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コロナ禍でのパフォーマンス作品:作家インタビュー「統治者たちに突きつける、記憶をのせた皿」

パフォーマンスを実演したアーティストたちとのインタビューの邦訳です。元の記事はこちら

こちらの記事は「南米フェミニスト・アート・アクティビズム講座」と関連しています。最後の開催となる第5期の受講者募集中です!

訳・岩間香純  校正・寺田知加 (翻訳・英文作成 アトカ

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2020年6月26日、アンドレア・サンブラノ=ロハス、サロメ・キットとイサドラ・パーラの3人は、アンドレアのパフォーマンス作品「HAMBRE(読み:アンブレ、訳:空腹)」を実演するために、キトのプラサ・グランデに集まった。彼女たちは、カロンデレット邸の方を向き、煤、灰、土を皿の上に用意し、この国の統治者たちに捧げた。これらの材料は、2019年10月の先住民運動による全国ストライキの際に、集会の現場となったカサ・デ・ラ・クルトゥーラやアルボリート公園周辺で拾い集めたものである。皿にのせたもう一つの材料はユーカリの葉である。ユーカリの葉はコロナ禍で気道のつまりを解消したり、新型コロナウイルス感染症の症状を和らげたりするために使われ、また、全国ストライキのときも、警察が市民に向けて放射する催涙ガスの効果を抑えるために使用されていた。

サロメ・キット
キトゥ(*1)出身。ナントゥーのお母さん、ムナイ・ソモス・ナトゥラレサでシュンゴを使った治療薬を作っている。常に学びの中にいるフェミニストであり、友人、姉、娘、仲間、教育学の学生でもある。パフォーマンス、煙を焚くこと、儀式を行うことを通して闘っている。

イサドラ・パーラ
ビジュアル・アーティスト、美術学生。作品は身体性のあらゆる生命力と欲望の探究。病に冒された体などの様々な身体性のパフォーマティビティ(行為遂行性)、フェミニズム、バイナリーに収まらないセクシュアルアイデンティティー、社会規範から外れる快楽の可能性について詩的なリサーチをしている。様々なメディアで表現活動を行なっているが、スカルプチャー、写真、執筆を主な活動としている。

アンドレア・サンブラノ=ロハス
アーティスト、アクティビスト、フェミニスト、職業画家、パフォーマンサー、裁縫師。群れで暮らす陸の動物。海にたどり着くまで山峡を行く。
美術教育、女性たちの戦い、生態系の保護活動を中心に、個人的および共同的に活動しており、民衆教育、コミュニタリアン・フェミニズムと自律的フェミニズム、表現活動に基づいた研究、方法論の構築や行動-感情-思考-共有のサイクルの創生に携わってきた。ムヘレス・デ・フレンテ、フェミニスト雑誌フロール・デル・グアントのコレクティブメンバー。


HAMBREはどのようにして制作しましたか?使う材料と実施する場所はどのようにして選びましたか?

アンドレア:私たちは空腹を感じていて、その事実をこの「食事」を通して政府に訴えかけます。私たちを新自由主義の攻撃に対する抗議活動と、2019年10月のストライキへと突き動かしたのも空腹でした。私たちに対する攻撃は、経済権力者たちとエクアドル政府との同盟によって率いられており、この同盟はさらに世界のグローバル権力の言いなりになっています。私たちの空腹は昨日今日に始まったことではありません。植民地的な発展モデルや、エクアドルの経済権力層による企業資本や金融資本の蓄積のプロセスは、歴史的に強奪、侵略、隷属との深い関係があります。

モレノ政権も、過去の政権も、採掘主義的な政策をもって、何十年もの間、私たちの体、土地、水、海、空、そこに存在する全ての生き物を立ち退かせ、強奪を繰り返してきました。もちろん、私たちの食糧も奪われてきました。今、私たちは個人主義的孤立による共同性の解体に直面しています。この状態は、国家が人種差別的、資本主義的、家父長的な市場(しじょう)と手を組み、公衆衛生対策という名目のもとに、私たちを均一化し、都合よく簡単に操作するために生み出されたものです。「社会的な体」を構成する私たちは、異質性をもって(集団を)組織し、抵抗し、存在し続けます。この場所から言い続けます:「お腹が空いている」と。

「社会的な体」(1)の異質性は、その混成的かつ多様な、複数の体たちにあります。私たちは、自分たちを、その全体性と複雑性において、発言する者、発言を受ける者、命を守り、可能性のある者たちが一体化した、「社会的な体」であると認識しています。私たちは食べること、そして恐怖のない生活を送ることに飢えています。生きる上で尊厳が保たれること、行動を共有すること、そして自由を求めています。

私たちは、抑圧されることで互いを認知し、権力に潰されそうになっている者同士で解決策を求める「社会的な体」です。私たちの労働が国家や資本主義の市場から全く認知されない中で、パンデミックの間、私たちの食生活を支えていたのは誰でしょう?キトでは「外出禁止令」によって移動が制限され、物流が困難になり、労働者の生鮮品市場(いちば)が閉鎖されましたが、それは、市場で働く人、そこで食糧を手に入れる人など、数多くの命を危険に晒しています。この状況下で労働者の生活を支えたのは、農業従事者や先住民と農業従事者のネットワークと共に結束した、都市部の労働者ネットワーク、学生、労働者や反体制派フェミニストたちです。つまり、全国的なストライキが行われた時と同じ――連携した人々です!私たちの体に刻まれた空腹感は、他の人々と共に食べ物、医薬品、雨風を凌ぐ場と温もりを探すことへと私たちを突き動かします。私たちは、自分たちが一人ではないことを今なら知っています。

街中で、家で、またはバーチャル空間で抗議しているのは誰でしょうか?ムヘレス・デ・フレンテの仲間であるアナリア・シルバが言うように、「コロナウイルス、飢え、孤独、そのいずれによっても死なないために」(2)諦めずにできる限りのことをして命を支えているのは誰でしょう?それは共同体、「社会的な体」、連携した人々、コレクティブ、コミュニティー、抵抗運動。国家は公衆衛生上の安全を守るという建前で、市民同士を監視させ、互いに恐怖を感じさせるよう無菌状態の生活を強いていますが、体をもつ人々は共に生きるために爪と歯を使ってでもしがみつきます。人間と生き物すべての命を護るには、互いに繋がり、関わり合い、地域の生態系と共存し、そして地球やコスモスとの生態系と同期することが必要だと私たちは体で理解しています(3)。都市部に暮らす労働者女性やコミュニティーの抵抗運動は、食糧生産の大多数を担う農村地域の労働者女性やコミュニティーと団結し、共鳴し合い、自分たちの強さと力を知り、「お腹が空いた」と叫びます。それは国家に必要なものを与えられるのを期待しているからではなく、私たちの、コミュニティーの、家族の糧を奪われないように叫ぶのです。

私たちは農業従事者や農民のために、搾取ではなく尊厳を守ることのできる労働環境を国家に要求します。彼らは都市の食生活を支えるために大地を耕しているにもかかわらず、水や電気といった基本的なライフラインにアクセスできず、ましてや医療や教育を受けることもできません。外国への輸出を目的とした農業産業は、単一栽培のために土地と水源を独占し、実際の労働を担う者を搾取し、労働環境を保証せずに農家から商品を買います。作物を生産する農家や都市の労働者階級の人々とは異なり、この産業を牛耳る人間はエクアドルの経済エリート層であり、もちろんパンデミックの影響は彼らにとって命取りではありません。留意しておくべきは、都市で働く労働者階級の人々は、農村地域で安定した生活ができず都市に移動してきた人たちであることです。

このアクションをカロンデレット邸の前で実演しようと思ったのは、ここが現政権の本部であり、エクアドル共和国大統領府だからです。加えて、かつてはキトにあったスペイン王国の首脳部本部だったからです。そのため、(この場所は)人によって様々な捉え方がなされています。

このパフォーマンスの目的と、政府への要求はなんですか?

サロメ:私にとってこのパフォーマンスの目的は、まず遂行することでした。緊急事態宣言、抗議活動の犯罪化、検閲という現状を踏まえると、これは決して些細なことではありません。公共空間を占拠したり、街中に出たりすることは、それだけですでに政治的行為です。

「アンブレ(空腹)」の訴えは「記憶」と関係しています。それは私たちがここにいること、こうして存在すること、女性であること、政治的に体をなげうっていること、身体―領土(*2)として常に前線で闘い、勇気を持って、感情が溢れるまま、行動をすること。(パフォーマンスで用いる)材料は、そんな私たちが身近に持っているものです。パンデミックによる高い死亡率は政府の責任です。また、政府には、感染した人たちのためにあるべき公金を横領し、公衆衛生や医療に投資せず横領を続けた結果、この国に空腹をもたらした責任があります。

アンドレア:この作品は、アートを通して行動し、声をあげたいという動機から生まれました。ストライキ中の10月には、前線で戦い、現場を目撃していた先住民運動、反体制フェミニスト、および連携した人々は、そこで起こった様々な出来事を自らの体で体験しました。私はこの歴史的な瞬間の証拠を残したいと思いました。私たちがどのように生きているのか、その命のための抗議がどのように抑圧されようとしているのか、そして何より私たちがどのように連携し、抵抗しているのかを。煤、灰、土はこの抑圧の証拠でもあり、その抵抗の証でもあります。言葉以外の方法で私たちの行動について語れるものを探しました。例えば体から得られる知識や共同性から得られる意味や、群れとして連携して生き延びること。(ストライキの現場で)食事を作るとき、一緒に集会所(*3)で食べて寝る準備をするとき、街に出て抗議する際に、互いに見守り合うとき。そこでは互いに手を貸して、体を使って、所作で実践する「知識」があります。そして今、パンデミックの最中、身体言語が複雑であることは承知ですが、体を通して関わり合うことは抵抗の闘争には必要であるため、実践しています。

パフォーマンスに使った材料は、全国ストライキだけでなく、新型コロナウイルス感染症のパンデミックにおいても重要だとおっしゃいましたが、この二つの出来事はどのように関係していると思われますか?

アンドレア:この二つの出来事に共通しているのは、エクアドル政府の壊死政治(4)を最も生々しい形で露わにしたということです。つまり、家父長資本主義の市場と結びついた国家が生み出す権力関係により、すでに貧困層にあったり、人種化(*4)されていたり、差別されていた幾多の人々が死に追いやられていることを明らかにしたのです。アキリー・メンべ(Achille Mbembe, 2006)は壊死政治を次のように説明します:「(壊死政治の)主権の究極の表現は、主に誰が生きることができ、誰が死ぬかを決定する権力と能力にある。したがって、生かすことと死なせることは、主権の限界、つまり主権の主な属性を構成する。主権は、死亡率を管理することであり、生命を権力の展開と顕現として定義することである」。エクアドルでは2019年10月のストライキ後に新型コロナウイルス感染症が拡大し、大きな公衆衛生危機が到来しました。これに伴い、政府は多くの公務員を解雇し、自らの命を犠牲にして感染者の看護にあたる公的な医療従事者の給料を減額しました。この危機に直面した政府は、さらに人々の生活を不安定にさせ、強奪し、貧困化を引き起こすことでエクアドルのエリート層の特権を守ろうとしています。また、政府はIMFへの債務返済(に資金を充て)、採掘主義政治を維持し、石油と鉱物を採掘しています。これは歴史的な傾向であり、時代を遡って例を見つけるまでもなく、市民革命のラファエル・コレア(前大統領)から現政権に引き継がれています。

さらに、これらの二つの出来事には、(ストライキの参加者やパンデミックの影響を受けた人々が)正義を渇望しているという類似点があります。しかし、ここでいう「正義」とは懲罰を与える正義ではなく、社会正義のことです。また、私たちは公立教育の充実を求めています。なぜならレニン・モレノ大統領はパンデミックを言い訳に、公立教育予算を削減したからです。私たちは今、あらゆるテレ・コミュニケーションメディアの民営化に直面しています。例えば、エクアドルでは、国外に居住している家族のいる市民が数多くいます。国外に住むエクアドル国民はそこで働き、エクアドルにいる家族にお金を送っています。国家もこの流通の利益を得ています。このような国民は、エクアドル郵便局を通してこれまでは手紙や小包を送ったり受け取ったりしていましたが、今はそれすら(民営化の可能性によって)脅かされています。私たちは自由を求めています。国家は貧困、抗議、非正規の仕事(*5)を犯罪扱いしています。私たちは恐怖を感じることのない生活を求めています。緊急事態宣言下の今、数多くの女性、女児、トランスパーソンは加害者とやむを得ず自粛生活を送っています。私たちは自分たちが人間であることを感じたいと願っています。求めるのは栄養のある食事、きれいな水、自由、自律性。尊厳ある人生です。

フェミニスト・アクティビズムはどのようにしてアートと融合し、この現状の中で女性たちに寄り添い、その要求を伝えることができますか?

サロメ:私は女性という立場で社会に存在しています。私の行動は全て、私が感じ、私を突き動かすものと関係しています。この抗議のパフォーマンスでは、私たちは料理人として、女性として、友人としてシスターフッドを構築し、アクションに身を投じています。私たちのとる行動は、公共空間であろうと、アートの中であろうと、友情の中であろうと、抗議の現場であろうと、すべてが一体となっています。

もちろん、(私たちの活動が)すべての女性を代弁しているとは言えませんが、私たちと共通の何かに飢えている女性たちを代弁することはできると思います。(終了)

元の記事にあった注釈
このパフォーマンスはマリティーナ・ミニョが開催した「メタフォラス・コメスティブレス」講座の終了イベントとして発表された。

(1)様々な差異によって構成される「社会的な体」の概念は、シルビア・リベラ=クシカンキがメスティソに関連して提言する「チェヘ(ch’ixi)」という概念から理解できる。チェへとは「私たち『メスティソ/メスティサ』の雑多な混成を示すのに最も適した訳語」である。また、「チェヘには様々な含意がある:それは二色の補色、例えば白と黒、赤と緑を小さい点や斑点で対比させるように並べたときに生まれる色を意味する。このまだらな灰色は白と黒を微細に混ぜ合わせた結果で、完全に混ざり合っていないながらも、そうであると知覚してしまう。チェへは『同時にそうであり、そうでない』というアイマラ文化の概念(allqa、ayni同様)、つまり第三のロジックに基づいている。チェへの灰色は同時に白であり、白でない。また、白でありながらその反対の黒でもある」。RiveraCusicanqui, Silvia. (2010). Ch’ixinakax utxiwa : una reflexión sobreprácticas y discursos descolonizadores, Buenos Aires : Retazos-TintaLimón.

(2)アナリア・シルバが電話で私たちに語ってくれた言葉。のちに「隔離のクロニクル」の一つとなった。https://mujeresdefrente.org/cronicas-del-aislamiento-social/

(3)ここでいう「コスモス」はロレナ・カブナルなど、コミュニタリアン・フェミニストたちが提唱する自然界、または宇宙である。

(4)Mbembe, Achille. (2011). Necropolítica. España: Editorial Melusina. (2006)

私が邦訳に際してつけた注釈

*1:キトゥはインカ文明が赤道都市(現シウダッド・ミタッド・デル・ムンド)につけたキチュア語由来の名前。現「キト」という都市名の語源となった。

*2:「身体―領土」とは、ロレナ・カブナルやベロニカ・ガーゴなどのラテンアメリカのフェミニストが提唱する概念。マイノリティー、特に女性やジェンダーマイノリティーの身体は、地理的な領土同様、家父長制や資本主義によって搾取や採掘の対象となる「資源」として扱われているということを論じるための概念。

*3:集会所と意訳。直訳は「平和の場所」であるが、機能としてはストライキに参加するために地方から首都へ来た人々が寝泊りし、食事や暖をとる場所である。先住民は、ストライキやデモに参加するとき、必然的に、および価値観の理由から、子供を含めた家族全員で参加することが多く、集会所では子供が遊んで過ごせる場所なども設けられている。10月のストライキでは、多くの大学が集会所として利用すべく、キャンパスを提供した。そこに食糧、毛布やトイレットペーパー、おむつなど生活消耗品の寄付の受け取りもしていた。

*4:「人種化」とは、誰かまたは何かに人種的な特性を与える行為。また、人種によって分類し、周縁化し、または判断するプロセス。

*5:「非正規の仕事」と訳しているこの仕事は、例えば道で食べ物や日用品を売るストリート・ワーカーたちのことを意味する。