は虫に戻って、日本には昔から蚊帳という防虫設備がある。蚊帳は蚊が発生する亜熱帯〜熱帯地域で広く使われており、蚊を殺すのではなく、蚊と人の生息域に境界を作る解決策で共存をはかっている。
殺虫剤の開発で一時期は利用が減ったが、近年この方法は安価であり、昨今は利用が見直されているらしい。
そして昨年、虫を捕まえて外に逃がす道具、「触らず虫キャッチリー」が開発されて話題になっているそうだ。
(追記 2024/09/10)
今年の夏、セリアで見つけたバグキャッチャーが、思いの外便利だった。素手で捕まえるより虫を簡単に捕まえることができる。水生昆虫の餌用のコオロギを捕まえるのに重宝したが、手で虫を触りたくない虫嫌いな人にもおすすめできる。ただし小さな虫に限定されるし、見ないといけないので「見たくない」人には向かないが。。。
不快ではあるが、虫と共生する道を探る、というのは日本文化らしさ、日本人の霊性の現れなのかもしれない。
虫送り、虫供養という風習
虫送りは稲作のために殺した虫たちの供養する儀式だ。日本の農耕文化の中で稲作を発展させるために害虫との戦いは不可避だった。ウンカ、カメムシ、イナゴ、etc。そんな戦いの中でも供養を忘れない先人の精神性は素晴らしい。
現代でも、殺虫剤メーカーのアース製薬は、毎年虫供養を行い、実験で殺した虫たちを供養しているそうだ。
上記の記事の中で、害虫駆除・予防の業者の方がこんなことを述べていた。
こういう業者さんがいることを知り、ちょっと感動した。たとえそれが罪滅ぼしだとしても、その一歩を踏み込む精神性が素晴らしい。
殺生が不可避ならなにができる?
自分の趣味の農業では、基本は虫は敵とせずに、食べる・食べられるの生態系を同時に育てながら行う、パーマカルチャー・自然農的な栽培を行っている。
農作業中に見つけた虫は基本は逃してあげるが、とはいえクワを入れた時にちぎれてしまったミミズ、オケラや、草刈りのときに潰してしまったカマキリやバッタなどを見ると「あー、ごめんなさい」と謝るざるを得ない。気づかずに踏んだり潰したりしている虫も沢山いるだろう
庭の柿の木について葉を食べ尽くしてしまうイラガやアメリカシロヒトリの幼虫を見つけると「ごめん」と言って踏み潰している。
このように自然と共に暮らしていると、殺生をゼロにすることは生きている限り難しそうだ。ならばせめて、彼らに思いを馳せて生きていけるといいのかもしれない。
虫送りの風習を守る、福島の奥会津の農家さんの言葉が染みる。
殺生を正当化してなかったことにするのでなく、「あるものはある」痛みに向き合って癒やす、このような心持ちで生きたい。