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オリヅルラン(花まくら より 030)

 私が就職と共に京都に来て、三年が経つ頃のことである。私は引越しを考えていた。京都に来る時に選んだ住まいは、広くて、風通しがよくて、日当たりがよくて、言う事がなかったのだが、ただ一つ、住んで見てわかったのはベランダが大通りに面していて、うるさい、ということだった。特に、住み始めて一年ほどしたころ、近くに高速道路の出入り口が新設されてからは、トラックの往来が増え、ガタンガタン、ゴトンゴトン、グォォォ、と激しい騒音に悩まされるようになってしまった。
 私は、次に住み替えるのなら、いっそのこと一戸建てを買いたいと思っていた。せっかく京都に引っ越して来たのだから、町家に住みたいと思っていたのだった。鰻の寝床と俗に言われる、横幅が狭く、奥に長〜い建物。できれば前庭があって、後ろ庭もあって、ちょっと蹲(つくばい)が置いてあるような…。それでいて、勤務先に近い、というのが私の希望だった。当時の私の勤務先は、京都駅の南側、東九条という地域にあった。古い言葉でトンク(東九)、と呼ばれた、その地域は、京都の中では下町の部類、もっとはっきり言えば、住むのがはばかられるとされていた治安の悪い地域だった過去がある。そういう土地柄であったから、地価は総じて安くて、京都駅から一キロも離れれば、手が出そうな価格で中古の戸建を見つけられそうだった。それも、古民家、町家、と築年数が経っていても構わない、ということであれば、当時の私のような若い人間が家を買うというのも、現実味のない話ではなかったのである。
 私はネットの中古戸建の情報を見たり、不動産屋の店頭でチラシを見たりしていたが、結局、今の家にたどり着いたのは、通りすがりのことだった。良い家は無いかな、とめぼしい場所を自転車で走り回っていた時に、ひょっこりと、売り家の看板が目に入った。町家は、今でいうアパートにあたるような集合住宅だから、一件だけでポツン、と建っていることは、まずない。何軒かが連棟になって建っている。五軒の家が壁を共有してぴったりとくっついて建っている、と言ったら良いのか、一つの建物を縦に五軒に区切って使っている、と言ったら良いのか、ともかく、こういう形式の家を、京都の不動産の用語では、テラスハウス、と呼んでいる。私が見つけた家も、テラスハウスという名前で売りに出ていた。東西に三軒の家がくっついている、その真ん中の家だった。私は売り家の看板にかかれた不動産屋に電話し、家の内覧をしたい、と伝えた。
 家の中は、外観から想像するよりも、綺麗だった。家主の方は、この家をセカンドハウスとして使っておられ、水回りのリフォームをしてはみたものの、実際には、ほとんど使用していないということだった。この水回りの設備の充実が、購入の決め手になった。築年数はその時点で七十五年という話だった。後から、税務署で調べて正確には、昭和二年築、購入時点で築年数八十年前後だった。第二次世界大戦前の建物である。戦後より、いっそ戦前の方が建物の造りがしっかりしているんじゃないの、なんて私は思ったものだが、耐震性の方はどうだか、よくわからない。京都の人に地震の話をすると、全く備えていないのがわかる。京都に地震なんて、という感覚らしい。事実、過去の実績として京都に地震は少ないから、累々とその感覚が養われてきたのだと思うが…。
 私は建物を見て、すぐ、この家を買う、と心に決めていた。そして、その時には、もうすでに、一階のダイニングスペースの天井を取って梁を見せ、真上にある二階の八畳間の一部の床を抜いて吹き抜けにする、というプランを立てていた。
 なんだかんだあって、最初に家を見つけたのが六月、購入が十二月と半年もかかってしまったが、最後には私はその家を手に入れた。そして、途切れ途切れに何回か工事をして、途中、日曜大工で自分の手で二階の畳をあげたりもして、えっちらおっちら、三年かけて、ダイニングを吹き抜けにする工事を完了した。最初は昼でも薄暗かったダイニングは、吹き抜けにしたことで、二階の窓から北向きの光が差し込むようになり、開放感も増した。私はその出来上がりに大いに満足した。
 が、ちょうどその頃、私は第一子を妊娠し、そして急に夫が耐震性がどうの、と繰り返し言うようになった。せっかくリフォームが完成したというのに、これは本当に頭が痛い問題だった。私は別に家の耐震性を気にする方ではなかったし、気にもしなかったから、この家を買ったのである。対して、結婚してこの家に移り住んで来た夫にしてみれば、築八十年を超える家など、耐震性について大いに不安があり、身重の妻を一人残す家としては全くの不適合なのであった。
 そんな折、隣の家が空き家になった。隣に住んでいた独居のおばあさんが倒れて、老人ホームに入居したのだ。隣のおばあさんは、玄関先のプランターで、オリヅルランを育てていた。朝、外に出ると、水やりをしているおばあさんとよく顔を合わせた。総白髪の上品なおばあさんで、濃い京言葉を使ってお話されていた。出かける時に顔を合わせると、お疲れのでませんように、と声をかけてくれたものである。ほどほどに、という意味であろうか、いってらっしゃい、という意味の古い京言葉である。
 隣が空き家になってしばらくして、私たち夫婦の間で、今住んでいる家と、隣の家とを二軒まとめて建て替えるのが、理想なのではないか、という話が、ポツポツと話題に上がった。そのために、空き家になっている隣の家を売ってもらうことはできないだろうか?という話である。近所の方にも相談してみたのだが、もしかしたら、長いこと空き家にされているから、手放されるおつもりもあるかもしれないし、一度、相談してみたら、ということだった。背景としては、この時期は、住宅街に少しずつ民泊が増えて始めたころで、近所に空き家ができると、いつか民泊になるのではないか、と京都市民が戦々恐々としていたという背景がある。しかしこれは、空き家を管理されている、おばあさんのご親戚から、家を売るつもりはない、とお断りされ、消えた。当初、三連棟だった内、東側のお宅は取り壊して新築に建て替えたから、残るは、我が家と、おばあさんが住んでいた空き家の二軒だった。
 いっそ売って、引っ越すか。それとも、一軒だけで建て替えるか、という夫の意見と、住める内は住み続ければ良い、という私の意見は平行線をたどった。
 オリヅルランは、おばあさんが老人ホームに入居して、数年経つ間も、雨から水をもらい、手入れされなくても、新芽を出して、花を咲かせた。同じ場所に置いてあったイチョウの木の鉢植えは枯れても、オリヅルランは生き残った。白と緑のストライプの細い葉が密集する根元から、放射線状に茎が伸び、その先に、まるで折り鶴のような形で新しい葉が生え、花はその途中に咲く。花は白く、六弁で、蘭と名は付くが、蘭の花にしては形はシンプルである。とても強い植物で、数年放ったらかしでも、雨さえあれば、元気である。
 私も夫も、家について考えるのに疲れて、ある時、もう、家を売ろうと決心した。家を売って、まずは賃貸マンションに住む。私が家を買ったのは、二〇一一年、ほとんど底値のころだった。売ろうと決めたのは二〇一八年、京都が民泊バブルに湧き、町家がありえないような高値で取引されていたころだった。今売れば、利益を出せる、というタイミングで、私たちは行動を始めた。家の査定をし、引越し先の目処をたて、この家に住むのもあと少し、というところで、我が家に来客がおとずれた。
 ある土曜日に突然現れたスーツ姿の若い男性は、名刺を差し出し、
「こちらのお隣の方が、売却を検討されておられまして、ご挨拶にうかがいました」
 と言った。
 私はハッとした。この男性が現れた、ということは、つまり、お隣のおばあさんが、亡くなったのである。町内会からも、何も連絡は無かったが、私たちの知らない間に、おばあさんは亡くなってしまわれのだった。オリヅルランは、まだ生き生きとしているのに。オリヅルランのご主人は、もう、帰らないのである。
 スーツ姿の男性は、とある銀行の不動産部の方だった。遺産相続の手続きを委託されている、という説明の後、隣のお宅の売却の仲介を請け負ったことを告げられ、私たちに購入の意思があるかをたずねた。
 私と夫は悩んだ。もう一旦は、家を売却しようと心に決めたのである。だが、勤務地に近く、駅も近く、生活の利便性も良いこの立地で、今の家と、隣の家を二軒合わせて建て替えるというのが理想だというのを、私たちは諦めきれていなかった。
 その後、私たちは隣の家を買い、オリヅルランは売主の方が家財を処分する際に、一緒に廃棄された。
 家はまだ建て替えていない。相変わらず、建て替え推進派の夫と、住めるまで住むべきという私で、平行線のままである。この決着が付くのには、まだ数年かかりそうである。しかし、いずれにしろ、私たちはたぶん、残りの一生をここで過ごすと思う。なんせ、色々な条件が整っている以上に、近所の人たちの雰囲気が良いのである。これは他に変えがたい長所である。
 オリヅルランの花言葉は子孫繁栄。京都の東九条は、根を下ろしてみれば、住み良い、おだやかな場所である。

一つ前のお話は…





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