きわダイアローグ14 齋藤彰英×鈴木隆史×向井知子 4/6
4.
生態系の中の一部である人間の、生命行為としての制作
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向井:あるとき、ダイアローグパートナーの自然科学者から「あなたの制作はバイオグラフィーだと思う」と言われて、「そうかな?」と思ったことがあるんです。「bio」には生命や生態という意味もありますが、「biography」は人間の歴史、個人史を指すことが多い。わたしは齋藤さんとは逆で、作品制作に対して個人的な部分とはかなり引き離しています。自分も実は風景の中にいなくて、一個人でそこに立ち上がった何かを他の人と一緒に見ているかもしれないという感覚です。でも、齋藤さんと対話をして、制作や写真行為を見ていくうちに、わたしたちがやっている制作行為みたいなものも、生態系の中の一部である人間の、ある一人がやっている生命行為であると考えられるのではないかと思ったんです。そう考えると、人が制作行為をすることの捉え方も、変わってくるんじゃないかと思うようになりました。
先ほどもお話ししたように、今回のテキストには、極力感情ではなく、自分が見たものや実際に対話した人との会話から何を考えたかを書いています。今回わたしは(自分自身の直接的な制作においては)映像に全く頼れませんでしたが、テキストを置くという形を取ったとき、観てくれる方がどれだけ対話の風景を再生してくれるかなと気になっていました。書いてあるのは、実際にわたしが見てきた風景ですし、対話した相手は実際にいる人たちです。わたしを介しての間接的な対話なのかもしれないですが、テキストをめくった方は、わたしが対話した相手とも、関与という形でそこに対話が生まれるかもしれません。それから、水の苑に置いてあった石は、齋藤さんが実際に採集してきたものです。わたしがテキストを書いていることと、齋藤さんが採集していることは、異次元のところで起きていることではありますが、わたしたちは同時にそこに存在していましたし、石は石で流れていくなかで見てきた風景があったはずです。そのさまざまなわたしたちの制作行為みたいなものも生命の一つとして考えられるならば、人間同士の間接的な関与や、生態系にあるものとわたしたちの出会いみたいなものも、複合的な接触点がある。鈴木さんのお話の中でもありましたが、展示にお越しいただいた方々は、水の苑にしゃがみ込んで石を何回も置いてみたり、テキストを読んだうえで気に入ったものを持ち帰ったり、あるいは全部のテキストを持っていったりと、さまざまな行為をされていました。観覧者の方も関わることで、それぞれに別のことが生じている空間をつくることができたのではないかと思っています。
齋藤さんがおっしゃった「学術的なことを調べれば調べるほど……」という話と少し関わるのですが……。「きわにたつ」を行なったとき、調べれば調べるほど、きわというコンセプトを考えれば考えるほど、記号化をしているような感覚になったんです。「きわにふれる」に関しては、どんどん描写的になっていないだろうかと常に考えていました。でも、先ほど鈴木さんがおっしゃったように、本来ダイアローグはそこから何かを切り出したり、コンセプトにしたりして、そこからわたしが何かをつくるというものではありません。なので、ダイアローグを接触点として捉えることで、映像をよすがとしない、ただあるままのものをつくるのはどうかと、鈴木さんがくみ取ってくださったわけです。今回ポンとテキストを置いていますが、それは積層のようにわたしたち3人の間でも蓄積されたものです。来てくださった方たちがテキストを持ち帰ることで、川が流れるように、地層が削られるように、減っていく。そういう変化によっても、複合的な接触点ができたのではないかと感じています。
齋藤:これは感想になるのですが、水の苑の中にじゃぶじゃぶと入っていって石を並べる行為はとても楽しかったです。論理立てないとなかなか作品がつくれないという現状や、自分に起きていたことを含めて、「4つの石をどうやって水の上に浮いているように見せるか」「それらをどこに置くのがよいか」といったシンプルなことをああだこうだ言いながらつくっていく。体で遊びながらつくるというか、言葉にはできないけれど共有できているという感覚について、実験できたのはすごくよかったです。「水の苑と僕の作品のここが直接的にリンクしている」と説明はできないのですが、同時期にこの東長寺という場所でやれたことで、感覚的なところがリンクしている。それが鑑賞者の方に伝わるかどうか、伝わるべきなのかどうかはわからないですが、つくっているなかでそういったことがあったのは、僕としては面白かったです。
向井:ロジックではない必然性はあると思います。ただ、感覚的にだけというのはわたしも違和感があります。齋藤さんもおっしゃったように、大の大人が夢中になって「いや、これはこうあるべきだ」と石を並べていた。それに、齋藤さんと接触したことで何か起きるのだろうと思いながらも対話をしていくことで、実際わたしのテキストの中には齋藤さんが登場したわけです。結果、齋藤さんに対して、ある生命の行為に触れたという感覚をもちました。いろんな偶然が重なって、そこにあるべきものがある・いると考えられたことはよかったかなと思います。
齋藤: プリントと映像、どちらの良さもあるんですけれど、映像に関してはいつもと違う面白さがありました。普段は、 撮っているときとプリントするとき、展示を構成するときで それぞれ思考が違うんです。撮っているときは結構感覚的。そもそも目の前に見えている景色が真っ暗なので、感覚を頼りにするしかないんですね。撮っているときは作品になるかどうかわからないので、構成していく作業にとても長い時間がかかります。撮ったときの感覚は重要なのですが、その間に論理立てて思考したり、プロセスを組み立てたりする面白さが出てくるわけです。
今回は、風景とカメラと僕という関係性が直接映像になるので、ある種の立ち現れみたいなものが生まれました。それもあって編集しているときも、普段とは全然違いました。長時間露光しているときって、基本はデジタルカメラの背面が真っ暗な状態です。例えば1時間シャッターを開けていると、1時間後に時間を集積させた写真がカメラの背面にパッと現れる。そのときの感覚は普段からとても面白いのですが、今回は編集のときも、「あの瞬間よかったな」という純粋な感覚で時間軸の中に写真を並べることができましたし、写真が現れるまでの時間についても、そのとき体感していた感覚みたいなものを頼りにできた。すんなりと、欲張らずやれたところがあったと思います。
ただ今はまだ全然実感がないんです。プリントして展示をするときは、基本的に額装までやるので、作品の制作は展示の2か月前には終わっている。そのため、作品に対して自分がどう捉えたらいいかを冷静に見ることができます。しかも、空間に配置する行為によって整理もできます。今回は、それこそ撮って出し。すごく無責任なやり方をしているので、果たして作品になり得ているのか、あるいは次にどういう展開があり得るのか、まだ掴めていません。そのくらい、そのまま出しちゃったという感じはすごく心地いい反面、不安でもあります。
向井:齋藤さんをお誘いしたのは、やっぱり齋藤さんの写真行為を絶対に映したかったからですし、その中に埋もれてみたかったからなんです。つくっている途中にもずっと「ビデオじゃないものをつくっているよね」「あくまでここにあるのは写真行為だよね」と話していました。今日すべて並べ終わったので、わたし自身もしていることが何なのか、どういうものになっているのかについては正直わかりません。けれど、わからないものが生じるような場所をつくっていきたいという思いがあったのも事実です。ここでのパノラマの映像によって、いろんな人がきわのことを考えながら、さまざまな行為を続けられればいいなと思っています。
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冒頭記録写真:矢島泰輔
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