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削いでゆく

コロナウイルス感染拡大に伴い自粛を強いられたという出来事は、私にとって、現在もしくはここ数年の生活の中で、所属していたもの、価値を置いている(と、主観的に思っていた)もの、物質的あるいは人間関係など心理的に身に纏っていたものと、強制的に距離をとることができるという極めて貴重な出来事だった。

たとえば7年間続けている仕事、
趣味のオーケストラ、実家の家族。

自分だけの決断で距離を置くには勇気と思い切りが必要で、何かと理由をつけてその一歩を踏み出せずにいた。

しかしこの約2ヶ月、それら「あたりまえ」と少し離れ、じっくりと孤独な時間を過ごす機会を得たのである。

そしてそれは、膨大で複雑な情報や感情の中から、自分の本当に大切なもの、人、価値観を焦点化していくプロセスであった。

その結果(本質的な結果が出るのはいつになるか分からない)、僅かではあるが、以前よりシンプルに人生を見つめることができるようになった気はする。


昨日、西宮市大谷記念美術館で開催中の念願のメスキータ展に行った。
メスキータはエッシャーの師でもある、オランダの木版画家で、私は以前に彼の版画を一目見てから完全に心を奪われていた。

あまりに好きだったので写真左奥の"マントを着たヤープ"を模写して消しゴムハンコを作成したほどだ。
コロナで西宮での展覧会が開催されなければ、次の宇都宮の巡回に本気で行こうと思っていたので、無事に開催されたのはラッキーなことだった。

彼の絵はそのほとんどがカラー刷りではなくモノクロで、線の太さ、緻密さ、間隔のみで光の濃淡や生き物の表情、自然の情景が表現されている。

線の使い方がとにかく美しく、無駄がない。
そしてデザイン性が極めて高い。
いくつかの作品は、仕上がりまでの試し刷りのステートが展示されていて、創作のプロセスにおける脳内の試行錯誤が覗き見できるようでたいへん面白い。

どの線が必要でどの線が不要か。

ステートを追うごとに、どんどん絵がシンプルに、主役となる対象が明確に浮かび上がる。
鑑賞しているこちらもスッキリとした感覚を味わう。ある種のカタルシスだ。

メスキータはユダヤ人であり、1944年に強制収容所に送られ、アウシュビッツにて命を落とす。
最後の2-3年はドイツ軍の占領により引きこもり生活となり、それまでのシンプルな版画とはまた違ったドローイング(無意識の表出)をたくさん残している。
それはなんともいえないグロテスクな世界で、この作品群が、メスキータを技巧派の木版画家だけというだけではなく、歴史的に重要な画家にせしめていると感じた。

私はクラシック音楽ならバロックが好きだし絵画もシンプルなものを良いと感じることが多い。
素材は必要最低限で単純なのに(だから、ともいえる)、物事の本質を語ることができるからだ。

ふと自分の生活を見つめた。
今携わっている福祉という仕事は特に複雑な人間の感情に常に晒されることが多い。
それによる疲弊が積み重なり、なんとなく、サイズの合っていない服に無理矢理体を押し込んでいるような感覚が心の中で膨らんでいた。それはなぜか説明できなかった。

しかし、この数ヶ月であらゆるものと距離を置くとともに、音楽や絵画を通して自分の感性を見つめたときに、少しだけその理由が明確になったような気がした。
これからの道を探っていくヒントを得た。

そしてもうひとつ明確になったことがある。
孤独な時間と芸術は絶対に必要だ。

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