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8月15日の小松左京。 『小松左京セレクション 編:東浩紀』 「戦争はなかった」を読んで。

あらためて考えると、僕らにとって8月はとても不思議な季節だ。

うだるような、そしてすべてを投げ出したくなるような、暑さ。
休みをとって海に行ってしまいたくなる、山に行ってしまいたくなる。
お盆になると、突然電車がすいてちょっと嬉しくなったり、親戚に会いに行ったり、行楽地に出かけたり。

暑さのせいなのか、小さい時のながい夏休みの記憶からなのか。
なんなのかはわからないけど。8月は不思議な季節だなと思う。

そして、なにより8月のどまんなか、8月15日は終戦記念日なのである。

生まれてこのかた、あの戦争と関係がなかった夏がない(なかったことにすることはできたけど)
あたりまえのことながら、そして今さらながら、その事実に不思議な感覚を抱いている。

もし、戦争がなかったら。
そんな仮定をしても仕方ないし、そんなことは考えてはいけない。
僕らがしなきゃいけないことは、この戦争を継承すること。

しかし文学はその「もし」を可能にする。
そして、そこから新たな問いが生まれる。

思うところあって、
東浩紀 編『小松左京セレクション 1 日本』の中の
短編「戦争はなかった」を読んでいた。



終戦を中学三年で迎え、いまや三〇代後半の主人公が、旧制中学の学友たちとひさしぶりに再会し酒を飲み交わす。ところがどうも様子がおかしい。学友が軍歌を歌わない。学友からは戦争の記憶が消えている。翌日になり、学友たちばかりでない、どうやら彼以外のすべて人間から戦争の記憶が消えているらしいことが判明する。太平洋戦争の歴史が消えただけで、世界はほかすべてもとの世界と寸分たがわず同じであり、主人公は当初はその新しい現実に適応しようとするが・・・。         ー作中解説より。


僕は戦争を経験していない。
しかし、様々な資料を読むとほかのみんなと同様「あんな戦争は二度と起こしてはいけない」と思う。

そして、それと同じぐらい「戦争がなかった」ことにしてはいけないのではないかと思う。


作中では、「戦争がなかった」世界が描かれる。
すなわち、あの大きな苦しみや痛みが「ない」世界である。
そんな苦しみや痛みは存在しないにも関わらず、戦後日本とおなじ世界が営まれている。
「ない」のであれば、それでいいのではないか。
作中の主人公も一瞬そちらに揺らぎそうになる。

しかし、その「苦しみ」が確かに存在した(ことを知っているのであれば)
「言わねばならない」と主人公は考え、行動を起こす。


これは風化の話でもあるし、継承の話でもあるのかなと。
風化とは、なかったことにすることではなく、あったことを知らないことなのであると。
また、なぜ継承しなければいけないのか。
それは端的に「苦しみ」がたしかに存在したのであれば「言わねばならない」ということなのではないか。


戦争を忘れてはいけない、のちの世代に継承していかなければならないと世間は言うが、はたして僕らはホントにあの戦争を継承できているのだろうか。
僕らはホントにあの戦争のうえに日本社会を築いていけているのだろうか。

8月は不思議な季節だ。

不思議な季節なので、
たまにはそんなことを考えてもいいかなと思っている。


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