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アルゼンチンのアートx政治ーー「エル・シルエタソ」

ラテンアメリカには独裁制という過去がまだ記憶に新しい国がたくさんある。その一つがアルゼンチン。独裁制時代、たくさんの人が行方不明になった。それは、国家によって誘拐され、家族はそのまま行先も生存もわからないまま。

その現実を前にして、行方不明者の親たちが路上での抗議活動を始めた。それは「エル・シルエタソ」(El Siluetazo)という芸術行為に繋がり、広く知られるようになった。これについて長年研究を重ね、本も出版しているのがアナ・ロンゴーニ氏(Ana Longoni)。彼女の書籍や講義の記録を元に「エル・シルエタソ」を紹介していきたいと思う。

(見出しの画像:エドワルド・ヒル撮影 Eduardo Gil)

歴史的背景

アルゼンチンは1976年のクーデターから、1983年まで続いた独裁制があった。この同時期(70年代〜80年代)、ラテンアメリカでは複数の国が独裁制に陥ってしまい、それが17年間続いた隣国チリに比べたらアルゼンチンのは期間は短かったが、それでもその時代の残酷さや恐ろしさは今でも人々の記憶や生活に跡を残している。

その中でも最も社会の記憶に残るの独裁国家の爪痕は、30,000人にものぼると言われている行方不明者である。また、約500人の新生児や幼児が国家に誘拐され、軍事関係者家庭に「養子」として渡された。この時代に誘拐された子供たちが成人した頃、114人は身元が確認され、誘拐前の本当の家族と再会を果たすことができたが、未だに400人弱の子供(今は成人)の行方や身元は未確認である。

アルゼンチン出身で独裁制時代に亡命し、以来メキシコで暮らす政治学者ピラール・カルベイロ(Pilar Calveiro)は著書「Poder y Desaparición」(権力と失踪)で、市民の間に恐怖が広がった理由の一つは「明確」なことと「不明」なこととの間を彷徨った精神的苦痛が原因であると解く。例えば、行方不明になった息子から突然電話が来たり(場所は強制収容所から)、市民の心の傷が開いたままの状態を国家は保たち、精神的に追い込んでいた。

独裁制が始まってから一年経った1977年のある日、首都ブエノス・アイレスのプラザ・デ・マヨ(5月広場)に女性たちが集まり始めた。この広場は「政治」「経済」「キリスト教」の三大権力の建造物が集結した場所である。そこで女性たちは行方不明になった家族の写真などを持って、抗議活動を始めた。

これは各個人の自発的な行為として始まったが、それは時期に集団的な資力となった。こうして、女性(母親)を中心に、行方不明者の家族が広場に毎週木曜日に集まるようになった。しかし、当時は7人以上の集まりは禁止されていたため、広場の周りをくるくる歩き回りながら、留まった「集会」を避けた。

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家族が使用した写真は、証明写真が多かった。なぜなら、行方不明者を見つけたり特定できる「最近」の写真はそれしか手元になかった家族が多かったからである。ロンゴーニ氏はこの「証明写真」の使用をこう分析する。

家族の手元にあったのが証明写真だったからではあるものの、証明写真を使うことには大きな象徴的な意味があります。証明写真は運転免許やパスポートをはじめとした、国へ申請する書類や手続きに必要なタイプの写真です。当時の国家は行方不明の国民に関して「行方不明者なんていない、そんな人間はいない」と断固否定していました。否定することで人々の抗議を無効化する意図がありました。しかし、その人の証明写真があることは、国に存在を確認されていることを証明しています。国は一度、その写真に写る人間の身元を確認しているということです。つまり、国民の身元を特定する国家(Estado identificador)が今度はその国民を失踪させる国家(Estado desaparecedor)であることを表しています。

エル・シルエタソ

1983年。
「エル・シルエタソ」は、アーティストのフリオ・フロレス(Julio Flores)、ギジェルモ・ケクセル(Guillermo Kexel)とロドルフォ・アゲレベリー(Rodolfo Aguerreberry)の3人が考案したことから始まった。アイディア自体は至ってシンプルで、行方不明者を表す原寸大の人形(ひとがた)、「シルエット」を切り抜いて街に貼り出すことが目的であった。こうして失踪者の数を可視化しようと考えた。それも、行方不明者の数と同じ30,000人分を目標にした。

しかし具体的に計画を進めると、やはりその「3万体」を達成する難しさにぶつかった。3人の間で手分けしたところで一人一万体のシルエットを作れるわけない。そこで3人のアーティストは思いつく:5月広場の市民の協力を得たらどうだ。

3人はこのアイディアを「Las Madres de Plaza Mayo(5月広場の母親たち)」(以下、ラス・マドレス)に持ちかけた。77年に始まった毎週の抗議活動はずっと続いており、実はその頃には参加者は「5月広場の母親たち」という名の下、緩く組織化されていた。ラス・マドレスにアイディアを共有する際、彼らはそれが「アート」として伝わることにこだわらず、表現方法として話した。ラス・マドレスはそれを受入れ、アーティストと市民でシルエットを作ることになった。この共同作業が行われたのが1983年9月21日。「エル・シルエタソ」誕生。

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「シルエタソ」と「シルエット」の関係
少し余談ではあるが、ここで示しておくべきは、「エル・シルエタソ」と「シルエット」の違いである。

「エル・シルエタソ」は単に「シルエット」のスペイン語訳ではない(それは「ラ・シルエタ」La siluetaになる)。「エル・シルエタソ」はアルゼンチンで起こったこの歴史的表現行為に限定してついた名称である。スペイン語で語尾に「〜アソ(azo)」をつけると、大勢が、または何かがたくさん集まって同じ行動をとる現象を名詞に変換する造語方法である。例えば、ツイタソ(tuitazo)は決まった日時に一斉に同じハッシュタグや内容でツイートをすること(国会で大事な政策が審議される日などに向けて呼びかけがあったりする)。パニュエラソ(pañuelazo)は、ラテンアメリカのフェミニスト・ムーブメントを象徴するスカーフ(緑は人口中絶の権利運動、紫はジェンダー暴力撲滅運動)を身につけて大勢で抗議する行為のこと。というわけで、シルエタソ(siluetazo)は大勢が集まってシルエットを制作する行為を示す名称として出来上がった言葉である。ちなみに、ツイタソやパニュエラソは特定の出来事と紐づけられておらず、それら行為の一般名称であることに対して、「エル・シルエタソ」と言えば、この時代のこの行為を具体的に指す言葉である。

アルゼンチンでのシルエタソが報道されてから「シルエット」は周知された資力、見覚えある記号、クリエイティブな戦略と化した。他の国でもシルエットを用いた抗議や政治的表現活動が行われたが、ロンゴーニ氏はこれらを「シルエタソ」と呼ばない。エル・シルエタソは具体的な歴史的出来事で、尚且つ公共空間を占領することが核にある。一方、他の国や時代や社会的文脈で現れたシルエットをロンゴーニ氏は「シルエティアダ」(siluetiada)と呼んでいる。「シルエティアダ」はシルエットというモチーフを使う行為全般のことを意味する。

例えば、その後1989年に同じブエノス・アイレスで起こったMarcha de las siluetas rojas(赤いシルエットの行進)では、人間の大きさを超えた巨大なシルエットが登場したが、これもロンゴーニ氏は「エル・シルエタソ」とは識別する。独裁制時代のエル・シルエタソのシルエットは人間の原寸大にこだわった。これは、シルエタソの時代は行方不明者を「被害者」として認識していたからだと読み解く。一方、Marcha de las siluetas rojasではその時代の歴史を振り返って見ているため、大きさや赤色を以って被害者たちが「ヒーロー化」されて表現されているとロンゴーニ氏は指摘する。

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ーー83年のシルエタソに話を戻す。
行方不明者の顔写真の使用は、失踪前の生活や「家族」「友人」と言った被害者と抗議者の関係性が強調されるビジュアルであることに対し、シルエットは姿が統一され、個人を特定するような特徴や属性がなく、誘拐後の生活、不在、空虚などを連想させるビジュアルである。はじめはそのようなニュートラルで白黒のシルエットを作っていた。

しかし、作っていくうちにラス・マドレスからシルエットに具体的な特徴や色味を加えたいと要望が出た。企画は3人のアーティストから始まったこととは言え、もうその時点ではアーティストたちの手から離れてコントロールできる範囲ではなかった。でも3人はそれを後悔したりすることはなかった。実際、アゲレベリーはこのような発言を残している:「5月広場でシルエットを作り始めてから30分も経たない時点で、アーティストたちは家へ帰っても何も問題はなかっただろう。」

つまり、ラス・マドレスを中心に、その場にいた人たちはそれだけ積極的にシルエットを作ることに取り組み、アーティストたちもそれに満足していたということだ。

(実はシルエタソは第二回目も開催されたが、アーティストたちはこれにはなんら関わりはなかった。人権団体に属する若者が始めたシルエタソだった。それは1983年12月10日、独裁制最後の日に行われた。民主国家初日の朝には、3万人の行方不明者を表すシルエットで街が溢れた。)

こうしてシルエタソはたくさんの国民の記憶に刻まれた。また、上記でも触れたように、アーティストたちはそもそもシルエタソを「アート」として語ることは一度もなかったし、「アートだ」と言う主張はしなかった。アルゼンチンで何が起こっているかを広く伝達するためのコミュニケーション戦略だった。そして、それは成功し、当時のシルエタソの様子は実際にたくさんの国際メディアに報道された。

アルゼンチンの運動の特徴
ラス・マドレスはシルエタソに対していくつかこだわりがあった。一つはシルエットが「死」を連想させないこと。シルエットが象徴するのはあくまで失踪者の「不在」だった。例えば、シルエットを貼る時、それを地面に寝かせて貼ることはしないようアーティストたちにお願いした。これは、寝かせたシルエットが死体が見つかった場所に印をつける犯罪科学の光景に似ているからであった。

この「死」の否定はアルゼンチンの市民運動の特徴の一つでもある。アルゼンチンの運動のスローガンは「Apareción con vida」=「生きて現れる」だったのに対して、例えばチリで起こった独裁制下の失踪者への抗議活動のスローガンは「¿Dónde están?」=「どこにいる?」と、「死」を比較的受け止めた姿勢だった。アルゼンチンの運動が、いまだに失踪者の死を受け入れないことで、今でも政府が責任逃れできない状況を保っているという見方もある。

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Poner el cuerpo 身を置くことの大切さ

南米に移住してから何度も聞く言葉がある。それは「Poner el cuerpo」(発音:ポネール・エル・クエルポ)。直訳すると「体/身を置く」になるが、意味は、自らの身体を投じる、真摯に関わる、という意味になる(個人的にカタカナ英語を使うのは好きではないが、イマっぽくいうのであれば、「コミットする」に当たる)。口先だけではなく、ちゃんと身を以て行動で示すこと。特にフェミニズムやアクティビズムの文脈でよくこの言葉を耳にする。

エル・シルエタソの場合、このPoner el cuerpoは文字通り、シルエットをなぞるため、誰かが紙の上に体を置くことから始まる。この行為は、情動的な面からも人々の心を動かした:行方不明者の代わりに今ここにいる誰かが体を貸してその人物の存在(不在)を表す。「不在者」との繋がりが生まれる瞬間である。

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Poner el cuerpoが意味するのは物理的に身体を直接用いることだけではない。運動や抵抗活動へ身を投じること、「現在」と向き合うこととも言える。エル・シルエタソに協力した人々は、自分たちのエネルギー、身体、時間、資源などを持参して協力した。しかも、結果など予想できず、独裁制という極めて危険な状況の中、行動したのだ。見返りを求めず、今やらなければいけないことを精一杯やる。それがPoner el cuerpoだ。

アートとしてのエル・シルエタソ

さて、エル・シルエタソのアクティビズムの面をこれまでなぞってきたが、それではこの行為がアート、表現としてどのような議論に繋がるのか。

アルゼンチン出身のアーティストでC.A.Pa.Ta.Coというコレクティブのメンバーであるフェルナンド・ココ・べドヤ(Fernando Coco Bedoya)はメキシコのミュラリズム(壁画運動)やチリのウニダド・ポプラール(Unidad Popular)同様、シルエタソを革命的政治プロセスに関わるラテン・アメリカのアートの系統に当てはめる。

シルエタソはメディアに向けての戦略でもあり、失踪者問題を可視化し、社会/政治問題として周知させる機能を果たした。視覚的なインパクトのおかげで、公共空間に突如現れたいくつもの無名のシルエットはどんな統計や数字よりも独裁制の恐ろしさを物語っていた。

ペルー出身の評論家/キュレーターのグスタボ・ブンティンクス(Gustavo Buntinx)はシルエタソを「アートを『黙想の対象物』『生活と掛け離れた事例』とする概念を徹底的に一掃する」と評した。

シルエタソはその時代の状況に反応した表現方法だった。行為の先に何があるのかわからないまま行われた。シルエタソに関わった人々はその時やらなければいけなかった方法で必死にPoner el cuerpo、身を投じたのだ。

だからシルエットを「作品」として美術空間に展示しようとすると文脈との「ズレ」が生じ、意味が失われ、衝突が起こる。

シルエタソの展示
2003年暮れ、シルエタソ20周年記念の展示が開催された。アーカイブされていた当時の写真や実際のシルエットを展示するシンプルな企画だった。しかし、シルエタソの考案者である3人のアーティストのうちの一人、ケクセル氏は企画へ反対の意を示した。彼にとって、そういった文化施設の文脈で展示するのはあまりにも場違いで、シルエットを「オブジェ化」しすぎているように思えた。

確かに展示となると、シルエットをなんらかの美学的基準に基づいて選考する事になる。そもそも「展示していいシルエットとしないシルエット」はどのように決めるべきなのか、そんな選別をしていいのか。さらに、美術展で展示することはシルエットを「唯一無二」の「芸術作品」に昇進させることになる。それは「作品」として経済的価値を与えることにも繋がりうる。

また、一番残念で、野暮とも言える結果は、シルエットを展示することによってシルエタソにとって最も重要である政治性の力が陳腐化されてしまうことだった。ホワイト・キューブのような、政治性が消毒された「衛生的」な環境でシルエットを展示したところで、公共空間に貼り出された当時のインパクトは再現できるわけがなく、何しろシルエットを可能にした poner el cuerpo、身体の政治性の要素も皆無だ。

シルエタソは2019年にSNSで拡散されて一躍有名になったラステシスのパフォーマンス「Un violador en tu camino」(あなたの道ゆくレイピスト)と重なる点がいくつかあるが、この「物的作品とされることへの拒否」とも言える性質はその一つである。ラステシスはまず第一に自らを「アート・コレクティブ」と自己認識している。よって生み出すものは「アート」である。しかしシルエタソ同様、「Un violador en tu camino」をギャラリーでパフォーマンスしたところで意味はあるのだろうか?

おそらくラステシスのパフォーマンスもギャラリーや美術館ではうまく機能しないだろう。アクティビズムの領域と重なるアートは、それが生まれる「時と場所の社会性」ありきだ。動いて、呼吸をし、変化する生きた作品である。政治はホワイト・キューブで起こるのではない。社会の中、街中、人々の身体の中で生きているものだ。


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過去記事「【リタ・セガート】家父長制:端から中心へ (3/3)これからを創造する」と「チリのフェミニスト・コレクティブ Lastesisとのインタビュー」で、「5月広場運動」の女性たちについて触れました。