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南から北へ

思い立って、戸隠神社に行ってきた。
前から行きたいねと話していた場所だったが、昨日がどうやらそのタイミングだったようで、のろのろと準備をして10時半頃家を出て、高速に乗って北信へ向かった。
北へ向かうことはあまりなく、車外の変わっていく景色が新鮮だった。
お盆も明けたというのにむわんとした熱い空気がまとわりついて、北へ来たけど南信の暑さと変わらないんだな、と思った。
途中ファミレスでご飯を食べて、戸隠へ着いたのは3時近くだったろうか。こんな山奥に人がたいそう来るものなんだな、と驚いた。
奥社へ行くのは初めてで、戸隠で画像検索するとよく目にする杉並木を脳裏に浮かばせながら、参道へ入った。
参道は人だらけで、向こうから押し寄せる人の波と、こちらから神社へ向かう人の波、うわ〜(嫌だな。。)と思ったけれど、自然の中にいることもあり、人の多さよりも自然の心地よさが上回り、ひんやりと冷たい空気で心身が洗われていくのを感じた。
背の高い緑のトンネル、道の脇を流れる水、元気なシダ、コケ、木々。
しばらく行くと、緑の屋根を持った門が現れた。
かやぶきの屋根から、シダや小さな木がわさわさと上に伸びていて、ジブリの世界を彷彿とさせた。植物がきっと何の計算もなく、そこに種を落とし、生え、伸び、自然のままの状態のはずなのに、そのバランスは整っていて、絶妙で、自然ってすごいな、と思わされた。
その門をくぐると、あの杉並木の世界だった。想像していた以上に木の幹が太く、迫力満点で驚いた。少しずつうねりながら力強く上へ上へと伸びた杉たち。そこは異世界だった。
少しずつ勾配がきつくなり、最後、ハーハー言いながら神社へ到着。
お参りをして、隣にあった九頭龍神社にもお参りでき、石の階段をピョンピョンと踊るように降りて、元来た杉の道へ。幾分人の多さも落ち着き、清々しい空気を胸いっぱい吸って、車へ戻る頃には心身すっきり。身にこびりついていた余分なものたちが洗い流されたようだった。

戸隠神社の後には善光寺へ行くことにしていたので、その足で善光寺へと向かった。
久しぶりに来た善光寺。夏に来たことはあっただろうか、今までの記憶にある善光寺参りは冬景色がほぼなので、夏の善光寺は新鮮だった。
戸隠神社からの善光寺参り、なんだか幸先良い。
善光寺に行くならば、よりたいお店があった。
以前2度ほど目の前を通ったものの、素敵すぎて足を踏みいれることがどうしてもできなかったお店が、善光寺のすぐ近くにあることを、私はずっと忘れずにいた。いつか行きたい、いつか入りたい、でも一人では。。と思っていたところの再訪、今回は二人だし、これはいけるチャンスかもしれない、と、緊張とわくわくを感じながら、おぼろげな記憶を頼りに行ってみると、あった。オープンしている。しかも席が空いてそう。私たちは入ることにした。
同行者も、以前そのお店の前を通ったことがあり、入りたいけど入れずにいたという事実を知り、これは巡り合わせだな、と思った。
何年越しかで入店したそのカフェは、長野だけどフランスだった。
初めてそのお店を見たときから感じていた「フランス」の空気、入ってみたらまさにフランスで、10年ちょっと前に訪れたフランスの空気と、私の中に眠る昔々の私が存在していたフランスの空気を思い出させるようだった。
螺旋型の鉄の階段、綺麗なカーブを描いたカウンター、何気ない布のカーテン、小さなタイルの格子模様、大音量で流れるジャズ、洒落た雰囲気の店員さんが身につけるパリッとした白いエプロン、どれもフランスを感じさせた。
同行の者はアイスコーヒーを、私はレモンスカッシュを注文した。
店内の雰囲気に圧倒されつつ、目をキョロキョロさせながら、身体いっぱいでそのお店の雰囲気を感じていた。
置いてある本や、貼ってあるチラシやポスターや、そこにあるアイテム全部から、何か感じ取れるものがあった。
しばらくして運ばれてきた飲みものは、もちろんの美味しさだった。
色が濃く、ジンジャーエールのような色をしたレモンスカッシュは、ちゃんと何かを思って作った味、と言おうか、、オリジナルの味がした。
いつもは飲まないコーヒーだけど、気になって同行者のアイスコーヒーを一口もらったのだが、これも美味しかった。
終始流れているジャズが身体に響いて心地よくて、なんだか安心するというか、きっとこういう場所に私は居たことがあって、その時代も私にとってよき時間だったんだろうな、と思った。
飲みものを飲みきり、でもその場を離れがたくて、腰が上がらずにしばらく浸っていると、おもむろにキャンドルが運ばれてきた。
グラスに入ったキャンドルを、何気なくテーブルに置いて去っていく店員さん。夕方になると、こうやってキャンドルを置くことがこのお店の決まりごとで、それを今日も今日とてやっている、そういう1日1日を、この場所でこの方々は大切に遂行してきていて、一つ一つの所作や表情の端々からにじみ出るものがあって、それに触れて、私は感動していた。
キャンドルが運ばれてきてしまったから、もっと去りがたくなってしまって、そこからまたしばらく店内の空気に浸り味わい、でももうそろそろ行こうか、となって、お会計をしたとき、
同行者が着ていたTシャツを見て、店員さんが話しかけてくれた。
そこから少しだけ話をさせていただいたのだが、その方の言葉や会話の様子や接してみて感じたことがとても大きかった。
お店を出て、善光寺へ向かう道を歩きながら、私はすっかり衝撃に打たれてしまい、そのお店から感じたことなどを話していたのだが、
お店って、やはり、結局、「人」なんだな。
お店をいくら綺麗にしても、そこにいる人の心が綺麗じゃなかったら、真の綺麗は伝わらない。見せかけの綺麗って、結構人って感じ取るもので、どんなに繕っても、メッキは剥がれるものなのだ。
その人が普段、どういうことに着目し、どういうことを思い、感じ、どういう心持ちで世界と接しているか、
そういうことって、滲み出てしまうもので、だから嘘がつけない。
かっこつけようとしてかっこよくつくられているものは、ちょっと嘘の成分が入っていて、そこ、結構分かってしまう。伝わってしまう。
かっこつけようとしてできたかっこよさではない、滲み出てしまったかっこよさには、感動がある。
だから、わかる。
本物って、わかるのだ。
伝わるものなのだ。
それを、このお店から、私は感じた。
素晴らしいなと思った。

よい作品を作りたい。
素敵な絵を描きたい。
そう思うのならば、
自分をよくすること。
自分を磨くこと。
自分の心と、丁寧に向き合うこと。
それらは全て、作品に出るから。
それは、結構精密に、人に伝わるものだから。

素晴らしいものと出会うと、感動する。
私は美術館にはあまり行かないけれど、
日々の暮らしの中で、
ハッと感じた自然の美しさや、
人と接する中で感じた感動や、
そういうところからとても影響を受けていると思う。
美しいものを見て美しいと感じられる心があること、
自分の心を磨くこと、
その中て自ずと滲み出てしまうものの純度を上げていくこと、
まだまだ経過中だけれど、
がんばろう、と思った。

よき1日だった。







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