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ゲームを積んでしまう訳

積んでいるゲームがいくつもある。

買ったもののやっていないゲームだ。欲しかったはずなのに、手元に来ると手を付けなくなる。そんな現象が頻発している。図書館で借りた本、買った本、見たい映画、とにかくものが溢れている。必要な分まで少なくする、というのは妥当な作だが一方で、見たい時に見られる環境づくりもまた、必要である。二度と手に入るか分からない、次に手にしようとしたときにそれだけの軍資金があるかわからない。それら全てを解決するのが、とりあえず一旦持っておくことだ。

次の課題としては検索性能がある。とにかくたくさん物を集めたら、そこにアクセスするための目次を用意すると必要なものを見つけやすくなる。この工程を、片付けと呼ぶ。私は片付けが苦手だ。

片付けても散らかる。いずれ同じ結末を迎えると分かっているのに、わざわざ一時的に快適にする意味などない。妻は「……むせるから、せめて掃除はして」と言う。確かにそうだ。こうした身の回りのコンディションを整えるのは、ランニングコストと呼ばれるものだと思う。ランニングなどやめてしまえばいいのに。

小学生の頃、ゲームを買ってもらうチャンスは年に二度だった。誕生日と、クリスマス。そのタイミングでは、両親、祖父母、ありとあらゆるコネを使ってとにかく欲しい物をねだった。そして、誕生日に二つ、クリスマスに二つの合計四つが、私の手にするゲームだった。もちろんこれに加えて自分のお小遣いで買うものも、増えていくがそれはもう少し年齢が上がってからの話だ。友達とゲームの貸し借りをして、手にしたゲームをとにかくやる。

クソゲー、なんていう言葉はまだ知らなかった。とにかく意味がわからないゲームもあった。元々目星をつけているゲームもあった。今でこそ、動画サイトで「クソゲー」とか「残念なところ」などというリストが上げられて批評される。しかし、そもそも、そういった情報を手にする機会は全く無かった。ゲームはクリアするために生み出されたもので、多少不親切であってもクリアできなさそうなゲームを手にすることは幸運にもなかった。そして、クリアしたあとはデータを一度消して、最初からやり直す。

終盤に向けて少しずつ便利になっていった機能をすべて失う。すると、こんなにやりづらい環境で戦っていたのかと、落胆しつつも確実に一周目よりは楽にボスを攻略している。難しかったのは、手順を中途半端に覚えているせいで、シナリオを進行させるフラグを踏み忘れていてそれを探すのに手間取ったりもした。

逆転裁判など、もう何回最初からやり直したことだろうか。むしろ「さいしょから」というボタンを押すことを恐れていたのはポケモンくらいだ。ポケモンは、次の世代に全てのポケモンを移してからようやくゲームをやり直すことができた。初期化するより、旅した仲間が消えることのほうが怖かった。

一度買ってもらったゲームはとにかく隅々まで遊ぶ。攻略本を見ては、その工程を見ながら試す。一度しか手に入らないアイテム、一度しか見るチャンスのないセリフもあった。逆に、何度でも挑戦できるが本の通りにやっても全然クリアできないところもあった。

例えばどうぶつの森は、言ってしまえば林業漁業で稼いだ金でローンを返す工程が主軸になっている。森、というよりは「開拓」である。鬱蒼とした木ばかりの場所で、不便を感じつつも釣りや虫取りをする。このゲームも最初からにしたことはない。現実世界の一年と同じ時間の流れで、出てくる虫や魚が変わる。もちろん、ゲームの時間を弄ってしまえば、いつでも好きな時間で遊ぶことができるし、実際何度か弄ったこともある。ただ、結局、出てくる虫や魚は、決まった時間の何時に必ず出てくるというものではなかった。なので、8月の夜にはカブトムシを捕まえるために、夜更かししたり早起きしたりしていた。アニメを見終えて、ご飯を食べ終えたあと「そろそろ寝なさい」という促しに対して「この時間しか出ない虫」というのは、ささやかな対抗手段だった。そうして、また一年は巡り、新しいゲームをねだっては冒険に出る。すると何年かしてまた新作が出てきて、新たな生活が始まる。

こうして振り返ると、同じゲームを同時並行でこなしていた。ストーリーを進め、作業を進めた。本当にどうぶつの森と、ポケモンと、マリオを同時並行でこなした上で友達とゲームの貸し借りをしていたというのだろうか。

……学校に行っていたのに!? 学校に行って帰ってきてから、ゲームしてたの!? しかも夜の9時まで!? 足りないじゃん。アニメ見て夜ご飯食べて、ゲームをしていた?

時空が歪んでいたか、私の記憶が間違っているのではないだろうか。9時はさすがに早すぎる。しかし、夜の0時を超えることを両親が許してくれたとは思えない。0時を跨いでも起きていられることなど、年末くらいしかなかった。となると、土日祝日にやっていたわけだが、そんなずっとやっていたのか。8時間労働と同じくらいの時間、ずっと座って画面に向かっていたのか。それは確かに「そろそろやめたら?」と声をかけたくもなる。やはり段々、両親の方の気持ちがわかってくる年齢になっている事実から目をそらしたくなる。何であれ、いつ見てもずっと同じことをしているというのは、ちょっと怖く感じるだろう。

「今日はゲームしてるな」と、最初の五分は思う。

「まだゲームしてる」と、二十分ぐらいして思う。

「……まだゲームしてるわ」四十分もすればこう。

「……まだゲームしてんの?」一時間すると声に出る。しかも私に話しかけてくる。

私の手元で動いているソフトは刻々と変化しているので、1時間前とは全然違う冒険を楽しんでいるわけだが、外から見るとそんなことはわからない。むしろ、良いところで声をかけられるので鬱陶しくも思っていた。

しかし、時を現在に移すと、ゲームが積まれている。エンディングにたどり着けなかったゲームなど、小学生の頃は全くなかった。しかし、今や三つぐらいは平気である。OMORIもまだだし、ARKもダウンロードしたままだし、Minecraftもエンダードラゴンを倒していないし、テイルズオブベルセリアはもう操作方法も忘れた。最近は機動戦士ガンダムエクストリームバーサスマキシブーストオンをちょこちょこやっている。合間を縫ってちょこちょこぐらいの、隙あらば起動する。帰宅してまず飛びつく、朝起きたら電源をつける。そんな求心力があった。

友達が誰も持っておらず、自分だけで楽しむゲームもあった。だから、近くに人がいなくなったことはゲームをしなくなったこととはあまり関係ないだろう。

表現するなら「もうお腹いっぱいになった」というところだろうか。かつてはゲームに飢えていたが、満腹になれば残すのである。そしてその飢えは、ゲーム以外の時間によって、融通が効かなくなるからこそ発生していた。ゲームさえ、スケジュール管理しなければ取り組まなくなった。なんと怠惰なことだろう。本だって、通学時間にとにかく読みまくっていたが今や隣に積まれている。結局図書館に行って、スマホを開くことさえ周りの目が気になるような状況になると一冊読み通すことができる。

しかしなんとも寂しい。時間も余裕もあるのに、目の前のごちそうに手が伸びない。それどころか、今やゲームはデータでダウンロードするようになったのでパッケージを見ない。ゲームを起動して、タイトル画面のリストを右に右にと移動させ、更にその端にすべてのゲームを表示するタブがある。ゲームを起動する前にパッケージやソフトを見て「どれにしようかな」とか「最近これやってないな」と思う工程がない。パソコンにしても、プレイステーションにしても、Switchにしても、一度起動して画面にゲーム一覧を出さなくてはならない。いま手元にあるゲームをメモかなにかして、張り出しておいたほうが良いのかもしれない。チラシのように、今日手元にあるゲーム一覧でも貼っておいたほうがいいのだろうか。なんなら、今の進捗やゲーム記録もあると嬉しい。

積んでいるゲームは、積まれていることさえうろ覚えなゲームが多々あることが問題である。そして、前回までのあらすじやゲームシステム、どういった経緯で始まったかも覚えられるなら知りたい。

しかし、ゲームがなくなって何をしているのかと言えばエッセイを書き、麻雀をしている。私のスキマ時間に潜り込んできているのは、このスマートフォンから即アクセスできるボードゲームだ。

でも、テレビゲームも好きだよ。だが、やはり、ポケットモンスターレジェンドアルセウスを積み始めた辺りから「俺のポケモンへの愛はこんなもんだったのか」と、自分の熱量への失望が溢れはじめた。

ゲームをしよう。飽きても良い。飽きてもいいから、なんかしよう。基本的にゲームは飽きまくってカセットを差し替えまくっていた。

一つのゲームに夢中になっていた自分、というのは思い出補正の一つで、実際のところ、秒単位で飽きていた。

それが、今度は「ゲームを起動するまで、なんのゲームがあったか思い出せないからめんどい」と、駄々をこねている。

そして今日もまた、ゲームは一つ、また一つと積まれゆくものなのだ。

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