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好きと解像度の話 - 生きやすさのために「飲みやすい」という言葉をやめる

「解像度」がここ4, 5年くらいのホットワードで、ぼくと飲みながらしゃべったことがある人は、少なくとも一回はこの言葉を聞いていると思う。


なにがきっかけだったかは覚えていないけれど、最初は「好き」を口に出す練習から始まった。

当時大学生のぼくは、自分の好きなものがよくわかっていなかった。就職活動で作成する履歴書の趣味欄には「読書」と書いていた。それは嘘ではないし、おそらく多くの同世代に比べれば読書量は多い方だったと思うけれど、ではそれを取り上げて語れるかと言われると、できなかった。

「最近読んだ本で印象に残ったものは?」「人生で一番好きな本は?」「読書のなにが好き?」「なにを読むの?」どれに対しても明確な答えを持てなかった。捻り出した答えはどこか嘘くさくて、頭でっかちな気がした。

自分の気持ちを素直に口に出すということに臆病だった。それは中学生の頃、対人恐怖症を患った時期からくるものかもしれないし、あるいは学校教育の中で培った「正解思考」がそうさせるのかもしれない。

とにかくその状態が息苦しくて、自分というものをどこかに置き去りにしてしまっているような感覚に虚しくなって、なんとかしなくてはいけないと焦った。今思うと、一種のアイデンティティ・クライシスだったような気もする。"ぼく" は何者なのか。


「好き」なものを集めはじめた。本棚に並ぶ本や雑貨、Twitter や Instagram でつけたイイネ、ハマっていたゲーム、ヘビロテしたアーティスト。それらを改めて見返して、触れてみて、それらが好きなことを確認した。

その上で、友達に「好き」を話してみた。「これめっちゃ好きなんだよね」と言ってみた。意識して「好き」という言葉を使った。「好き」という気持ちは「好き」という言葉で表現しなければいけないと思ったし、その潔い直球な響きにハードルを感じていたからこそ、あえてその言葉を使った。

不思議なもので「好き」と言い続けていると、だんだんその「好き」は深くなっていく。口に出すことで生じる自己暗示の側面もあるかもしれない。あるいは友達に「XXが好きなやつ」と認定されることでより自己認識が強まっていく、なんて理由もあるのかもしれない。

好きという感情が深くなると、それを人に伝えたくなる。すると「好き」という言葉では不十分になっていく。エモーションを分解していく。「この青みがかった色が好き」「ポップでキャッチーなメロディが好き」まずは素朴な言葉から。「無機質さの中に暖かさを感じさせる表現が好き」「ポップさに振り切って突き抜けた潔さが好き」より詳細な言葉へ。

ふと気づくと、趣味欄を簡単に埋められる自分がいた。「ゲーム」「読書」「ウイスキー」「コーヒー」タイトルだけ見るとまるでありきたりではあるけれど、もう、これらを書くことに引け目はない。それぞれに対して、プロフェッショナルには敵わないかもしれないけれど、自分なりに、「好き」を語れる自信があるからだ。

ここに至ってぼくはアイデンティティの一部を獲得できたように思う。少なくともぼくという人間は「『NieR Automata』の退廃的世界に共感し、『マチネの終わりに』の美しい文章が含む物悲しさと分人主義の思想に救われ、『ArdBeg』の煙たさと甘さ『ハンドドリップ』の奥深さに打たれた人間である」と言うことができるのだ。「好き」という感情に立脚した "ぼく" を確かなものとして認識できるようになったのだ。


こういった一連の流れを指して、ぼくは「解像度を高める」という言い方をしている。

ナイーブな「好き」を自覚するところから始めて、それを言い続けることでいつしか「好き」が深まり、分解され、他者に伝達可能な形で整理されて、自分の中に収まる。

もちろん、解像度を高めなくていい「好き」もあると思う。例えば恋愛関係において「好きだから好きなのだ」という態度は美しいと個人的には思うし、「ヤバい」「最高」「エモい」の世界で生きられるなら、それはそれで楽しかったりもする。

けれど過去のぼくのように、アイデンティティ・クライシスのような状態に陥っている人、そして生きづらさを感じている場合には、もしかしたら解像度を高めるということが有効かもしれない。

(ちなみに捉える感情が「好き」である必要は別にない。「嫌い」や「心地よさ」を選んだっていいと思う。人それぞれだけれど、ぼくは「好き」を推す)


突然だが、みなさんはお酒が好きだろうか。

お酒が飲めない人には申し訳ないのだけれど、最後はお酒を飲むということを題材にして、解像度を高める最初の一歩について話したい。


お酒を飲んだことがある人なら「飲みやすい」という言葉を、耳にした or 口にしたことがあるのではないか。

ぼくはある時期、この言葉を封印していた。

決して悪い言葉ではない。ある程度解像度が高くなったと自負している今でも「飲みやすさ」を実際に感じて声に出すことはあるし、絶対使ってはいけない、なんて強い覚悟を決めたわけではない。

ただ「飲みやすい」という言葉に「自分にとって嫌いではない」ということの表明に過ぎない、どこか「語れる言葉がないから使っている」だけのような感覚を覚えることがあったのだ。

馬鹿正直に「よくわからん」なんて言えないからとりあえず「飲みやすい」と言ってみる。少なくとも、ぼくはそういう意味で「飲みやすい」という言葉を用いることがよくあった。そしてそれは、とても解像度の低い言葉の使い方だ。だから、安易に口にしないようにしてみようと思った。

「飲みやすさ」を封印したぼくは、「好き」か「嫌い」かで語るようにした。解像度はさほど大きく高まらないけれど、少なくとも「嫌いではない」よりははっきりする。積極的に対象に関わる気持ちになる。

「これ好きだなー」「これは嫌いだなー」何度か繰り返していくと、だんだん「好きか嫌いか」に敏感になってくる。「これは特に好き」「これはちょっと嫌い」なんてこともわかるようになる。2値から、グラデーションに変わっていく。

そうして立ち上がったナイーブな感情を、少しずつ言葉にしていくのが後にやったことなのだけれど、詳細はまた別の文章にまとめたい。

ここで話したかったのは、解像度を高めるためにはある感情に敏感にならないといけないし、そのためには自分が鈍感になっている瞬間を捉えなければいけないし、いつ鈍感になっているかを把握するために鈍感さを示す言葉を封印するのは、とてもわかりやすく、やりやすいということだ。そしてぼくの場合、お酒を飲むときの「飲みやすい」がそれだった。


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ここまで書いてようやく、自分が解像度を高めるということに拘っている理由がわかった気がします。生きづらさとの接続がこんなところにあったとは。

文章を書くということも、それ自体、解像度を高めるための営みなのかもしれないですねぇ。

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