
創造的(creative)について
コロナちゃんはぼくたちに何を教えてくれているんだろう?
何を学べ、と言ってくれているんだろう?
アン・サリヴァン先生がヘレン・ケラーに教えた姿勢がヒントになる。
サリヴァン先生が最初に出会ったとき(7歳になる3か月前、1887年3月3日)、ヘレンは言葉と物の関係を知らなかった。「水」と「マグカップ」の区別がつかなかったのである。「water」の指すものが「水」なのか、それとも「水を飲むためのもの」なのか。言葉と物の関係を表すのは、抽象概念だ。ヘレンは生まれて19か月は見えたし、聞こえたし、話すことができた。病気が原因で、視力と聴力を失ったのである。
抽象概念というのは、生まれついて持っているものではなく、人間が頭脳で作り出したものなので、学ばないと入ってこない。ただ、抽象概念を教える、といっても、どうすればいいのか。一般的にある「常識」は「見えない・聞こえない(よって話せない)人に抽象概念を教えることは無理」である。サリヴァン先生の前に立ちはだかった壁も、この常識だった。しかし、常識とは、世界の一部を示しているに過ぎない。先入観と言い換えてもいい。
創造的(creative)である、ということは、実際の目の前の現象と、先入観との「ズレ」を、「違い」を、まず認めること。そしてその「ズレや違い」に有意の意味を発見すること。これこそが創造的思考だ。
サリヴァン先生は何よりヘレンへ完全な愛を持って寄り添った。まず、ここが大事。愛なくしては、観察できない。そう、抽象概念を学ぶかどうかは愛ある観察が必要だった。「目が見えず、耳も聞こえない人が抽象概念を学べるはずがない」という先入観と現実の現象との「ズレや違い」を観察し、有意の意味を発見するためには、完全な愛がまず、必要だった。
ポンプからあふれ出る冷たい「水」を一方の手で体験してもらい、もう片方の手のひらに「水」と書き続けた。はじめはゆっくり、だんだん速く。ある瞬間、ヘレンは、「なにかしら忘れているものを思い出すような、不思議な気持ち」になる。ここでヘレンは「手のひらにかかる冷たいものが水である」ということを知る。認識と思考に革命が起こった瞬間だ。
それまでもヘレンは「触覚」で世界を認識していた。手が目と耳の代わりになっていた。それは28歳で書いたエッセイ『私の住む世界(The World I Live in)』に詳しい。
コロナちゃんが人類にNG出している個々の現象はたった1つにつながっていく。
これまでやってきた経済活動。
人類の先入観は「経済成長すれば、幸福が増す」。
でも、現実の現象として、この因果関係は成立しないことがわかった。
いろんな仮説を立てるしかないのだけど、ぼくは、次の3つを考えている。
第一に、成長の再定義。量的成長から質的成長へ
第二に、たった1つの幸せから各自の幸せへ(one happinessからvarious happinessesへ)
第三に、たった1つしかないピラミッドの頂点を目指すあり方から、奥を探究するあり方へ
創造的(creative)である、ということは、実際の目の前の現象と、先入観との「ズレ」を、「違い」を、まず認めること
からすれば、日経平均株価が30年ぶりに3万円台に回復した、とか、コロナ前に早く戻ってまた経済活動を熱くしようぜ、というのは全く創造的ではないことになる。
ぼくたち人類の認識と思考に革命を起こさなければ。
なんだか長くなっちゃったので、今日はここまでにしますね。
最後におなじみ、レトロ広告を、どうぞ。
美しいよねー。
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