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命は誰のものか。

先月、ALS患者の方から依頼を受けた医師2人が、嘱託殺人容疑で逮捕された。
そのニュースをキッカケに、ここのところ私の中にうっすらとある問いが、これなのです。

命は誰のものか。


1.「痛み」は誰にも代れない

「死ぬ」ということもキャリアのうちだ、と探求を始めてから、こういうニュースをスルーできなくなった。

※詳細はこちらをぜひ
「死」を考えずに「キャリア」を語るのは不自然だ
この一生のうちに、何度でも死のう

スルーできないけれど明解な答えなどすぐに出せることでもないので、うっすらと問いが残り続け、その問いを刺激するものが出てくる度に、考えをめぐらす時間がやってくる。

今回も、ニュース記事をあれこれと読み、ALS患者ご本人のSNSを見つけて目を通し、医師のご家族のブログや発言を読み……それぞれに、それぞれの立場や背景があり、簡単に誰が加害者で誰が被害者かなんて決められるものではないと思った。
(ただ、今回は事件の具体的な経緯や背景など、不明な点が多いので、私自身の問いである、「命は誰のものか」だけに紐づいて、あれこれと書こうと思う)

ただただ、ALSで苦しんでいたご本人の、生きることへの絶望感に満ちた言葉の数々に、胸が痛んだ。
ある新聞の記事によれば、彼女は意識や聴力のある状態で視力を失う「完全閉じ込め症候群」の症状が始まっていたという。視線を動かして意思疎通をしていたそうなので、視力を失うとは、自分の意思を外界に発する手段を失うことになる。意思を感じる力は残るというのに。

このニュースを受け、ALSと生きる参議院議員・舩後靖彦さんはこんなコメントを発表した。

 報道を受け、インターネット上などで、「自分だったら同じように考える」「安楽死を法的に認めてほしい」「苦しみながら生かされるのは本当につらいと思う」というような反応が出ていますが、人工呼吸器をつけ、ALSという進行性難病とともに生きている当事者の立場から、強い懸念を抱いております。なぜなら、こうした考え方が、難病患者や重度障害者に「生きたい」と言いにくくさせ、当事者を生きづらくさせる社会的圧力を形成していくことを危惧するからです。
 私も、ALSを宣告された当初は、できないことがだんだんと増えていき、全介助で生きるということがどうしても受け入れられず、「死にたい、死にたい」と2年もの間、思っていました。しかし、患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知りました。死に直面して自分の使命を知り、人工呼吸器をつけて生きることを決心したのです。その時、呼吸器装着を選ばなければ、今の私はなかったのです。
 「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。どんなに障害が重くても、重篤な病でも、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命と確信しています。

分身ロボットOrihimeの開発者で、多くのALS患者との交流がある吉藤オリィさんの取り組みからも、あらためて考えさせられることが多い。

今回、ひとつ思い出したニュースがある。
2018年に入水自殺した評論家の西部邁さん。その自殺をほう助したと知人2人が逮捕された事件だ。
西部さんは生前から、ご自分の人生の終わりは自分で決める、とおっしゃっていたそうだ。そしてそれを実行した。(お2人の力を借りたけれども)
残された娘さんは、お父様の自死に、生前からの意志を聴いていたし、遺書を読んで「父は満足していたと思う」ということと、ほう助したとされる2人に「巻き込んで申し訳ない」と語っていた。

そういえば先月は、有名で有望な若手俳優の自殺ニュースもあった。
彼の作品を観ていたわけでも、ファンだったわけでもなかった私ですが、それでもショックを受けてしばらく頭を離れなかった。

思い出したらキリがない。
仕事柄、過労死や、パワハラで自死した内定者の話など、胸を痛める話を「そういえば」と思いだせばまだまだ出てくる。

そして、思うのだ。

どんなに大切に思っていたとしても、
誰も、その人が持つ痛みを、
そっくりそのまま代わってあげることはできない。


2.「自分の人生の終わりは自殺だろう」と思っていた

何を隠そう、10年くらい前、「自分の人生の終わりは『自殺』なんじゃないか」と思っていたことがある。
当時、慶應丸の内シティキャンパスに半年ほど通い、山田ズーニーさんの「伝わる・揺さぶる!文章を書く」というワークショップに通っていた。

そこで書いた文章のひとつに、

「私はなぜ、『自分の死は自殺だろう』と思っているのか?」

というタイトルのものがある。
今回、このnoteを書くにあたり、本当に久しぶりに、そのファイルを開いた。そして驚いた。文中には、

「さて、命は、誰のものか。」

と書いてあった。なーんだ、ずっと前からそんなことを考えていたんだ、と、自分に笑ってしまった。その続きは、

「寿命を全うしないことは、悪か。」

だった。
ちなみに、文章は原稿用紙2枚程度の短いもので、

これを言うことで傷つく人や顔をしかめる人もいるだろう。
「首吊りは苦しそう。投身は怖い。やはり薬か?」
現実的に考え始めれば恐ろしくもなる。なのに、そんな予感がチラついてならない。

などとあった。背景にあるのは、「自分が納得できない自分でいるのは耐え難い」「最期も自由に選びたい」という考え方で、それは先述の西部邁氏がいう「自裁(死)」だ。
(「自裁」とは、「自らの生涯に決着をつける」の意)

ちなみに今の私は、そのようには思っていない。


3.「俺はお前のお墓がほしい」と言われて「なるほど」と思った

さらにうんと若い頃、私は、「この肉体には意味がない」というようなことを思っていた。そして、「死んだら終わりだから、お葬式も、お墓も要らない」と思っていた。
私のいないこの世に、私の痕跡があって、何の意味があるのだろうか。と。

そんな話を当時のパートナーにしたら、彼は
「いや、俺はお前のお墓がほしいよ。そこにお参りにいきたい。お墓は、残された人のためにあるんだからさ」
と言った。なるほど。私が要るか要らないか、ではないんだな。お墓は、私のものでは無いのか、とその時思った。
(この彼とは別れているので、お墓には来ないだろう。笑)

思い返せば、我が家は小さな頃から必ずお墓参りにいく家で、お仏壇も家にあり、お参りするのが当たり前だった。今は頻繁には行けなくなったけれど、それでも大好きな祖父母のお墓には、やはりお参りにいっている。祖父母がそうしてもらいたかったかどうかは知らない。聞いたこともない。

まさに今、私がお葬式をしたりお墓がほしいかと聞かれたら、その時にならないとわからない。というのが本音だけれど、「死」のタイミングは選べない。この後すぐ来るかもしれない。だから、今の気持ちを言うならば、若い頃と変わらず、「要らないかな」が答えだ。いわゆる「残された人」となってくれるだろう人は周りにいるけれど、変わらずそう答えそうな気がする。
だけど、当時とは、意味が違っている。

今の私は、「この肉体には意味がない」とは思っていないし、「死んだら終わり」とも思っていない。

4.答えの出ない「命」のことを、時折、語り合おう

最初の話に戻ります。

命は誰のものか。

あなたはどう考えますか?ぜひ、お聴きしてみたいのです。

私が、人生のプロセスのただ一点である今、抱いているのは、
命は私のものではない、という感覚です。
それは、「いろんな人のおかげで今があります」とか「自分ひとりで生きているわけではないから」と言うのとは、ちょっと違うのです。

大いなる働きの中で動かされているこの私が、「私」として意識しているこの感覚は、とても部分的なのだろうという実感があるのです。

とはいえ、現実を感じる、そして現実でアクションする、その感覚はまさに、私の肉体を通した、この中で起きること。それは、「命は私のもの」という気持ちを立ち上がらせる刺激です。
矛盾するようですが、たとえば先述のALSの方が体験した「完全閉じ込め症候群」になった際に自分がどう感じるのかは、やはりその体験に身を置かない限り、自分のリアルな反応はわからないと思っています。
(昨年、コーマワークという昏睡状態の方に関わる心理的手技的アプローチのトレーニングをうけた際、「疑似コーマ(昏睡)」の練習をしました。「閉じ込め症候群」もやってみましたが、なんとも切ない体験でした。でもそれも、「疑似」に過ぎません)

多くを学び、知識を入れ込んだとしても、直面し、そこに飛び込んでみない限り、本当のことはわからない。
だからといって、学び、知識を得ることが無駄だということでもない。

「命」という根源的なことについて、多様な方々の体験や立場を聴き、自分の体験や考えを表出し、また新たな考えを生み出していく。その機会を持つことに、価値があるのではないかと思うのです。

(そういえば、今回のコロナはまさに、多くの人が「命」について向き合うことになる機会だったと思っています)

今回の記事も、万人に共通する明解な答えがあって書いたのではありません。こんな、結論もないモヤッとする文章を…………という思いもありましたが、今ココで私が思っていることをひとまず出しておこう、きっといずれまた変化がやってくるだろうと書いてみました。

というよりあらためて。
私はキャリアコンサルタントとして、その前にいち人間としても、時折、こういうことを語り合うことが重要だと思っているのです。

正解を出すために討論するのではなく、どちらが上位の思想でどちらが下位の思想かとジャッジするのでもなく、「そんなこと、この文献に書いてあるよ」とか「この理論で説明できるよ」という外側の理論と照合することでもなく、ただただ、「生きること」「死ぬこと」「命」について安心して丁寧に向き合う時間が、私たちには必要だと思うから。


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