アルコール依存症:償いは意識してはいけない、家族も期待してはいけない、その理由(人はどうしたら許せるのか?)

重度アルコール依存症の kiyopi です。

アルコール依存症になると医師なんかからも、よく「しっかり償いなさい」なんて言われます。
断酒会でも『家族はもとより、迷惑をかけた人たちに償いをします』てのがあります。
下手をすれば、自助グループ内でも仲間から「しっかり償わんと」とか言われたりします。

言う人の心理を分析してしまうのは簡単(見下し、自己正当化、承認欲求や繰り返し聞く事による洗脳、それが絶対に正しいという思い込み、家族や身近者の場合は怒りや憎しみ含む)ですが、精神的な回復が出来ていない状態で言われたり求められたりするのは苦しいものです。

アルコール依存症者は、かかった病院の医師の考え方・在り方・接し方、病院によって内容に差のある依存症回復プログラムの内容や家族会の雰囲気・考え方の傾向などによって、まるで犯罪者扱い・人間以下扱いになる場合もあります。

しかし本来、人はどうした時に人を許せるのでしょうか?

償われたら許せるのでしょうか?
言う事聞いてくれたら許せるでしょうか?
刑務所に入ってくれれば許せますか?
死刑になってくれたら許せますか?
殺させてくれたら許せますか?
そんなんで簡単に許されるなら、僕ならそっちを選びます。
毒親問題と向き合った人なら『そんなことされても許せない』と分かると思います。

許す方の側も、言う事聞いてくれたら嬉しいだけではないですか?
エゴが膨らんで優越感が湧いて、見下しや自分が上という関係を作ってしまう人いませんか?

人間は、許す側の人が自分が相手を許すことに自分が納得しなければ許せることはありません。

人に言われたからと言って許せるものではありません。
謝られたとして許せるものではありません。
刑務所に入ってくれても、死刑になってくれても許せるものではありません。
望むことをしてくれたとしても、許せるものではありません。
事故で家族を失った人の会見を見れば一目瞭然です。

相手を許すという事は許す側の人の心の問題であり、言葉でも行いでも物でも態度でもありません。
許そうと思っても許せるものではありません。
『許す』と思えてこそ許せるんです。

アルコール依存症の世界は精神医学の世界です。
心理学を学んだはずの人が治療に携わっています。
なのに『償い』という、依存症者にとっては罪悪感の植え付けとなり、家族にとってはエゴを助長する呪いが蔓延っています。
指摘したり正す人が今のところいませんから。

償いにはいろんな形はあると思います。
ですが本来は、本人の気持ちの問題なのであって押し付けるものではありません。

償いのつもりで一生懸命尽くしているつもりが、許されるどころか『そんなんで許されると思っているのか?』と言わんばかりに家族関係が歪んでしまう、それで苦しむ依存症者もいます。

『償い』も『許し』も、本人の心の問題です。
償いを意識したら苦しみます。
償いを期待したら苦しみます。
許しを意識したら苦しみます。
許しを期待したら苦しみます。

本来、依存症者はお酒を飲む・飲まないの問題ではなく、人生の苦しみからただ抜け出したいだけだと思います。
家族は、酒害による苦しさ・辛さ・怒りや憎しみ、お酒を飲まれる不安や恐怖、そしたらあるかもしれない酒害への不安・恐怖からただ解放されたいだけだと思います。

医療や自助グループの良かれと思って出来た部分が、歪みが生じるものであったために、在り方・捉え方・考え方が歪んだ方向に向いている場合が多々あります。
こういう事を考えて言っている僕は、医療からも自助グループからも、依存症者からも家族の人たちからもやっかまれます。
ですが、これを読んでくださった皆様には、一度よく考えてほしいと思います。
本当は自分はどうなりたいのかを。
相手にどうなってほしいのかを。
互いが互いのために手を取り合えたのなら、依存症者としても家族としても最高の回復が出来ると思います。


今回は以上です。
参考にして頂けたら幸いです。

あなたが回復に向かえますように

ご家族様の傷や苦しみが癒えていきますように


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