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連載、始まりました。

会社のホームページで、連載コラムを書かせてもらえることになった。その名も、不登校漂流記。学校に行っていなかった体験を書かせてもらっている。

noteのエッセイでも何度か書いている通り、私は不登校だった時期があり中学生の間はほとんど全く、学校へ行っていない。そこから通信制の高校へ行き、大学へ行き、こうしてエッセイを書いたり、コラムを書いたりする日々にたどり着いた。

コラムでは不登校になったきっかけや、両親との関係を主に書く予定でいる。何が足りなかったか、何が不安だったか、何が欲しかったか。過去を振り返っての反省や、もしもう一度同じ時間を過ごすことになったらどんなことをしたいか、そんな話を書いていきたい。

一方で、多分コラムには書かないだろうという話もある。文章を書き始めた話だ。私がインターネットにアクセスして、ブログを書き始めたのがちょうど中学生の頃だった。ずっと家にいたのに何を書くことがあったのか分からないが、頻繁にブログを更新していた。多分ほとんど毎日のように、夜とか朝とか、一日一回くらいのペースで更新していた。

文章が書けるようになってくると、次は物語を作りたくなった。小説投稿サイトでは一話完結型の小説と連載型の小説の大きく二種類のうちどちらかを書くことができる。私が見た人たちは連載型のスタイルを用いる人が多かった。ものによっては100話以上続く大長編の小説もあったし、他の作品も見てみると膨大な話数というのは、サイトの中ではあまり珍しいことでもなかった。

一方私は、書くことに関しては短編小説が好きだと分かった。途中のままだと、なんだか収まりが悪い。「続きはまた明日」と、うまく話を区切って終わらせることができなかったのだ。中途半端で答えの出ていない下書きを晒しているような気分になって、だんだん先を書くのが億劫になった。考えなしに書き始めるのだから、当然といえば当然だ。

それよりも最初から最後までしっかり書ききってからサイトに投稿したかった。途中まで出して「続きを楽しみにしてください」とか「このあと、もっと楽しい物語になりますよ」とか、そんなのも苦手だった。

誰かに期待されることが、得意では無かったのだと思う。続きを期待される、面白いことを期待される、そんな気配を感じてしまうと文章を書く途中で気が散って仕方がない。相手の期待するものをうまく掴み取れない私は、何かワクワクされていると思うと体が強張ってしまう。それよりは「はい、これでおしまい」と一区切りついて、完成した実感があるものが好きだった。

そんな私が、今になって連載を始めた。まだこの先何があるか分からない。一応、最初から最後までどんなことを書くかは決めてある。しかし、その結果できあがるものがどんなものになるのか、実際のところは私もわからない。ただ、一回一回しっかり完結させることに今は集中している。

振り返ってみると、中学生の頃から、今日まで一本の道が引かれているように見える。その取り上げ方によっては、真っ直ぐ最短ルートを通ってここまで来たようにも見えるかもしれない。不登校から、高校、大学、就職。この順番で見ていくと、確かに真っ直ぐ社会復帰しているようにみえる。

しかし、不登校だった時期にぐっとフォーカスしてみると、その実態は色んな方向にジグザグに進んでは様々なターニングポイントや、イベントを経て、今日にたどり着いた。エッセイでは細切れにしてそうした話を書いたこともあったけれど、ちゃんと順を追って当時あったことや感じたことを言葉にして整理するのは、私にとって新たな挑戦である。

この連載はもう一つ新しいことに挑戦している。キッチンタイマーの名前で書いているのだが、自分のFacebookでもコラムを書いていることをシェアした。本名の自分と、キッチンタイマーという自分の境界線をまた一つ曖昧なものにしている。それは、私自身にとって文章を書くということがキッチンタイマーという枠の中だけに収まらなくなってきたからだ。ウェブ上だけでなく、職場でも文章を書くことが多くなってきた。だから、どちらの私も文章を書いているということを周りの人に伝えることにした。今まで別々だったものを少しだけ重ねるのは、気恥ずかしい部分もあるが、いずれやらなくてはいけないだろうと思っていたことの一つだった。

線を引いては曖昧にして、書いては書き直してを何度も繰り返している。バラバラで、断片的だった私の時間や体験をもう一度一つに結び直す作業。どんなに媒体が変わっても、文章を書くときの本質は変わらない。

ただ、キッチンタイマーとして書ける場所が少しずつ広がっていくのが、今は楽しい。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。 感想なども、お待ちしています。SNSでシェアしていただけると、大変嬉しいです。