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何もしないし何もない

恋人が仕事を辞めるそうだ。

話を聞いたときにはもう恋人は覚悟を決めたあとだった。抱きしめて、話を聞いて、ご飯を食べる。恋人が決めたことだ。私はただそれを聞くのが役割である。

これからどうするのかは知ったことではないが、私の払う家賃と光熱費と恋人の払った食費や雑費の折半さえできれば文句はない。およそ毎月3万円から4万円程度の差額があり、私が受け取っている。金銭面において、私が恋人に求めるのはそれだけだ。あとはどこでいくら稼いでいるのかもあまり良く知らない。

次の仕事がスーパーヒーローでも私は気が付かないだろう。在宅の仕事だったら仕事を始めたことさえ気が付かない……というと流石にそれはないが、例えば先月から始めていたことに気がついていなかった、というぐらいなら全然ありえる範囲だ。また、仕事をしないままでも折半さえしてくれれば全く問題無い。

なんの仕事をするのか、はたまたしないのか。好きなことだけで生きていくのかもしれない。動画配信で凄まじい人気になるかもしれないけれど、仮にそうなったとしても恋人のチャンネルの宣伝をするような機会はくるのだろうか。今は、絶対してやるもんか、と心に決めているけれど、私が心に決めたことなどだいたい覆っている。


私はまだ仕事を辞めそうにない。

今は「先生」と呼ばれる仕事をしている。子供に勉強を教える仕事だ。2020年4月現在、この情勢故に子どもとはあまり会えなくなってきたけれど、教える仕事は悪くない。

しかし、今は暇な時間が多いので、勉強になりそうでならないことをしている。ゲームでいかに勝つかを考えたり、漫画を読んだりして過ごす。これだけ時間に余裕があるのに、仕事に役立ちそうな勉強を全くしていない。

ただ、日に日にそうしたまだ自分の中に余白があることに気が付き、なにかでその隙間を埋めようとしている。意識していなかったけれど、随分と余裕がなかったようだ。そして今は、突然空いた余白が見えて、そこになにか差し込もうとしている。

論文を読まないと。教え方を勉強しないと。

You Tubeで講義の動画を見るだけでもいい。ディズニーのタートルトークを映した動画を見るだけでも、勉強になる。ゲームでもなんでも、とにかく何か、成果につながることをしなくてはならない。

しかし、余白は出てきたものの心と体はまだまだ疲れているようだ。少しノートに向かっては大した成果も出ないままゲームを始めたり布団に潜ったりしてしまう。今できるのは、ただただ休むことと、遊ぶことだけらしい。


これではいけない。でも、体力がない。

布団の中で悶々としていると、恋人が近づいてきて私のほっぺに顔を寄せた。

「……保湿クリーム塗ってない」

首元で思い切り息を吸う。

「〇〇くん、保湿クリーム、塗ってない!」

「……そうだね」

「塗って!」

「……もう、枕元に置いておけば」

「……それもそうだね。よいしょ」

恋人は立ち上がり、洗面所へと向かった。


今日だって、休みなのをいいことに14時くらいに目が覚めて、体が動き始めたのが16時だ。パスタを茹でて二束食べる。恋人がChromecastが届いたというので、二人してスマホを接続した。そのあとは文章の推敲のお手伝いをして、ゲーム実況の音声を録り、ラジオを実況した。それから、友人と0時過ぎまでゲームをして過ごす。ゲームを終えたあとに、恋人が作ってくれたご飯を食べた。そして明日もまた仕事なのに、夜の2時を過ぎた今もエッセイを書いている。しかしまだ眠る気にもなれない。洗面所からやってくる恋人の足音を感じながら、私は布団を頭までかぶった。


「〇〇くーん」

恋人がやってきたらしい。私は黙って、文字を打ち込む。布団を踏む足音のあと、隣に恋人が座った。

「あっ、顔をガードしてる」

恋人は私の顔から布団をどけると、保湿クリームを塗り始めた。スマホを触る私の顔に恋人がクリームを塗る。

「ほら、反対側も差し出せ〜」

私が渋々寝返りをうつと恋人はまたクリームを塗った。恋人はこれを趣味だというが、本当に変わった趣味だと思う。

「〇〇くんは私に塗り塗りされても嫌いにならなくて偉いねぇ」

謎の称賛。どんなことであれ褒められるのは気分がいい。私はただ寝ていただけだが、寝ているだけで褒められると、うまく喜べない。


私は仕事をしていないと、気持ちが落ち着かない。そうでないときでも、何か自分の中で頑張ったと言えることがないと、ずっとソワソワしてしまう。しかし、今日あったことを並べると、意外とたくさんの作業をこなしている。

パスタを食べたし、Chromecastも設定した。ゲームの実況はこれまでしていない新しいことだし、ラジオの実況もめげずに続けられている。

働いているときは、決まった時間に職場に行き、仕事をしてから、決まった時間に帰る。するとノルマをこなした気持ちになって、自分を許してあげられる。しかし、本来働いている時間、ノルマクリアと認識できる行為を何もしていない。

こうして、一日を振り返り「あぁ、何だ思ったより動いたんじゃん。そりゃ疲れるわ」と思い返さないと「あーあ、今日は何もしなかった」なんて思って寝る。


私はまだ仕事をやめないだろう。でも、仕事のやり方は変えなくてはいけないらしい。これまで仕事と関連付けられていなかったことを、仕事と結びつけられると一番いい。でも、まずは「私は何もしないまま一日を終えたわけではない」と、立ち止まって振り返る。

そもそも恋人(妻)が仕事を辞めるなんて結構一大事なんじゃないだろうか。

隣を見ると恋人が何やらうごめいている。

「あー、また私と〇〇くんの間にクッションが挟まってるわ」

クッションに文句を言い始めた。……まぁ、恋人が気にしていないならそれでいい。

今日も特に大きなことはなにもない一日だった。来週にはすっかり忘れ去られているだろう。そんな、珍しいことがなにもない、いつもと変わらぬ一日である。

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