見出し画像

「過去の私」と出会い直し、「産み出す」を再考する。

昨年から今年の頭にかけて、あるものを産んでいた。
今日は、そのプロセスで思い出したことをシェアしたい。

内なるマグマと結び合う

私は普段、(仕事柄、聴かれたら答えるけれど)自分から「強く強く」、言いたいことがない。
(「noteを書いているじゃないか!」とツッコまれそうですが、「強く強く」というのがポイントです)

ふと、「渇き」みたいなものも、無いような気がした。
何が無くても幸せで、平和な日々。「何かを引き起こす」必要がない。

何もないところから、何かを産み出す。創り出す、でもいい。
その時には、強い動機が必要だ。
イメージでは、「自分の内なるマグマと結び合う」。

昨年、私にはそれが無い、ということに気が付いたのだ。

正確に言えば、「無い」というより、「忘れている」だった。
内なるマグマと結び直すプロセスは、産み出したもの以上に、私にとって収穫だった。

そこでふと思い出した。
かつて「強く強く言いたいこと」を出しまくっていた時期があったことを。

眼をひらいたまま眠れるか?

もう10年以上前の話になるが、私は雑誌の編集者だった。
フリーランスだったので、企画会議に企画を出して、採用されれば記事をつくることができる。そんな形式だった。
編集者は、言いたいことがなければ、企画が立てられない。
(少なくとも、私がいた界隈ではそうだった)

日々目にしていること、取材で聴いたこと、体験していること……その中から仮説を立て、検証する。言いたいことが湧いてくる。
それを企画に落とし込み、取材し、ライターさんと議論し、「取材してみたら違った!」なんていう乖離を修正しながら、世の中に発信する。
その繰り返しだった。

どんな視点も、一部には正しい。
この「一部には」がポイントで、どうやったってある側面から観れば別の観点が浮かび上がる。ロジックが破綻することも多々ある。
それを理解した上でも「なお」、言いたいことがある。
それくらいの強さがなければ、「何かを産む」なんてことはできない。

当時、版元で記事のコンテストがあった。
いくつもの雑誌を出している版元で、自分が所属する編集部ではない(雑誌の)編集長から講評をいただくことがあった。それは越境的な意味もあって、私にとっては嬉しいことだった。

ある時、某誌の編集長にいただいたコメントに感激したので、分厚い感謝のメールを送った。すると、贈り物としてこんなコメントをいただいた。
「僕が大事にしている金言です」と。

芥川賞、川端康成賞、菊池寛賞作家の開高健が残した、「編集者マグナカルタ」だ。

編集者マグナカルタ

1.読め
2.耳をたてろ
3.眼をひらいたままで眠れ
4.右足で一歩一歩歩きつつ、左足で跳べ
5.トラブルを歓迎しろ
6.遊べ
7.飲め
8.抱け、抱かれろ
9.森羅万象に多情多恨であれ

現代社会では「ブラック企業?」と言われそうなフレーズでもあるが、当時、何かを産み出す仕事をしていた私にとっては、痺れるフレーズだった。
今、引っ張り出して読んでみても、心かきたてられるものがある。

仕事現場にある「戦い」のメタファー

当時の私は安野モヨコの漫画「働きマン」がバイブルだった。

主人公が編集者だったのでかなり共感した。「あたしは仕事したなーって思って死にたい」というセリフを、当時戦友のように仕事を共にしたデザイナーと「響くよね!!」と分かち合った。

今の私は、「仕事したなーって思って死にたい」とは思っていない。
だからといって、やる気がないわけでもない。
仕事には熱心に向き合っている(つもりだ)。

あえて言うなら、先ほど「戦友」と書いたけれど、仕事が「戦い」ではなくなったのだ。

仕事現場で使われる言葉には、「戦い」のメタファーがよく出てくることにお気づきだろうか。

「敵」「武器」「戦略」「サバイバル」……
今はさすがに使われないだろうが、「兵隊」なんていう言葉だってあった。

当時の私は圧倒的にこのエネルギー感、言い換えると「男性性」寄りのエネルギーで生きていた。(だって、「働き“マン”」が好きだったし)

その後、編集者からキャリアコンサルタント・研修講師に転身し、紆余曲折あり、この「男性性」寄りのエネルギーから卒業した。
そして、平和が内側を満たした。「戦い」が終わった。

卒業したエネルギーと出会い直す

仕事柄、受容的なエネルギーを頻繁に使い、「自ら強く、強く」という習慣がなくなった。
日々、穏やかで平和で、何が無くても満たされていた。

……というさなかでの、「産み出す」体験だった。

そこで、そのエネルギーのままでは、産めない。に直面したのだ。

過去の、あのマグマのようなエネルギーを、引っ張り出した。
もう何年も使っていなかったので、アクセスするのには時間がかかった。
でも、過去通ってきた道だ。ちゃんと、たどり着けた。

さらに言えば、「当時のまま」のエネルギーではなかった。
というより……「今の私が」「その時のマグマを使う」から、「質が変化する」という言い方の方が正しいように思う。
「今の私」は「当時の私」ではない。
『働きマン』に憧れていた私、ではないのだ。

成人の発達を語る言葉に、「含んで超える(もしくは「超えて含む」)」という表現がある。通り過ぎた道は失われるわけではない。私たちは、それを含みながら拡張していくのだ。

久しぶりに、創造のマグマを使えて、楽しかった。
内なるマグマも喜んでいたと思う。

「産み出す」をアップデートする

今、私の関心は、「産み出す」をアップデートすることだ。
「産み出す」は、ものすごいパワーを必要とする。
一方で、「軽やかに産み出す」道もあるのではないだろうか。
これは、定期的に受けているカウンセリングで気づいたことだ。
(私は、カウンセリングを提供する人間として、自分もクライアントとして定期的にカウンセリングやコーチング、セラピーを受けている)

そういえば先日、日曜美術館で「鳥獣戯画(鳥獣人物戯画)」を特集していた。

多くの人々に愛され、未だ謎に包まれているこの絵画。

画像1

この番組で興味を引いたのが、「民俗学では、『遊ぶ』のは神に近づく行為である」というフレーズ。
(開高健さんも、6で「遊べ」と言っているし。笑)
愛くるしい動物たちが遊ぶこの絵から、感じることがヒントになりそうだ。

何かを跳ねのけながら、道なき道をかき分けながら、産み出してきた。
それ「だけ」ではない、産み出す方法だってあるだろう。
小さな「産み出し」は可能だ。
でも、「大きな」産み出しも同じように、きっと。
これは今、これから検証実験・フィールドワークでのインタビューなどをしていきたいテーマのひとつだ。


この記事が参加している募集

最近の学び

いただいたサポートは、良き文章が書けるよう使わせていただきます☺