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【いざ鎌倉(3)】源頼朝の将軍就任と実朝誕生

第3回です。
過去2回は1192年までの歴史の流れを東の源頼朝、西の後鳥羽天皇の2人を中心に駆け足で振り返りましたが、今回からは1192年以降の出来事を丹念に見ていこうと思います。
まずは、第1回の最後から繋がる源頼朝の将軍就任からですね。

源頼朝将軍就任の経緯

建久3(1192)年7月12日、頼朝は征夷大将軍に任じられます。
形式的には後鳥羽天皇に任じられた形ですが、このときまだ天皇は13歳ですから、朝廷側で主体的に動いたのは関白・九条兼実でしょう。

今世紀初頭に、内大臣中山忠親の日記『山槐記』の抜き書きである『三槐荒涼抜書要』の7月9日の記事が紹介され、頼朝の将軍就任の経緯がわかってきました。
頼朝はこのとき右近衛大将を辞任し、官職についていませんでしたので「前右大将」を名乗っていましたが、これを改めたいので「大将軍」に任じてほしいと朝廷に要望したのです。

朝廷の4つの案

強大な軍事力を持つ軍事集団のトップが、官職につかずに遠く離れた鎌倉にいるというのは朝廷にとっては何を考えているのかわからないという不気味さがあったはずです。
それが先方から官職を求めてきたわけですから、朝廷の側には安心感が広がったことでしょう。
朝廷は頼朝の要望に応じて即座に4つの案を考えます。

一、惣官
二、征東大将軍
三、征夷大将軍
四、上将軍

見慣れないものもあるかもしれませんが、一応先例はあります。
一の「惣官」は平家の棟梁だった平宗盛が源頼朝討伐のために任じられた官職。
その案はないだろう!という感じですが、当然縁起が悪いので却下。

二の「征東大将軍」は木曽義仲が源義経らの鎌倉軍との対決直前に任じられた官職。
これも大概ひどい。同じく縁起が悪いので却下。

三の「上将軍」は中国で用いられた官職で、日本国内には例がなかったので却下。

こうして消去法で平安時代に坂上田村麻呂の蝦夷征伐という吉例がある征夷大将軍が、頼朝に与えられる官職として選ばれました。
つまり、頼朝が望んだのは単なる「大将軍」で、「征夷大将軍」を考えたのは朝廷だったということになり、「頼朝は東国での軍事指揮権を得られる征夷大将軍を欲した」という説は成り立たないかなという感じです。

東国の武士たちを統合する官職として、かつては河内源氏の先祖たちが、直前では奥州藤原氏が任じられていた「鎮守府将軍」を超える官職として「大将軍」を欲したというのがどうやら実態に近そうです。

とにかく、これで頼朝は武士の棟梁にふさわしい特別な職を得ることができ、九条兼実は官職から離れていた頼朝を再び天皇と朝廷の権威の中で位置づけることができました。
頼朝の将軍就任は頼朝と朝廷の双方にメリットのある人事で、公武協調が確認されたイベントであったろうと思います。

頼朝は権大納言と右近衛大将に任じられたときとは異なり、上洛することはなく、鎌倉の地で征夷大将軍に任じられました。

将軍に就任した頼朝にさらなる慶事が重なります。
後の第三代将軍源実朝の誕生です。

実朝誕生

鎌倉に征夷大将軍任官の第一報が届いたのは7月20日のこと。
おそらくは祝賀ムードが続いていたであろう8月9日、源頼朝・政子夫妻にとって第四子で2人目となる男子が生まれました。
千幡と名付けられたこの男子が後の第三代将軍源実朝です。
頼朝・政子夫妻にとって10年ぶりの男子誕生でした。
政子の妹で、頼朝の異父弟・阿野全成の妻である阿波局が乳母に指名されます。

なお、この時点で頼朝には男子が3人いました。
一人は嫡男の頼家で政子の子。
そして頼家と実朝の間には、もう一人男子がいるのですが、妾に産ませた子で、政子の嫉妬を恐れてひっそりと育てられていました(鬼嫁怖い)。
この男子は、実朝の誕生の直前、出家させるためにひっそりと京の仁和寺へ送られています。

永福寺落慶供養

11月25日、後白河院の崩御から始まった激動の1年を締めくくる大規模な行事が鎌倉で執り行われます。
この日、文治5(1189)年の奥州合戦で亡くなった源義経や藤原泰衡の御霊を鎮め、冥福を祈るために建立した永福寺の本堂が完成し、落慶供養が行われました。
頼朝自らが足を運んで造営地を決めたこだわりのある大寺院であり、この落慶供養は自身の権力を示す一大イベントでした。
参加した有力御家人たちが鎌倉にまだ滞在している12月5日、一同に集められた御家人たちの前に、千幡を抱いてあらわれた頼朝はこう語ります。

「おのおの意(こころ)を一にして将来を守護すべし」

その後、頼朝は酒をふるまい、御家人たちに千幡を抱かせました。
千幡を抱いた御家人たちは刀を献上し、忠誠を誓ったといいます。


1192年は頼朝絶頂期

「日本第一の大天狗」と罵倒するまでに対立した後白河院の崩御、征夷大将軍への就任、実朝の誕生、永福寺の造営。
建久3(1192)年の源頼朝は絶頂期にありました。
実朝が生まれたことで、嫡男頼家にもしものことがあった際でも自身と政子の子によって東国の武家政権、つまりは鎌倉幕府を継承していける体制も整いました。

しかし、絶頂に見える鎌倉幕府の実態はまだまだ不安定な政権。
血で血を洗う政治闘争が早速、翌年からはじまります。

次回予告

1192年の話は今回まで。
次回から1193年の話といきたいところですが、その前に番外編コラムとして「イイクニは古い?鎌倉幕府成立は何年か?」を挟みます。


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