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作品の生と死

[2016年1月7日の日記]

久しぶりにDVDをレンタルしてきた。こんなラインナップ。

・ミツバチのささやき
・エルスール
・旅芸人の記録
・エレニの旅
・アンドレイルブリョフ

ビクトル・エリセ監督作品の「ミツバチのささやき」と「エルスール」はどちらも既に何度か観ている。好きな作品ではあるけれど「愛してやまない作品」という程ではない。ではなぜ今になって借りてきたのか、その理由はいくつかあるけど、特筆すべき理由が一つだけある。それは「エリセ監督自身によるリマスター」であるという点だ。そんなの初めて見たかもしれない。

デジタルリマスターの是非については以前にも少し触れた。世の中には「キレイであればあるほどいい」とする人も多い。僕だって別に汚いものが好きなわけではない。「キレイ」という状態が「汚れを落とした本来の姿」であるなら僕も殊更に異論を述べるつもりはない。

けれどデジタルリマスターは必ずしも「汚れを落とす」作業ではない。

どんな形であれ、作家本人の意図を無視して第三者が手を加えれば、その作品は死んでしまう。その考え方は僕が自ら作詞作曲をしてバンドで演奏する、という活動をやめた原因にもなった。僕が作った詞を無断で変えてしまうようなボーカリストとことごとく対立・衝突し、結局互いに分かり合えないままバンドは解散した。

伝えたいけど伝えられない、言葉にならない思いが先にあって、それをあの手この手でなんとかして形にしようとしていたのが当時の僕だった。僕の頭の中、心の中でぼんやりと渦巻いている「思い」をどうにかして伝達可能な言葉(かたち)にしたかった。その作業に第三者が関わる余地はない。僕以外の誰も僕の頭の中、心の中をのぞきこむことはできないのだから。

そんなことがあったからだろうか。僕は「作品を作家本人以外の人間がいじること」に対してとても敏感だ。結果的に良くなれば別にいいんじゃないか、という考え方もあるかもしれない。けれど「良い」とは何を基準にした価値判断だろう。ビジネスが基準なら分かりやすい。けれどそれは本当に「ビジネス」であるべきなのか。「ビジネス」であってもその美しさは損なわれないのか。我々の、あなた方の、懸命に形にしようとする「それ」は、結局は「誰にでも分かりやすい形」でなければならなかったのか。

当時の僕は「誰にでも分かりやすく」のために第三者の介入を許すくらいなら「誰にも理解されない」ほうがまだマシだと考えていた。

いや、当時の僕だけではない。今の僕もそう考えている。

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