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20200526 『読書実録』を読む。

 昨晩はうまく寝付けなかったせいで疲労がひどかった。最近は睡眠不足が眠気よりも疲れに直結してきている。いつも寝しなに「伊集院光の深夜の馬鹿力」を流しているのだけど、昨日はちょうど番組の終盤で目が覚めてしまった。覚醒しつつあるときに聴いていたトークにはいわゆる「ハネた」ような面白さがあったような気がする(だから目が覚めたのかも知れない)が、ぼんやりしていて記憶が曖昧である。

 そうした疲労があったうえ、帰宅が21時を過ぎるとちゃんとした料理は作れなくて、カレーを作ろうかとも思っていたのだが挫け、カレーパウダーを入れたポトフで妥協した。食べながら上田麗奈さんの「ひみつばこ」を聴く。やっぱり語り口が好ましいなと思う。ラジオに限らず、決まった日の決まった時間に視聴するということが基本的には苦手な人間なので、つい聴き損ねてしまうのだけれど、できるだけ聴いていけたらと思う。

 今日の本題だが、最近ようやく保坂和志の『読書実録』を読み始めた。保坂和志には大きく影響を受けていることを自覚していて、というよりは、保坂和志が「読める」ようになったときに自分の嗜好というか、作品に対する見方に変質があったような気がする。『読書実録』はタイトルの通りに読書についての話で、いつも通りの保坂といえばそのとおりなんだけれど、やっぱり面白い。筆写をする話から始まって、そこから話は特に筋も無くどんどん分散していくのだけれど、そういう筋の無い文章の中で気付くといつの間にかカフカの小説の筋の無さについて書かれていたりする。

 本書に倣って自分も筆写してみようと思う。カフカの遺作と呼ばれている『歌姫ヨゼフィーネ』(僕はこの作品を今日調べて知った)についての記述だ。『歌姫ヨゼフィーネ』について僕は未読だが、岩波の『カフカ寓話集』に所収されている作品のひとつであり、つまり寓話として読める(解釈できる)作品であるが、という話が前段でされている。

 ヨゼフィーネは本当に偉大なのかそんなのはただの幻想なのかと終始揺れつづけるこの語り手のように、私は読んでいるあいだじゅう社会的意味づけに自分は面白さを感じているんじゃないのか、このエヴィデンス性は簡単に人に伝えられるそれに自分は誘惑されその誘惑と闘っているんじゃないかという揺れの中にも投げ込まれる、そのような語りやすさにつけば私はこの小説の、これを読んでいない人にも語りうる言葉の、そのずっと下の層で私が感じている面白さ、私はそれをこうだと言えないその面白さから離れて、人と共有するというラクなところについてしまう、そこからももっと離れてヨゼフィーネに身を寄せるようにしてこれを読もう、ヨゼフィーネに身を寄せよう……その揺れさえも楽しい、いやわずらわしい……(保坂和志『読書実録』 p.46)

 小説でも音楽でもアニメでもゲームのテキストでも面白いと思った作品ほど、つい「こういうことなんだ」と説明したくなるのだけれど、そして、実際そうしてしまうのだけれど、そうしてしまった瞬間にこぼれ落ちるものについて、保坂和志の文章を読んでいると自覚せざるを得ないし、そういう面倒くささ、語ることに対する不完全さみたいな意識をどれだけ手放さないでいられるか、みたいなところを大事にしている節が自分の中にある(ちなみにこれは作品を何かしらの文脈とか解釈に位置づけること(≒批評すること)が面白く、価値があるものであるということとは相反しない)。でもその「届かなさ」みたいなものは悪いことじゃないとも思っている。

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