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玄米ストラグル

お米は火ではなく電気で炊くものだ。

私の潜在的な意識の中で、あえて強く確信するわけでもなく、しかし自然にそう思っていた。
お米を炊くときは、いつも炊飯器を使っている。
ひとりぐらしを始めたときに買った小さな3合炊き、母曰く「ままごとみたいな」炊飯器だ。
6年間、難なくお米を炊いてきた。

実家で母が「あら!ごはん足らへんわ!ちょっと待って炊き足すから!」と言って、緊急措置的に小さい鍋で炊かれたほかほかで少し湿り気のあるご飯が出されることもあったが、その工程はつゆ知らず、それは母だからできるものであり自分にはできないものと信じてやまなかった。

小学生の頃のキャンプでの「はんごうすいさん」は、よく分からんから、という理由でひたすら野菜を切る係に徹していた。あの時、少しでも興味をもってご飯が火で炊かれる姿を見ていれば、炊飯器の中で何が行われているかわからない29年間を過ごしてはいなかったのだろうか。


しかし、少し前に、お米も炊けるという深めのフライパンを、テレビ通販を見て手に入れた。
テレフォンショッピング的な番組を見て心を動かされてものを買うなんて、数年前の私に言うと大笑いすると思う。通販番組イコール、小学校から帰宅したら同居していたおばあちゃんが畳の上で見ているものである。
しかし、かのステイホーム中、テレビから聞こえてくるわざとらしいどよめきに鼻白んでいた私は、気付けば人生で初めてフリーダイヤル0120をしていたのであった。オペレーションが増員されるという番組終了後30分以内に。覚えやすい語呂を唱えながら。

そして届いた。ぴかぴかのフライパン。
別に炊飯が目当てではなかったので、くっつかず火の通りがよいフライパンで様々なおかずを作り、快適な自炊生活を送っていたが、ある日突然、せっかくそれなりの出費をして購入した調理器具なのでお米を炊いてみようと思い立った。

付属のレシピ本に載っていたのは、白米2合のお水の分量と時間だった。
しかし私は初心者のくせして、白米2合+玄米1合を炊くのだ。

玄米をまぜて食べるようになったのは、兄の嫁さんがおなかにいいよ、と教えてくれたのがきっかけで、食べてみたら山の天気の数倍は不安定な私のおなかが瀬戸内海気候くらいには安定したので、それ以来食べることにしている。

お米で失敗なんて今まで経験したことがないから(炊飯器のおかげである)、指定の分量と時間を1合分足せばええんやろ、余裕。と、炊いてみた。
フライパンの中でみるみるうちになくなる水、ふくらむお米、良い香りの蒸気。当たり前の現象だが、こんなことが起こってるんかと、しげしげと見入っていしまった。
指定の蒸らし時間が経過し中身を見ると、そこにはふかふかの白米と、かぴかぴの玄米が混ざったものが炊きあがっていた。

仕方ないから食べることにしたが、1回の食事の中で、歯の詰め物がとれたかと思ったら玄米だった、ということを数回繰り返したので、明日からもしばらく3合分(冷凍して9食分くらい)は厳しいと思い、そのお米はリゾットやおじやにすることにした。おかげでレシピの持ちネタが増えた。

特に、スーパーで70円くらいで売られている鶏ガラとだし昆布とお野菜を鍋にぶち込んで少しのお醤油で味付けし、最後に卵でとじたおじやは、歯の詰め物と誤解されていた玄米がふやけ、しかし良い具合に芯もあり、短所が長所へと変貌を遂げた。

「鍋 玄米 炊き方」と検索すればいくらでも先人たちの知恵は頂けるはずだし、まずは白米を炊くことに慣れてから徐々にレベルアップしてもいいのではとも思わなかったこともないが、自分で失敗を重ねながら理想の玄米ごはんに辿り着かねばという謎の意地と使命感から検索したい気持ちをぐっとこらえ、2度目の炊飯に踏み切った。
浸す時間を延ばし、水を増量し、蒸らし時間を延ばした。

前回に比べ玄米はましだが、白米がべちゃべちゃになった。その後も何度か微妙なご飯を炊いては食べた。炊飯器のご飯よりはつやつやして美味しいのだけれども。

そして今日だ。
玄米だけを長めに浸し、水の量を調節し、蒸らし時間もきっちりと計画を立て、コンロの前に張り付いて、谷川俊太郎さんのエッセイを読みながら、沸騰し、弱火でクツクツ炊かれてゆくお米の様子を確認していた。いい感じ。
そして火を止めた瞬間、思い出した。本日、歯医者の予約の日だった。火を止めたのは予約時間の4分前だった。
どうせ今から蒸らすし、今日で歯の治療も最終日やからすぐ終わるやろと慌てて出かけたが、かつてないほどに歯科衛生士さんが徹底的に丁寧に歯のお掃除までしてくださり、もはや私の頭の中はお米がぎっしり詰まっているお櫃状態だったが、計画していた蒸らし時間を大幅にオーバーし、どれたけべちゃべちゃの冷めたご飯ができていることやらとヤケクソ気味で帰宅した。

帰宅してフライパンをあけると、良い具合にしっとり、しおらしく、ふっくら炊きあがった玄米ごはんがいた。
結果を自分の努力、計画、力だけで何とかするだけではなく、時には外的要因や偶然性に委ねることも大切だという、身につけたつもりでいた教訓と事実が身に沁みた。
淡路島の茎わかめの佃煮を乗せておいしくいただいた。

玄米を火にかけて炊くなんて、「ていねいなくらし」っぽくて、恥ずかしい!恐縮!と、変な自意識に苛まれる「ざんねんなわたし」だが、お米を炊くことは、失敗することも含めて楽しいことだ。そしてごはんを食べることは生きることだ。

冷凍用に1食ずつ分けてごはんをラップに包みながら、「生まれてはじめて」がたくさん詰まったフライパンと、白と茶色が混ざったごはんをなんとなく充実した目で見つめた。

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