野外作品展「この世界にふれる時」を終えて

昨年末に基山さんから「里山」という場所についてお話があった。その時はまだ展覧会をするなんて想像もできなかった。それから少し経って、今年の春になる前、確か3月にギャラリーのみんなで里山に初めて行った。ここで何ができるか、その時点でも、僕は具体的なイメージを持てなかった。そして月日は流れ、夏が過ぎて秋になった。やるならば、個人的なことをやらねば 意味がない。オーシャンやってから、なぜだか、僕の関心は油絵に向いていった。全く初心に戻って、油絵が描きたい。そのために新鮮な場所を求め、里山で絵を描いてみることを思いついた。 高校生の時に使ってた木箱入りの油絵セットを引っ張り出してきて、意気揚々と一人で里山に出 掛けた。

戸外制作の様子

通うことのできた日数こそ少なかったが、里山での時間は、とても充実していたように思う。 里山に行ったらやることは一つしか決まっていない、ただ絵を描くこと。日没までの限られた時間を使い切るのに忙しかった。その中にあって、里山に行けば日々発見や、新しい出会いもあった。作物の実りや、イノシシの足跡、ため池の水鳥、足元の小さな昆虫たち、里山に訪れる人々、 知らなかった夕暮れの風景。誰もいない、何もない、手つかずの忘れ去られた場所だった里山は、いつの間にかとても温かな場所になった。

里山の景色

今回の野外作品展のために会場となる場所を整備したことも、非常にいい経験になった。里山の風景は変えようと思えばいつでも変えられる。僕らでこんなに変えられるのだから、業者の手にかかればそれこそ一瞬だろう。里山をどう変えていくか、どう保全していくかはそこへ集う人々の手に全て委ねられている。作品展の会場は、元はため池だったそうだ。それが台風の大雨で決壊して、土砂が流れ込み、今の地形となった。里山は決して不変の場所ではなく、常に世界の変化に晒されている。

里山美術館の整備

迎えた作品展当日は、天候にもなんとか恵まれることができた。事前に天気を気にする僕に岸 さんがかけてくださった、天気は予報ではなく自然が決めるもの、という言葉が心に残る。野外という場所は、絵にとってベストなギャラリーだった。太陽の光は、絵を隅々まで照らし、その姿形をくっきりと嘘偽りなく明らかにした。日光は、絶えず動いて、絵と里山の景色を同時に変えた。その一瞬一瞬で異なる絵の姿に目が離せなかった。

竹に絵をかけて展示

会場となった場所は、木々たちが自然の壁となり、飾られた絵を探し辿って観客は林の中のス ペースを隈なく探検していた。その光景は「里山美術館」という名前に相応しくも思えた。

会場パノラマ写真(撮影:赤澤さん)

里山の土と木でいきものを描くワークショップは、午前中収穫祭に来ていた子供達が参加してくれて賑わった。既に虫捕りやキノコ採りなどで里山を遊び尽くした子供達は非常にリラックスしていて、初めての場所と素材にも関わらずすぐに自分の絵作りに夢中になってくれた。次々に力強い絵ばかりが生まれた。

ワークショップ作品
土を焚き火で乾かしすり潰し粉にして糊を混ぜ、絵の具とした。土を採取する場所によって異なる色になった。また、木の枝を木炭にして線描に利用した。皆それぞれに好きな「いきもの」を描いた。

まもなく日没が訪れ、あっという間に里山は闇に包まれた。撤収作業は暗闇の中引き続き行わ れた。1日を振り返る余韻に浸る暇もなく、僕らは大急ぎで現地を後にした。少しだけ絵を置いて帰りたかったけど、全部持って帰ってきた、はずである。黒い林の中で、焚き火の火が煌々と燃え上がっていたのを最後に見た。電気のない夜の里山に人の影はない。きっとイノシシたちが徘徊している。

最後の火

そうして野外作品展「この世界にふれる時」は幕を閉じた。1日限りの里山美術館は今はひっ そりと静まり返っている。絵は一枚も残っていない。次に里山に行くことはあるんだろうか。目 的がなければ人は動かない。きっとそれは動物も同じだ。僕らがまた里山に向かう時が来るなら、 何かがそこで新しく始まる時だ。

里山と絵と僕

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