ドラえもんの消えた朝
詩と散文の違いを復習しておきましょう。
ウナギイヌがいる
は散文。詩じゃない。
この画像と変わらない。
画像化できる。でも;
ウナギイヌの消えた朝
となると詩になる。画像にしようがない。
もっと広く知られているドラえもんのほうがいいかもしれない。
ドラえもんの消えた朝
各自のドラえもんの思い出と共に何かが沸き上がる。
朝の写真を掲載してもいい。受け取る人によって湧き上がる感情は違ってくる。詩だ。
ドラえもんの消えた朝
同じ露天風呂の写真を使うにしても、中に人がいないものを使うと、詩になる。
人が入ってると散文になる。説明になるから。
ビジネスを詩にするためには、ここのところが大事で、アマゾンの事例で何がひっかかったかというと、「売る」ばかりで「対話」がないこと。さらにいうと、「売らない」がない。「あなたにはこれは売りません」というのが唯一あるとすれば、「プライム会員でなければビデオは見せません」というのであり、これは要するに「売る」ことと同じだ。
『メリー・ポピンズ』がディズニー映画化されるにあたり、原作者との20年にわたる交渉があった。ウォルト本人が原作者トラヴァース夫人とやり取りする。その鍵となるのは、「詩があるか・ないか」だ。トラヴァース夫人は「ロサンゼルスで金まみれのディズニーなんかに、私の詩は理解できるはずがない」と思い込んでいる。彼女の詩とは、父との、お世辞にも心地よいとは言えない思い出と、同時に、メリー・ポピンズのモデルになったおばさんとの生活だ。「良い」とか「悪い」とか簡単に色付けできない郷愁を、ねずみで儲けている男になんか、わかってたまるものですか。
ところが、ウォルトにも、詩はあった。
そこにないもの
こそが、ビジネスにとっての詩であり、それは商品、社員、スタッフ、場合によっては顧客の場合もある。だんだん何を書いているのか自分でもわからなくなってきたのだが(笑)、ともあれ、詩、ポエトリーのにおいをビジネスにまとわせる。2021年のビジネス課題だと思っています。
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