松尾芭蕉の笈の小文から紐解く、風羅坊、造化、そしてネイチャーオブオーダー
『禅と日本文化』を読んだ
2021年に買って放置していた『禅と日本文化』を読み終えた。
内容はとても深い内容で、美術、武士、剣、儒教、茶道、俳句と日本文化に禅がどのように深く刻まれているかの解説が書かれている。特に、それぞれの分野のエピソードが大変面白く一読をおすすめしたい。
この本の感想だけでも、ブログが何本もかけてしまうくらいなのだが、今回はその中でも一番驚いた発見を紹介する。
『笈の小文』の序文
この本の最後で紹介されていた、松尾芭蕉の『笈の小文』の序文を見て、なにかひっかかったので、気になって少し調べてみた。
まずは前半から。
前半は、己の身体(百骸九竅は身体全体)の中に「ある」ものを「風羅坊」と名付け「狂句(俳諧)を好む自分」と表現している。
芭蕉は、「俳諧に飽きて投げ出そうとしたり、他者に勝って誇ろうともしたが、心が休まることがなかった。立身出世や学問について願うこともあったが、俳諧のため諦め(俳諧以外の)無能無芸のまま、俳諧を生涯を貫くことになった」と記してある。
この部分を読むと、芭蕉も、当時の社会への適合や、他者との競争など模索を続けたが、結局は己の中にある真実(=俳諧)に向き合って、自分の真実を生きることにしたのだ、ということが伝わる。
自分の中の真実に向き合う
この文章を読むだけだと「俳諧が好きだから一生続けた」という単純なものではない。様々な紆余曲折がありながらも、最終的には一生追い求めるに至ったという、芭蕉と俳諧の「切っても切れない」運命のようなものなのだろう。
「俳諧を極めたいという想い」と「現実」との間に揺れながらも、自分の真実に向き合い、芭蕉も300年以上前に、多くの試行錯誤をしたのだ。
そして、芭蕉は、西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶を貫くものはひとつであると述べている。
「風羅坊」とは言い方を変えれば「自分の中の真実」のことだ。西行、宗祇、雪舟、利休、これらの偉人は皆、芭蕉の中にあった「風羅坊」つまり「自分の中にある真実」を貫いた結果、このような業績を成し遂げたといえる。
造化とは何か
笈の小文、序文の後半は次のようなものだ。
後半は、風雅(俳諧における美の本質)は造化(天地自然)に従うことが必要で、見るものすべてが花であり、思う所すべてが月のように美しいと感じられるようではないといけない、とある。
もし、見るものに花を感じなかったり、こころに花を思わないなら、野蛮人や鳥獣であるので、天地自然に従い、天地自然に帰れ、と書かれている。
ここの「天地自然に従う」とは、「〜には価値がある・ない」「〜は役に立つ・立たない」というような評価判断の価値基準を用いて物事を認識するのではなく、存在をありのまま見て、感じて、すべての存在の神性を受け取れり、己の内側に湧いてくるものに従うことが、俳諧の本質である、ということだと、自分は理解した。
「造化」という言葉が指す壮大な意味
ここで使われている「造化」という言葉が聞き慣れないので、MacOSXの辞書(スーパー大辞林)で調べてみると次のような意味が出てきた。
造化とは「自然や神が万物を作り出し、育てる」行為のことであり、さらに作り出す存在(神)のことであり、作り出された創造物そのものでもあるというのだ。
言い換えれば、行為者、行為やプロセス、成果物など、これらすべての意味を含むのが「造化」ということだ。造り手と、造られるものと、プロセスは分かれずに一体化している。
コトバンクでも「造化」について調べてみると、次のようになっていた。
①の意味、つまり「全ては変わりゆきながら存在していく」こと自体も造化と呼ぶらしい。
再度、造化の意味を整理すると、
万物が生滅流転していくこと
万物の創造、化育をすること
上記を成す主体(神、創造主)
創造された自然そのもの
ということになる。
こうなってしまうと、生み出された自然、そのプロセスや万物の流転、万物を作り出す存在がすべて、造化の一言で表現できてしまうということになる!!なんと、壮大な意味を指す言葉なのだろう。
神も作られた〜参神造化
実は「造化」は古事記の序文にも登場する。
古事記では、世界が乾坤(天地)にまず分かれ、そこから三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)が生まれた。その後、陰陽(男女)が分かれてイザナギ・イザナミの二神が生まれ、そこから万物が生まれたという話が伝えられている。
ここで「造化」は最初の「三柱神」が形作られたときの説明として使われている。神自身が、世界から創造された存在ということになる。
また、参神造化について調べてみると、次のような解説を見つけた。
造化とは、「完全なものが突然生まれるのではなく、プロセスを通じて万物が生まれ変化していきながら形を成していく」ということのようだ。
再度、造化を整理すると、
万物が生滅流転していくこと
万物の創造、化育をすること
上記を成す主体(神、創造主)
創造された自然そのもの
プロセス(化す)を通じて存在する(成る)神のこと
造化は自然だけでなく、神をも創造する。作るもの、作られるもの、作ること、それらはすべて分かちがたく結びついて一体なのだ。
自然とは神であり、神とは自然であり、創造とは神であり自然である。
造化と、アレグザンダーの「秩序の本質」
この「造化」の解説を調べてみると、これはクリストファー・アレグザンダーの『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』で提唱されている生成的な創造と驚くほど一致する。今年、翻訳した『パタン・セオリー』は、ネイチャーオブオーダーの内容をコンパクトにまとめて解説している。
自然界すべての存在は、様々な外力の中で、いのちの発現として、様々な形状をとり成長・発達・展開し続け変化していく。分裂する細胞、種子の発芽、風紋、川の流れ、銀河、すべてはひとつの秩序に基づいて様々な形を取りながら変わってゆく。
アレグザンダーはその秩序を、マクロからミクロに至る自然界だけでなく、人工的な芸術作品、建造物においても発見した。その秩序をもつ構造のことを生きている構造(生命構造)と呼び、生物だけでなく、伝統的な手法で作られた人工物、そして存在する空間そのものがその構造を持ち「生命の質」があり、その「生命の質」が高ければ高いほど、人は美しさ、心地よさ、安らぎなどを感じることができる、と述べる。
そして、その生命構造を生み出すプロセスを「構造保存変容」と呼ぶ。生命の質を強めるように、構造を保存したまま少しづつ変わっていくこのプロセスによって、自然界や美しい人工物が形成される。構造保存変容を、別の言い方をすると、展開(Unfolding)プロセスとも言う。折りたたまれた葉や花びらが、少しづつ開いていく様をイメージしてほしい。構造保存変容は、常に全体との調和を保ちながら変わっていく。
「造化」は、主体も行為も対象もすべて一体である。「構造保存変容」を「造化」と捉えてみると、すべてが一体となり「化すを通じて、成る」方がしっくり来る。主体と行為と対象が一体ならば、当然「生命」はあるはずだからだ。生命の質とは、「主体と客体の合致度」ではないだろうか?とも感じた。
「神の御業」を人が実現するために必要なこと
「造化」は辞書通りならば、自然つまり、神の御業である。
人間が行う創造行為のことを、辞書的には「造化」とは呼ばないようだ。
松尾芭蕉は、風羅坊(自分の中の真実)と向き合い、造化(自然)に従い、造化(自然)に帰ることで稀代の俳人となった。この道は、松尾芭蕉が300年以上前に辿り、西行、宗祇、雪舟、利休も辿った道であった。
アレグザンダーは、ひとりひとりの深い感性・感情に素直に従うことを通じて、環境の生命の強弱を見極め、構造保存変容により、生命を強めることができると述べている。自然の秩序に従うことで、「生きている空間」「生きているシステム」を生み出すことができるのだ。
両者に共通するのは、自身の感じたものに従うこと、これは「自然(造化)」つまり「自分の中にある真実」に従うということでもある。
それらを踏まえて、自分の仮説を提示すると、人が造化を成し遂げるには、造化、つまり「内なる自己」とつながることが唯一の方法である、ということだ。
「内なる自己」とつながるということは、自分の内側にある真実を見つめ、自らがその真実を生きることを選択するということであり、自分の真実に嘘をつかないということでもある。
「自分の真実に従う」ことへの恐れ
自分の真実に従うということは、実はとても恐ろしいことでもある。
「何かをやってみたい」と内側から湧き上がってきたものがあったとしても、「失敗したらどうしよう」「こんなの非常識だ」「誰も認めてくれない」「とはいえ難しい」、などなど様々な恐れや不安、諦める理由が次から次へと湧き上がってくる。この恐れの声にそのまま流されていると、内側の真実に自分で蓋をして諦めてしまう。
たとえ、勇気を出して一歩踏み出したとしても、すぐに「やっぱりうまくいかない」「ほれ見たことか」と自分に対して諦め、投げ出し、再び心に蓋をする。
これらはすべて自我が先回りして予測し、危機回避しようとする働きの賜物だ。これらの生存本能の声(防御反応)に従って生きてさえいれば、私達は不安や恐れから逃げて生きることができる。失敗に伴なう失望感、無力感、壁にぶつかる閉塞感から逃がれることができる。私たちは、普段そうやって不快から逃れて生きているし、顕在意識や思考では、それがいいと思っている。
しかし、不快から逃げて留まり続けることで一時的な安心は得られる一方で、自分の真実は生きられないという代償を支払っている。
「造化に従う」ということは、この真実に向き合うことだ。アレグザンダーも、創造過程において、自分の感じたものではなく、合理主義のような外側の価値基準によって判断することで、生命の質が損なわれることを指摘している。
芭蕉で言えば、おのれの「俳諧を極めたい」という風羅坊を無視して、世俗的な成功に留まれば、経済的には満たされた生活を送れたのだろう。しかし、その世界線では、数多くの紀行は行われず、後世の人間は「奥の細道」も「笈の小文」も読むことはできなかったのだろう。
真実を選ぶこと、選ばないことの代償に、果たして気づいているだろうか?
選択は自分の手に委ねられている
風羅坊・造化(=自分の真実)に従って生きるか、それとも見ないようにするか、これはよい・わるいではなく、その人がどちらを選ぶかの選択に委ねられている。
もしあなたが「造化」であろうとするならば、不安や恐怖を越えて、自分の真実を生きることでしか実現できない。大事なのは「不安や恐れ」も自分の真実ということだ。不安や恐れを感じないようにしたり、無視するのではなく、しっかりと感じることも、「自分の真実と向き合うこと」だ。
恐れを抱きしめて、その上で「無自覚な不快の回避行動」ではなく、自分の意志で選択をする。
造化に従い、造化に帰る
自分という存在の自然(造化)に従い、創造行為(造化)を行い、創造物(造化)が生まれる。そして、その創造物とは、モノ・コトを超えた、その人自身の人生そのものということになる。
300年以上前の芭蕉は、『笈の小文』を通じて、自分の真実に従って生きることの手本を示してくれていた。
ちなみに、松尾芭蕉が亡くなったのは50歳。教科書で読んだイメージだとだいぶ老齢のイメージがあったが、自分はすでに芭蕉よりも年上になっていたのに驚いた😅
あなたの「風羅坊」はなんですか?
あなたは、「風羅坊」を生きますか?
「造化」に従い、「造化」に帰りますか?
すべては選択。