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アトピーの天使

昨年の秋から今年の3月にかけて、半年間、
鎌倉に月に一回、通っていた。
あるスクールに行くことが目的で、
毎回、私は鎌倉に前乗りして一泊していたのだが、
その日も新宿から鎌倉へ向かう電車に乗り、
昼下がりのスカスカの車内でぼーっと過ぎ行く景色を眺めていた。
神奈川に入ったころ、とある駅で乗ってきた女性が
私の目の前の席に座った。
その人はズボンに泥がついていて、
どこかよれっとした印象、
髪もばさっとしていて、
手には分厚い本を1冊、持っていた。
そして肌が、アトピーだった。
私はアトピーなのでよくわかる。
ああ、つらそうだな、ということが
一目見ただげで伝わってきた。
赤に紫が入ったような爛れた肌、
皮膚は粉を吹いて、
顔だけでなく、手も、
時折掻く腕も、きっとつらいんだろうな、と思った。
彼女は座ると、分厚い本を広げて読み出した。
どんな本を読んでいるのだろう、と、遠目で見ると、
それは英語で書かれた本だった。
横書きにびっしりと、英語が連なっている様子が見て取れて、
あんなにびっしりと書かれた英語の本ってなんだろう?
聖書かな?
などと想像した。
昼下がりに聖書を持って電車に乗り、読みふける女性。
そんな光景を目の前にして
なんだか物語の中に入ってしまったような感覚になった。
その当時、私のアトピーは小康状態で
ほぼつらい症状はなかったのだが、
その女性が目の前に現れたことで
つらかった時期のことなどを思い出し、
これは何かのお告げなのかもしれない、と思った。
君、今はつらくないかもしれないけれど、
アトピーのこと、忘れるでないよ、ということなのか、
この女性が私の目の前に現れたことは、
きっと何かの意味があるな、と
思わずにはいられない感覚があった。
いろいろと想像しながら、その女性のことを密かにじーっと見ていたのだが、
聖書らしき本(勝手な想像)を読みふけっていたのもつかの間、
女性は目を閉じ、
手すりに頭を寄りかからせて眠りに入った。
昼下がり、
暖房が効いてぬくぬくと気持ちのいい電車の中、
優しい光が彼女を照らし、
その光景はまるで天使の休息のように見えた。
私は思った。
彼女は私の前に現れた、アトピーの天使なのだと。
彼女のつらさが分かる。
どんな時でも、何をしてても、あの状態だと肌はつらいだろう。
痛い、かゆい、抑えきれない、どうしたらこの苦しみから逃れられるのだろう、
人目にさらされるのもつらい、
他のことなど気にできない、
ズボンに泥がついていても、そんなことはどうでもいい、
もっと大変なことが常にあって、
常にそのことと直面していて、
逃れられなくて、
いつもいつもつらくて、つらくて、
そんな日常の中で、
一瞬でも、
暖かい電車の中で、
心地よい揺れに眠気を誘われて、
つかの間、
ほんのつかの間、
いろんなこと忘れて眠れる時間、
その一瞬がどんなに救いだろうか。
彼女がすやーっとしているその光景は
どこか神々しく、
ああ、もっとたくさんの光で
彼女を守ってほしい、と思った。
彼女は私だ、と思った。
あれはきっと、もう一人の私だった。

鎌倉へ着き、
彼女も私もそこで降りた。
その先、彼女がどこへ行ったかなんてわからない。
あの一瞬の光景が、
今でもすごく印象的に心に刻み込まれている。
スクールに通っていたこととも、
何か関係があったような気もしている。
鎌倉へ通う道すがらに出会った、ということも。
ずっと昔、
同じ修道院にいたあの人だったのかもしれない。

今、私は久しぶりにアトピーが悪化しており、
久しぶりにつらさというものを味わっている。
そうそう、こんな感じなのだ、
こんなつらさがあったなあ、と、
忘れそうになっていた感覚をまた思い出し、
これを繰り返す意味って何なんだろう?
私はまだ何かを許せていないのだろうか?
何が許せていないのだろうか?
この症状は、私に何に気づけと言っているのか?
と、
終わりのない自問自答が続いている。
病気は気づかせてくれるために起こる。
何に?
私は何と向き合う時がやってきたの?
と、考えては、
答えはない。
自分で気づいていくしかない。
アトピーの天使たちは、
つらい症状から、
いやでも自分と向き合うことを強いられ、
それを超えたり、超えられなかったりしながらも、
生きている。
みんな天使だよ、と思う。
自分を含め、
少しでも、かゆみから解放され、
つらい感覚から解放されていきますように。
すべてのアトピーの天使たちに、
安らかな休息の時間がありますように。





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