
自然科学は収束し、社会科学は発散する??
自然科学と社会科学
自然科学(特に僕の場合は有機化学)を研究していた時は、世の中の真理は、ある点に収束していくものなんだなあ、と思っていた。
反応開発の論文を読んで「新しい反応を見つけました!」と書いてあっても、むしろ根底にある理論(たとえば反応速度論とか、量子論とか)のロバストさが強化されている気がしていた。
一方、社会科学の領域について学んでいると、あらゆるものが相対化される気がする。(ただ、こちらはせいぜい、刊行されている本を読む程度の学びの話)
身近なところでいくと、いま、ファッションの歴史の本を読んでいて、我々の身につけているものが、いかに歴史的な文脈によって左右されているものなのかわかり、必然性ってないんだな、という気持ちになる。
読んでいる途中だけど、「情動」も文化によって異なるという見解もあるようだ。
「相対化される」
そもそも、「相対化される」という表現も、あんまり化学の世界では聞かなかったし、いまだに、あんまり意味がわかっていないまま使っている。(コテンラジオとか、哲学者の人たちの対談動画とかでよく聞くから覚えた言葉)。
おそらく、他との比較で考える、という意味ではなく、決まりきったものではないことがわかる、とか、普遍的ではないことがわかる、のような意味で使われている。
なぜこうなるかの三つの選択肢
自然科学と社会科学のこの差は一体なんだろう。
差の要因として考えられるのはこんなところか。
①何らかの学問的な性向の結果、理論が収束する学問と、発散する学問がある。
②自然科学のことも社会科学のことも、僕の理解が浅くて、実は自然科学は発散の側面はあるし、社会科学に、収束の側面はある
③理論の収束、発散という考え方自体がそもそも問いとしてナンセンスで、根本から意味不明なことを言っている。
③だと、これ以上僕には手の出しようがないので、一旦置いとくと、②が1番妥当なんだろうな。
なんとなく、社会科学は、「観点」を提供する学問なので、新しい観点によって、「相対化される」ということが起きているようにみえるが、ちゃんと勉強(研究)すれば、ある真理に収束しているのかもしれない。
「この宇宙のホモサピエンスの自然科学」という観点
逆に自然科学で言えば、ホモサピエンスがこの宇宙を研究しているから、いまのような形で科学が発展しているだけ、ということは間違いないと思う。
つまり、別の(三体にでてくるような高次元の)生命体が科学をやれば、僕らとは違う形でいまの宇宙を記述するだろうし、この宇宙ではない別の宇宙(というものがあるとすれば)で科学をすれば、違った「真理」に収束するんだと思う。
もしかしたら、高次の生命体が、僕らの自然科学の営みをみて「この宇宙の、このホモサピエンスは、素粒子のことをこういう風に捉えているんだねえ」というように、「相対化している」のかも、と思うとワクワクする。
その論文が僕らの理解できる方法で記述されるかはわからないが、そんなのあったらすごく読んでみたい。