喧嘩稼業 別冊

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かつて最強と呼ばれる者がいた。

「十年早く生まれていれば――いや、師が十年遅く生まれていればよかったのだ。ならば俺は師のもとで学ばず、師と対峙できたのに…………。」
               山本陸



 一章  名護夕間


1950年(昭和25年)GHQ占領下の日本

 (一)

 そこは、かつて武道場と呼ばれいてた。
 周辺は空襲を受け両隣の家屋は焼失したが、武道を愛する者達の命懸けの消火活動により道場は焼失をまぬがれ、終戦を迎えた。
 そこでは現在、フェンシングに似た軽量の面、胴、シャツ、パンツ、運動靴を装用し、竹を八つに細く割り革袋で包んだ袋竹刀で、打ち合いポイントを競うスポーツ。

〝撓《しない》競技〟が行われている。
 この場所を再び、武道場と呼ぶために、名護夕間は戦う。
 年齢33歳。
 丸顔であったため、年齢よりやや若く見える。
 身長174センチ。
 現在では、平均的な身長だが、当時ではやや高い方の部類に入る。出身地の沖縄では、高身長といってもよかった。
 体重85キロ。体重に比べ細身に見えた。
 競技場は520平方メートルほどの板張りの床で〝撓《しない》競技〟を二面行うことが出来る広さ。薄い壁は冷気を取り込み、窓から差す光も行燈《あんどん》のように弱く、十二月になったばかりだというのに真冬を思い起こすように寒い。この競技場のほぼ中心に名護夕間は瞳を閉じ、卸し立ての真っ白な道着に身を包み、背筋を伸ばし正座をしている。
 かつては神棚が飾ってあった西側の上座には紺の軍服を纏《まと》った参謀第二部部長ケンプ少将を中心に、GHQ職員25人が木製の折り畳み椅子に腰を掛けている。

 東側の下座には、代議士会会長の葉森源内《はもりげんない》を中心に、左右に文部官僚が二人づつ。そしてその文部官僚を挟むように、かつて武道を行っていた者達が十人づつの、計25人が背筋を伸ばし板張りの床に正座をしている。

 その中には、渋谷で武装した在日台湾人グループを相手に大立ち回りを演じたの髭面《ひげづら》で細身の男、梶原柳剛《りゅうごう》流の梶原大門《やまと》と浅草区千束町に板垣組の看板を掲げたポマードで髪を整え、鼻翼が僅かに広がっている男、板垣善三組長がいた。

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梶原は胸中を推し量ろうと、競技場の中央に瞳を閉じて正座し仏像のように動かない名護夕間を近視のように、目を細めて見つめていた。
〝俺なら絶対に受けない条件の試合〟
 武道経験のない文部官僚の四人は顔の色を失っている。
 日本側からもっとも遠い位置に当たる北側の襖《ふすま》がゆっくりと音を立てずに開いた。

 鴨居に頭をぶつけぬように、身を屈め入ってきた白熊のような米人将校の手には、銃剣が握られていた。
 海兵隊の銃剣術教官バートランド・ドイル中尉。

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葉森源内から名護夕間に告げられた、試合条件は――
 
○ 本物の銃剣を相手に、素手で戦う。
 
 この他に暗黙のルールが、存在した。

○ 日本人である名護夕間は、殺されても文句をいわない。
○ 米人に、怪我《けが》をさせてはいけない。

 瞳を閉じ競技場の中心で仏像のように動かない、名護夕間の脳裏に葉森源内の言葉が回想される。

「これは日本人の名誉と誇りを懸けた戦い。ここで負ければ日本武道は消滅してしまう」
「絶対に負けることができないのです。これができるのは名護さん以外にはいない」
「どうかこの大任をお引き受けください」

 名護夕間は瞳を緩やかに開き、息を一つ大きく吐くと冬眠から覚めた獣のように、ゆっくりと立ち上がった。


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