ひのおか ふみのり

岩手県盛岡市 専立寺 住職

ひのおか ふみのり

岩手県盛岡市 専立寺 住職

最近の記事

マンションという構造物

紺屋町のマンション問題を眺めていて、1つ思ったのは、 マンションという構造物は歪んでるな、ということだ。 構造物として人間の手に余るし、基本的に人間の手に負えない。というか、なんだろう。人間的ではない、という感じかな。 どんなマンションで、あれ、だ。 地に足がつかないってのはこれほど不自然なこともないのかなという感。 景観云々の議論もあるだろうが、 構造物としてのマンションは否定する。(住っている人の否定ではない) メモ

    • まち、は、つくれ、ない

      まちづくりという言葉はあまり好きではない まち、は、どちらかといえば現象である 存在、ではない そこに生活する人々の現象であり、生活の手垢の沈澱である。 まちにプラスαの付加価値を安易に求めるのは危い。それはブランド化というプラス思考であり上昇思考だ。(それ自体が悪いわけではない)が、まちの本質としての生活の澱は、そこに含まれない。 それはまちの奥行きを奪うことにもなる。 ハリボテとブランド化されたまちが出来上がりかねない。 見つめるべきは生活の手垢であると思う。 そこ

      • 平興酒店閉店に際して

        場所が物語るということ 街の変容 人は 個人的な幸不幸に関わらず、環境に抱えられて生きねばならない。 親と関わり(関わらざるを得ない)、家庭学校社会と環境を生きる。どんな状況でも、である。 人間は誰でも「人間らしく生きたい」と、極素朴な願いを生きている。 自己の尊厳が得られ、他者に対しては「家族的」愛や「友情的」愛を与えることができるように 希望しながら生きている、これが極素朴な願いである。 ところが、現実的娑婆世界は人間に対して、そのような希望をことごとく挫折させてゆく。

        • 徒然

          お寺という場所は、場所的には、いわゆる「目的」なんかなくてもよい。 旅と同じように、ただそれそのものが目的みたいなモノなのか。 それをどう表現するかはなかなか難しい。 振り幅としてそう在るべきということと、それをふくめてどう表現するかは考えねばならない。 なんでもよいわけでもない。

        マンションという構造物