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すべてがご縁で流れていて

こんな時間まで陽が届くようになったんだとフと気が付く。向かい側にマンションがあるので、太陽の光が部屋まで届く時間が季節によって(と言うより日に日に)変わる。ついこの前まで短めだった気がするので、部屋にいる休日長めに陽が差し込むと嬉しくなる。

ベランダに出てお陽さまチャージする。
上半身しか当たらないけど、身体がジワジワ解けていくように暖かさが巡る。あー気持ちいい!
あったかな部屋でも身体は暖まっているけど、お陽さま浴びた時とはちょっと違う気がする。太陽を直接浴びると、なんだか身体に元気が湧いてくる。不思議。


朝昼兼ねての食事をとる。
近所のお気に入りのパン屋さんで買っておいたチーズコーンパンを頬張りながら、やっぱり美味しいなぁとご機嫌さんになる。
パンを口に運びながらフと思う。このパンが私の身体を動かしてくれてるんだよなあ。
手に持っていたパンは、私の口に入ったとたん「私の身体」へと変わっていく。必要な箇所へ必要な形に様変わりして。そしてそのパンだったものも、やがて何らかの形で私の身体から出てまた巡っていく。

好みで時々買っては楽しませて貰っているこのパンも、あの店の人達が作ってくれてるからだよなあと思ってみたりする。
自分ではパンは作らないから、幾ら職業とはいえ美味しいパンを作って提供してくれる人達は尊敬に値する。その人達にとっては好きでやってることで当たり前なのかも知れないけれど。
そのパンも、小麦や他の材料らを育ててくれてる人がいて、流通で運んでくれる人がいて。
小麦やらが育つためには土や水や太陽や様々な環境と自然の力が働いていて。

結局全てのものは"ご縁"という流れで出来て動いているんだよなあとつくづく思う。
全てのものが様々な兼ね合いと流れというご縁で動き、いまこの私の口にパンという形で入り、やがてまたどこかへ流れていく。どれ1つとっても外れるものはない。そしてそれは色んな名前や形をしているけれども、もとは自然のもので。

パン1つとってもそうなのだから、一回の食事での"ご縁"を考えたら、ものすごい"ご縁"が私の口に入り、私の身体をつくってくれ動かしてくれている。今までの食事を考えたら気の遠くなる数になる。

そして、この身体は私が自分で動かしているわけではない。自分の意思で心臓も肺も動いてるわけではないし、呼吸すら勝手にしてくれてる。その呼吸は空気があるからできていて、空気のなかにも水らや酸素やら名前がついたものがあり、自然のものだ。

様々なご縁で形となったものにより身体が保たれ、その動きも自分でやっていないこの身体。
果たして「自分の身体」なんだろうか。身体のどの部分が自分なんだろうか。自分はこの身体のどこにいるんだろうか。

なぜ、この身体を「自分」だと思っているのだろうか?

自分で作ってもいない、維持してもいない、動かしてもいないこの身体が「自分の身体」だという確固たるものは何なんだろう。
確固たるものなんてあるんだろうか。殆どの人が当たり前のように「自分の身体」と思いそのように日常を過ごしているけれども。疑うことすらしないけれども。


身体が「食べてるもので出来ている」というのはちょっと考えても直ぐ解ることで、その食べてるものは自然界のものなのだから、それの集まりで保たれてるこの身体は自然のものとも言えるわけで、結局人の身体も特別なものではなく自然の一部。

自分の身体で自分が動かしていると思うから、あたかも特別でどうにか出来ると思ってしまうけれども、よーくよーく考えれば、何一つこの身体に対して自分でやってる事はない。
ご縁という自然の流れの一部として動いている。つまりは、生かされている。

生かされていると聞くと、あたかも「自分が生かされている」と思ってしまう。
その「思い」も自分の意思でどーこー出来るものではない。どーこー出来るのであれば、この世に悩みなんて存在しない。誰も悩む思いなんて望んで持たないだろうから。
「思い」や「感情」らも勝手に湧いてきては消えていく。自分で操作してるわけではない。これもご縁で湧きあがり、しばらくすればどこかへいなくなる。何か「思い」が湧いて来たとして、何もせずそれを静かに眺めていれば消えていくのを確認できる。
身体の動きも思考も、情報を見聞きして「そうなんだ/そうなのか?」と頭で留めておかないで、実際自分で試してみれば直ぐにわかること。

身体も思考も自分でどうにか出来るものではないのだとしたら、いったいこの「自分」と思っているもの、自分とはなんだろか。どこにいるんだろか。


もう新しい流れになっている。
この身体だけが自分だと、この中に自分がいるんだと思っている所から少し距離を置けたほうが、これからは楽に生きれるのかもしれない。

いにしえの智に言葉に、普段の生活のなかに、森羅万象の中に、ありとあらゆるところにヒントやメッセージが散りばめられている。
「自分」が遠ざかれば遠ざかるほど、それらに気が付きやすくなっていき、点と点が繋がって線になったりする。

それらも自分でやってるわけではなく思いかけず訪れ発見するのだから、やっぱり生かされているよなあと思うし、さらにはこの身体を通してナニカが生きて流れているなあと感じる。

摩訶不思議な
愉しいセカイ。

そして楽しみ方は
人それぞれ人の数だけ。


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