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【読書感想文】街とその不確かな壁

家族に時間をもらって。fuzkueにいって、去年でた村上春樹の「街とその不確かな壁」を読んできました。

村上春樹の小説は、ずっと、「喪失」を描いた物語なのだと思ってきたけど、今回、「街とその不確かな壁」を読んで、あれ?そうじゃないのかも、と感じたところがありました。

「喪失」という言葉で僕がイメージしていたのは、「何かを一度、手に入れて、そして失う」こと。
実際、村上春樹の小説ではだいたい主人公の恋人がいなくなってしまいます。

けれど、村上春樹が書いているものは、人間が生まれた時、もしくはすごく小さなころから抱いている「願い」なのかもしれない。

村上春樹自身がどう考えているのはわからないけれど、僕自身の人間観として、多くの人が「願い」をもち、その願いを叶えることがその人の人生の駆動力となっているのではないかと考えています。

この人間観を、もう少し説明してみます。

「願い」を軸にした人間観

まず、「願い」は人それぞれのもので、人によって違うものだと考えています。
たとえば、ある人が「この世界に居場所がほしい」という願いを持っているとする。
そして、その願いを叶えるための条件が、「自分にこの世界にいる資格があると証明すること」だと思っている。
それを証明するには、「自分に能力があることをしめさなければならない」と考えて、勉強を頑張ったり、何か難しい課題を解いてみせたりする。
外から見てると、「頑張り屋さん」とか「すごく仕事ができる人」という見え方になるが、それは「居場所がほしい」という願いが、見える形になっただけ。
根元にある願いが叶えられない限り、どんなに難しい仕事ができるようになっても、満たされることがない。
なぜ願いがなかなか叶えられないのか、というのは難しいけれど、達成条件を勘違いしているから、というのが今の仮説。

これが、「願い」を軸にした僕の人間観です。

「願い」という言葉だと、ポジティブな印象が強くて逆に伝わらないかもしれないですが、あえて、ネガティヴ寄りな言葉に言い換えるとすると、「コンプレックス」とか「心の欠損」みたいな表現になると思います。

「願い」と村上春樹の作品

この人間観に照らして村上春樹の小説を読んでみると、「喪失の物語」という表現は相応しくないのかもしれない、と感じたのでした。
つまり、主人公にすごく素敵な恋人ができたその瞬間にも、主人公は何も得ていない。得ていないので、恋人がいなくなっても、それは喪失とは呼ばない。
だけど、この一連のイベントを経験することによって、自分がどんな願いをもっているのかを強く自覚する。

主人公のもっている「願い」は物語のはじめとおわりで、なんなら、村上春樹の一貫したモチーフとして、物語をまたいで、変わっていない。

「喪失」ではなくて「願いと出会う」物語なのかもしれない、と感じたのでした。

村上春樹さんご自身がどんな「願い」をもっているかは分かりませんが、このモチーフが一貫していて、それが僕の心に触れるものなので、僕は、小説もエッセイも全部読む、というくらい村上春樹の作品が好きなんだと思いました。

あと、子どもが産まれてしばらくは、村上春樹の作品を読む気になれなかったのですが、これは、「自分の願いに向き合う」という心の動きと、「子どもに全力で向き合う」という生活が、折り合いにくいからなのかもなあ、と思いました。

だから、正直、「街とその不確かな壁」が小説として面白かったどうかは、あまり気にならない。あの厚さの本を3日で読み切れるくらい、のめり込ませてくれるので、多分エンターテイメントとしても僕は楽しんでいるのだと思うけど、一貫したモチーフに浸れる、というのが大事なので、あんまり物語がどうこう、というのを評する気持ちにならないんだと思います。

こういう表現が作家さんに対して失礼にならないといいなと思いますが、村上春樹が、村上春樹の小説を書いているなあ、というのが感じられればなんでもいい。(決して、適当に書かれていたっていい、という意味ではなく。)

ノルウェイの森と僕

ところで。前回、5ヶ月前にfuzkueに行った際は、手持ちの本を腰を据えて読むぞ、という気持ちになれなかったので、席の近くにあったノルウェイの森を読みました。
村上春樹の長編の中で一番好きな本で、もう何回も読んだことがあるのだけど、初めて読んだのは大学生の1,2年のころでした。

ノルウェイの森は、37歳になったワタナベくんが、飛行機の中で19,20歳のころを回想するシーンから始まります。

fuzkueで久しぶりにノルウェイの森を手に取った時の僕も37歳。

すんごい偶然の重なりにとても驚きました。

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