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卒展の風景画

暇だからブログでも書くか。

先日京都市立芸大の卒展に行ってきました。
京セラ美術館の方に行ったんだけど、かつての京都市美でやってた頃よりボリュームが少なくなっており、やはり学内展にも行かねば卒展見たとは言えまいと感じた。工芸・絵画・デザインしかなくて、しかも卒業生メイン?彫刻などは一切なくて、寂しかった。学内展行きたかったが遠いわ。二日いるやん。てか、それよりも、京セラ美術館に生まれ変わった姿よ。リニューアルしてから初めて内部に入ったので、一人で驚いて立ち尽くしてしまった。前は正直古いという印象しかなかったが、不思議かな、リニューアルして元々の建築や装飾が際立って個性的に見えてくる。古いもので回る世界。これが京都のセンスなのかなとちょっと感銘を受けたり。お気に入りになりそう。今度はうたかたとデブリ行ってみるつもりです。

京芸卒展で気になった作品↓

すみません、お名前やタイトルメモしてません。
どれも油画の作品です。もしかしたら卒業生ではないかもしれません。(京芸卒展は全学年の作品が展示されます。)
やっぱり油画は気になるので見てしまいます。その中でも今回は風景の絵に目がいきました。風景って僕は描く動機が無いので作品化する気持ちがわかりません。僕にとって風景とは何も描かない絵という感じ。なぜなら風景とは、何かを描きながらそれを見せないように描く絵のことだから。だから短気な僕には制作が耐えられないんですよね。注意深く気分をセーブしなきゃいけないから。要するにアカデミックで、イメージへの忠実さが求められるわけです。

なぜ風景画なのでしょうか?
モチーフが特殊なわけでもなく、どこの場所というわけでも無い。見かけが今風なわけでもなく、色彩も筆致も特別感はない。
はっきり言って、これが一人の現代作家の作品だとは思えないわけです。しかしすごく丁寧には描いている。それが僕にとっては不思議。

つい先日まで、絵の教室の展覧会をしていました。僕が主宰している教室で、生徒さんの絵を外部に発表する、初めての展覧会でした。テーマに沿って自由制作してもらい、3ヶ月間展覧会に向けて取り組みました。子どもから大人まで様々な年代の方々がいて、ほとんどが絵を習ってこなかった方々ですが、展覧会に出品するとなれば、やる気がみなぎり、見られたい欲求が湧いてきます。うまく描きたい、ウケたい、そんな気持ちが作品に現れるものなんです。だから僕が色々言うまでもなく、自然とユニークな作品になりました。すごく良い展覧会になり、感動しました。

教室の初めての展覧会でもそうなのだから、美大の卒制の場ともなれば、尚更、そこはもう戦場みたいなもんです。特に絵は一枚きりで勝負するし。みんな必死になります。考えすぎちゃって自己言及の罠にハマったパターンもあります。でもそういう人はよくわかるし、うまくやってる人より共感できる。

だから、卒展なんてバラエティー豊かな空間になるはずなのだが、そんな中、風景の絵がポツンとそこに点在してあり、知らん顔して佇んでいた。なぜだか、今回はその絵のことが気になったのです。なにか、ひとり遠いところを眺め、黄昏ているように見えたから。まさに僕はその絵を見るとき、その絵と同じように、心にぽっかりと穴が開き、その空間にほのかな感情が沁みたのでした。


注釈として。
卒展という場は作品主義になりやすく、見かけで判断されてしまう。しかしこれは当たり前で、僕らは制作のプロセスを全く無視して他人の作品を見ることができる。好き勝手に決めつけ、イメージできる。一つ一つの作品に作者のストーリーがあり、展開がある。しかしそこは一瞥しただけではわからないのである。

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