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努力と呼ばない努力

努力という言葉が好きではない。言葉の裏に、どこかいやらしさを感じてしまう。こんなにがんばっている自分を評価してほしい、がんばったのだから見返りがあるはずだという下心を、この言葉の奥に感じてしまうのだ。なにかを成し遂げようと思えば、なにかを犠牲にしたり我慢したりしなければならないが、それを努力という言葉で美化したくない。

努力してるね、と人に言われると、すかさずぼくはこう言い返す。

「準備してるだけっす」

我ながらめんどくさい男だと思う。でも、かっこつけているわけではなく(いや少しかっこつけているかもしれない)、ある目標を達成するために当然の準備をしているという態度で、なにごとにも取り組みたいだけだ。

努力をしている! と思えば正直気分はいいが、自己に陶酔して、努力をすること自体が目標みたいになってしまう。努力する自分をアピールすることに躍起となり、それが目標になってしまっている人をたまに目にする。不毛だと思う。努力はあくまで過程であって目標そのものではないから。

努力は、何かを成し遂げるなら最低限しなければならないものだ。前提、のようなもので、徒競走で言えばスタートライン。それ自体を目標にすべきものではない。ゴールテープを一番に切れるかどうかは、スタートラインに立てるかどうかとは別次元の話だ。

才能や運のおかげとしか言いようのないものが、世の中にはある。芸術でもスポーツでもビジネスでも、たまたまその時代や社会の要請にフィットした人たちが評価されるだけであり、すべての努力が、あまねく報われるわけではない。

努力万能主義には弊害もある。努力をすれば成功すると信じきってしまうと、ひるがえって、成功していないやつは努力をしていないからだと考えてしまいかねない。成功には運が大きく作用しているというのに。病気であったり恵まれない環境であったり、さまざまな要因によって思うように努力できない人が世の中にはいる。

いわゆる「成功者」が弱者を軽蔑しがちなのは、人以上に努力してきたという自負があり、下手に結果も出ているからで、彼らは運の要因は無視し、成功していないやつは努力が足りていないからだと自分のものさしで決めつけてしまう。たしかに、環境や運のおかげにするより、自分が努力したからだと言ったほうが、格好はつくだろう。

けれどぼくは、そういう人間になりたくないというのもあって、努力という言葉は使わないようにしている。努力を努力と呼ばないことで、目標に対してせめて謙虚であろうとしているのだ。

以上、今日考えたことの覚書(了)


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