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油絵を観て気づく、アナログとデジタル絵画のの違いについて【ロンドン・ナショナル・ギャラリー展】

『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』国立西洋美術館

以下、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展を観て気づいたことや思ったことを好き勝手に書いていきます。こういう見方もあるのかくらいに読んでいただければ幸いです。

<展示作品>
『聖エミディウスを伴う受胎告知』カルロ・クリヴェッリ
『多くの小型船に囲まれて礼砲を撃つオランダの帆船』ウィレム・ファン・デ・フェルデ(子)
『ヴェネツィア:大運河のレガッタ』カナレット
『窓枠に身を乗り出した農民の少年』バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
『海港』クロード・ロラン
『睡蓮の池』クロード・モネ
『ひまわり』フィンセント・ファン・ゴッホ
など…

油彩に見るレイヤーという概念

展示初盤にある『多くの小型船に囲まれて礼砲を撃つオランダの帆船』は水面の映る油絵は、建物や空といった風景が画面の半分以上を構築していますが、水面の揺らぎや瞬きが生きた空間を演出しているように感じます。

水面の動きは、いくつもの層に重ねられた油絵の繊細なタッチが表しているようです。水の奥深さを暗い色が、手前の透明感を淡い色が、水面の揺れや光の反射を細かな線で表現しています。

層になった描き方は、Photoshopや frescoでいうところのレイヤーです。しかし、デジタルのレイヤーは、レイヤーを前後に移動したり描き変えることができますが油絵はできません。

油絵を描く人は、頭の中で一度完成ビジョンを思い浮かべてその完成にたどり着くように、どうやって色を重ねればいいかを考えているのだと思います。

デジタルだけできる人と、アナログとデジタル両方できる人に大きな差が生まれるのはこの点ではないか?と思いました。つまり、デジタルだけの人はいつでもレイヤーを描き変えることができると思っているので作業手順が雑になる。アナログをやってきた人はゴールをイメージして手順を組み立て描き始めるので無駄がない。デジタルは描きながら考えるクセがつき、アナログは頭の中で最初にイメージを完成させる力がつく。

デジタルとアナログの違い、レイヤーという概念を古典絵画から知ることができます。

一枚のカンヴァスに込められた情報量

ロンドン・ナショナル・ギャラリー展はロンドンの美術館にあった絵画が日本で観られるわけですが、コロナ禍とはいえたくさんの人が一枚一枚の絵を観ることになります。

特に『ヴェネツィア:大運河のレガッタ』の周りに人が集まり眺める姿は印象的で、ヴェネツィアに観光旅行に来ているようでワクワクします。

国を超え、場所を超え、時を超え、そこに存在する絵画に人は集まり何かを受け取ろうとしています。それは美しい、綺麗、ワクワク、落ち着くなど感情かもしれないし、なぜこんな絵を描いたんだ?という思考かもしれない。

たった一枚の絵、縦横数メートルの平面に世界の人は集まり思いを巡らせていると考えると、絵は凄いものなんだなと思います。

これだけ一枚の絵に人が惹きつけられるのには、絵の持つ情報量が緻密で膨大だからだと私は思います。この膨大な情報に鑑賞者は没入するのです。

世界を回覧することを考えると、絵はとっても小さいスペース(平面体)です。そこに画家は何ヶ月も時間をかけ、人生の一部を捧げ、自分の考えや感情を込めて仕上げる。描き手にとって自分の分身のような、カケラのようなものが絵なんだと思います。

だから、テクノロジーの発展で印刷による複製品やデジタルの写真で同じ絵が“見られる”世界になっても、多くの人がわざわざ本物の絵の前まで足を運び、リアルな(オリジナルで劣化のない情報の詰まった )絵を“観る”のだと思います。

アナログとデジタルにおける絵の情報

では、アナログとデジタルの絵における情報の違いについて考えてみます。

アナログ絵画の情報は後戻りがききません、私たちと同じ時間軸上に存在しているカンヴァスや油絵具はこの世界の摂理に則っています。間違えたら(塗り重ねることはできるが)元には戻せないし、空間や時間によって見え方が変化します。

デジタル絵画の情報は後戻りがききます。デジタルに現実世界のルールはなく、すべての時間と空間的概念の変化が情報として記録され、思いのままに元の地点に戻ることができ、色や線の調整も自由自在です。アナログに比べると、まるで魔法のような世界です。

しかし、デジタル絵画を描く私たちはアナログの世界に生きています。アナログからデバイスを通じてデジタルの世界にアクセスし、別の世界にものを作り出しているのです。そのため、このアナログとデジタルの境目には落差が生まれます。アナログ世界の私たちは刻々と変化(老いる)していきますが、デジタル世界は過去に戻って情報を書き換えたりすることが何度でもできるので、時間的な変化(老い)がゆっくりと進んでしまします。

また、デジタルの特性として情報の複製(コピー)が簡単にできることがあります。アナログではそうはいかない。アナログで複製する場合は、元の絵を真似して同じカンヴァスと絵の具で描く(必ずしも同じにはならない)か、カメラやスキャナーを通してデジタル情報化し印刷するので手間がかかり完璧な複製はできません。デジタルにもコピーを繰り返すことで劣化することはありますが、コピーのコピーを行なっているためです。オリジナルのコピーであればその範疇ではありません。

二つと無いアナログとその希少性

アナログは物理的、時間的に複製することはできず唯一無二の存在です。そして時間経過と共に変化老朽化し諸行無常の理に従いいつかは無くなります。それしか無い、いつか無くなるというのはその物の価値を高めて人間の本能に訴えかけるものがあります。社会心理学でいうところの希少性の原理です。

この希少性の原理に加えて、作品から伝わる魅力(作者の思い)がアートを構成しているのでしょう。

私だけかもしれませんが、デジタルイラストや浮世絵(版画)に美しさや面白さを感じてもわざわざ展示にまで行って観たい!と思えないのは希少性の原理から外れるからかもしれません。もしくは、オリジナルの物理空間的な存在位置が把握できない(アナログならカンヴァスがそこ)からそこまでの魅力にならないのかもしれない。

(ただし、作者個人に対して魅力を感じたり、その作品のストーリーに魅力を感じれば展示に行きたくなる。いわゆる感情が動く、情動。)

ゴッホ『ひまわり』について

最後に、この展示の華であるゴッホの『ひまわり』について感想を書きます。

正直「ひまわりってこんなもんか」という印象でした。おそらく当時の人にとっては革新的な描き方だったのでしょうが、現代人の私にとっては配色も構図も目新しさはなかったです。しかし、古典として観れば現代のアート作品のベースにこれがあるといえ、勉強になりました。

まあ、一番の問題は展示方法にあったと思いますが。ひまわりはパンフレットなんかの写真を見ると分かるとおり、油絵具を大胆に盛り上げて立体感を出し、シンプルながら力強く表現しているのが魅力です。しかし、展示会場ではライティングがよくないのか、油絵具の盛り上がりがよくわかりませんでした。(立体感を感じるには、ライトを一方から当てて影をしっかりと出さないといけない)盛り上がりがわからなければただの単色平面になってしまいます。

ひまわりは常に太陽の光に向かって顔を向けています。光を受けたときに花びらや種に影が落ちる姿をもしかしたらゴッホは表現したかったのかもしれませんね。そうなると、絵と光がセットで初めて一つの作品になるのがゴッホ「ひまわり」なのでしょうか?


好き勝手書きましたが、まだ展示は10月18日までやっているようです。気になった方はぜひ観に行って、自分なりに思いをめぐらせてみてはいかがでしょうか?


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