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突然のモスクワ駐在生活のはじまり

名古屋市に生まれた私は、終戦時に4年ほど、岐阜県高山市に戦時疎開したとき以外は、殆ど名古屋市の中で、ごく普通の小中学生、高校生として過ごしました。
東京で大学生活を送り、就職先は大阪でした。25歳までに日本の3大都市に住んだことになります。

そんな私の前に、突然、人生の大転換が起きます。入社4年目の私に、ソ連のモスクワ駐在員の辞令が出てしまいます。
といっても、モスクワ駐在員事務所というものがあるわけではなく、モスクワ市内のホテルに長期の観光ビザで宿泊して、そこから外国貿易省傘下の48の公団に連絡を取り、アポイントをもらって商談に出かけます。結果は、本社の輸出部にテレックスで送ります。(当時は、ファックスも、メールもありませんでした)

ホテルの部屋は、ポル・リュックス(すなわち、セミデラックス)と言って、ツインのベッドルームに、リビングと、バスルームそれに玄関の間(外套架け、帽子掛け等あり)が田の字型に配置されています。
その中にファイルキャビネットや、商品サンプルが積み上げられ雑然としておりました。
長期ビザといってもせいぜい2カ月ほどで切れてしまいますが、公団と商談の途中であるとか理由をつけて、ビザの延長を申請します。
それでも年に数回は、出国しなければなりません。
ソ連の領事館がある、コペンハーゲン、オスロ、ベルリン、ウイーン、などに出国して、新しく観光ビザを取得します。
年中、ヨーロッパの北部を渡り歩きながら、モスクワに舞い戻るという生活ですから、若くないと続きません。

ロシア人の素顔

それでは、モスクワ不在中のホテルの部屋はどうするか、山のようなサンプルや書類を持ち歩いての旅行は不可能ですから、部屋に残しておきます。
次にホテル代を1ヶ月分前払いして、「ちょっと出張するのでよろしく」と言っておきます。ドルキャッシュで前払いの客はホテルも歓迎です。
私のビザが切れているなどということは、ホテル側は、預かり知らぬことで、片目をつぶっています。
当時、ソ連はブレジネフ政権下で、秘密警察(KGB)もしっかりしていて、国民を鉄の統制下においていた中で、ビザの切れた日本人の部屋を、「前払いならいいんじゃないの」と許してくれるロシア人は、冷徹な表の顔の下に、お人好しで、肝が太く、融通も利く愛すべき民族性を備えていました。

北新地の夜 

話が少し前に戻って、モスクワ行きの辞令が出る、前の週の月曜日、普段は口をきいたこともない、上司の輸出部長が私の席にやってきて、

「今晩、空いているなら、一杯行こうか!?」

と誘いました。行きつけの店は、北新地の高級クラブです。
どういう風の吹きまわしかなと訝りながら、酒好きの私としてはホイホイついていきました。
席に着くや否や

「君は、ロシア語なんか判るかね?」

と聞いてきました。わかるわけがありません。


「いいえ、全くダメです。因みに中国語は、麻雀に出てくる単語だけで、英語は大学入試を受けた時がピークで後はずるずる後退しています。」

「君!輸出部員がそれでは困るよ」


などと言っているうちに、お開きに近くなり、帰りがけに、不可解なことを言い残しました。

「ロシア語の辞書は、岩波書店の八杉という人のが、いいらしいよ」

何のことかわからないままに、次の週の月曜日、辞令が出たのです。
どうも一杯飲みながら内示でもしたつもりだったのでしょうか? 
でも何故?
 私の周辺にも、外国語大学のロシア語科の卒業生は、たくさんいたのに?!
でっ、どうなったか! 八杉貞利の辞書と白水社のロシア語入門書を買って、ソ連邦国営航空(アエロフロート)のモスクワ行き直行便に乗っていました。

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