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庭に出て、息を吐く

喋りたいと思ったのはなぜだろう。


何かやろうと思ったときに、ふと思いついたのは、喋ってみるということだった。喋ってみることで、自分で息を吸って、吐くことで、空気が少し動きはしないかと思っているのだ。



脚本の話ではない。劇団の話である。私が主宰を務めているブルドッキングヘッドロックは、来年で結成20周年を迎える。


2000年11月の旗揚げ公演の時、20年後の自分を具体的に想像することなど、とてもじゃないができなかった。うまくいくはずという楽観的な気分だけがあり、動けばきっとなんとかなる。と思ったかどうか定かではないが、気づけば劇団と名のつくものを作っていた。ちょっと待て!……あの頃、そう言って私の判断を止める者は少なかった。言われて聞くこともなかった。


確かに気分は楽観的だったと思う。金は無くとも悲壮感はなかった。だけど、作品はどこか荒れていた。いや、本当に荒れていたのだろうか?荒れている自分もどこかの誰かはきっと受け入れてくれるはずと、やはりどこか楽観的に、のんきに創作にあたっていたのではなかったか。挑発的な作風も、根拠の無い自信が裏支えしていたのではなかったか。


なんという自己肯定感。自分の中にちょっとしたそれがあることに今さら気づいてもしょーがないだろと思うのだが、ここはやはり田舎の家族に感謝すべきか。あの時ののんきが羨ましく思う私がいる。もちろん恨めしく思う私もいる。もうちょっと考えてほしかったもんだね、いろいろと。なにをだ!と言い返す私もいる。


20年も経てば記憶も怪しく、反省もどこか他人事のように軽く吐き出せてしまうところが、誰かにとっては小狡く聞こえるかもしれない。大変さに呆れ果て劇団を去っていった人たちには、腹立たしいところがあるかもしれない。いや、もう興味もなにも無いかもしれない。


うまくいった時もあったような気もするが、概ねうまくいかなかった20年だというのが、主宰の主宰に対する自己評価だ。七転び八起きと言うが、いや本当、七つどころではない、骨に来るほど転び倒してきた。まあ、誰かが苦みばしった顔で人生そんなもんさと言うことと重ねれば、劇団そんなもんさということなのかもしれない。


傍目にはうまく行っていらっしゃるように見える劇団さんもたくさんある。でも、きっとどこも大変だ。大変さにどんな形で立ち向かい、やりくりしていくか。常にちょっとの、あるいは相当の底力が必要なのだろう。私も劇団員も、なんとかかんとか無い知恵と無い体力を振り絞りここまでやって来た。いつも過渡期過渡期と自分を励ましてきた。気づけば20年、ずうっと過渡期で、あれ?もしかしたらまだ一度も出来上がったことなどないのでは?と今はうっかり思っている。


それでも、前回公演の『芸術家入門の件』は、私としては大変有意義で、大変手応えのある、20年かけた過渡期の先に小さな星が生まれたような、そんな、かけがえのない塵屑の奇跡の集まりを見た、そんな公演だった。


上演中に6メートルの女神のオブジェを建てるという企画をベースに、芸術家が芸術家入門教室に入門するという不条理劇と、芸大生の群像劇、ギリシャ時代をモチーフにした騒動劇をコラージュし、旗揚げからずうううううっと言われ続けてきた、「よくわからないです」を、それでもなお、よくわからないまま、「よくわからないが在るから面白い」とすることに(自分的には)成功し、公演中にはある方から「宇宙を見た」というちょっとヤバ嬉しい感想も頂戴した、そうだよこれだよこれこれ、という作品だった。


打ち上げも盛況だった。朝まで誰も帰ろうとしないところに、誰もが楽しんでくれていることを実感した。あの日、その日の勢いで次の予定を立てていたら、我々はわけもなくその予定を受け入れ、今頃ひーこら言いながら遂行していたかもしれない。


だが、誰もが実は疲れていた。いや、全員かどうかはわからない。少なくとも私は静かに蝕まれていた。公演が終わり、しばらく経ってから劇団員で集まり公演の感想を聞いてみたところ、想像よりちょっと重めの反省と、大変だったしんどかったが多く聞こえてきて、そのずれにも驚いた。さあ次へ!という声はか細く、真摯に向き合うべき大きな課題も残っていたことで、「なんとかなる」という楽観的な空気を、私は作ることができなかった。


そして、お金も無くなった。今、我々には、20周年を冠する次の公演を準備する十分な資金が無い。



いや、前から何度か無くなったことはある。劇団の歴史を公演単位で見れば、黒字の公演より赤字の公演の方がちょっと多い。その都度、みんなでいろんなものを振り絞ってかき集めては、「在ること」にして乗り越えてきた。今度も似たような状況と言えば、まあそうだ。


だがもう一度振り絞るには、「なんとかなる」が必要で。いや、もちろんそれ以上に、確かな計画や、ストレスのない環境づくり、確かな責任の在り処が必要なのだが、でも、それでも、ほんの少しの無責任が、モノを作る時の陽射しになると我々は知っている。晴れたから今日はいい日だ、あの人に会おう。そんな他愛ない動機が、我々をあと一歩、前へと進ませるのだ。


この数年も、役に立つかどうかさっぱりわからないワークショップを重ね、それが役立つ時が来るのを静かに待ってみたりした。そこに漂っていた「とにかく集まろう」という楽観が、私をして小さな星の誕生だと言わしめた『芸術家入門の件』の完成に寄与したことは、間違いがない。


それを、その空気を。「なんとかなる」のアクションを。というのが、今の私の精一杯だ。お金をどうするにしても、どうにもできないにしても、晴れ間をめがけて動き出すことが、私の性に合った選択のような気がする。


もちろん、劇団員がみな意気消沈しているわけではない。すでにいくつかのアクションは提案されているし、外部での活動も賑やかに聞こえてきている。それだけでも立派なものだが、その上、幾つかの重要な劇団運営の業務において劇団員が不断の努力を重ねてきてくれたからこそ、私は私で、今こんなことが書けている。そのことを忘れてはいけない。できたらやらずにいたかったことも、皆で話し合い、分担し、それぞれの精一杯でもってやりきってくれた。今この時もだ。この20年は、応援してくださった無数のお客様と、表に裏に八面六臂の活躍を見せてくれた全ての劇団員が成してくれた20年だ。


ここに何かを書くことで、もう一度きっかけを作りたいと考えているのは、ただただ私個人の心境によるものだ。


思えば私は、いつも、遅筆と頑固と下手の横好きで足を引っ張ってきただけではなかったか。今回もまた、よくわからない発想で、余計な仕事、余計な議論を生み出そうとしているだけかもしれないという疑念が頭をよぎる。劇団なんだから兎にも角にも劇をやれよと思う私もいる。でもお金はない。なくてもやれると笑って言える晴れ間に立ちたい。だから私は、お客様の前で喋ってみるということを、今後企画しようと思っている。劇団のことに限らない。創作のことを、誰も来なくても、きっと喋る。


まだ一度も出来上がったことがないと言ったが、集団としては本当にずっと未完成を繰り返している私たちだが、作り出した三十数本の作品は、どれも愛らしい、そのときどきの完成品だ。それを作ってきたという自負がある。だから喋れることもたくさんある。


劇団は目的ではない、手段だ。自分たちが見たい理想の演劇を作るために、必要な知識や技術を持つ人たちが集るいっときの工房だ。他にもっと有効な手段があると思えば、そちらを選ぶのが、自分たちが見たい理想の演劇に対する純粋で誠実な行動と言える。その考えから、劇団がこの先いつまで続くのか、まったくお約束はできない。だが、演劇を作り楽しむためには劇団が必要と思っているうちは、これからも劇団のために無い知恵を絞り続けようと思う。


20年経って、20歳トシをとった。いつ寝てるんですか?と言われ続けた私も、寝ないと使い物にならない人になったし、ただでさえ全部やりたい性格のところに子どもの世話という高度な任務も授かった。たぶん私はこの数年、自分と自分の周りに起きる変化に対応しきれず、これまで感じたことのない疲れの中にいたのだと思う。私の時間の多くは私の時間ではなくなり、手元に残った私の時間も、ローンで支払える感じではなくなった。どこかにあった余剰な時間と体力は時にこぼれ、時に枯れ、手元にある時間を大事に使うしかなくなってきた感がある。いや、まったく深刻な話ではない。誰にでも起きる当然の変化だ。


だがそれにもいよいよ慣れてきた。ここに来て、その実感がある。なんとなく。いや、その根拠は単に、半年近くもがいていた幾つかの執筆に光が見えてきたから、というただそれだけのことかもしれない。でもほら、光が見えてきただけで随分力が湧いてくることが、今ここに、記されようとしていますよ皆さん。


動けばきっとなんとかなる。前にそう思った時のことは定かではない。今回は、ここに書いて残した。


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