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黒い隣人

 このカビたピーナッツはいつからここにあるのかしら?

 アリスは突如カウンターの上に現れたピーナッツを見て不思議に思った。過去の映像を確認してもカウンターにピーナッツが置かれていた事実はない。

「目に見える世界だけが現実ではない」

 ふとそんな言葉が脳裏をよぎった。

 ここは政府管理外地区にある小さな無人島。アンドロイドのアリスが営むビーチバーだ。政府管理外地区にあるせいで客はあまり来ない。たまにやって来る客は政府と関わり合いになりたくない客ばかりで、そういう客は大抵厄介事を連れて来る。

 その客がやって来たとき、アリスはカビたピーナッツを眺めながら電子ウィスキーの『ブラックニッカ』を嘗めていた。

「それは何のお酒ですか?」

「ブラックニッカよ。ノンピートなのでウィスキー特有のスモーキーさがなくてスッキリした味わいなの。ロックでも飲みやすいけど、今日みたいに暑い日はソーダで割ると格別な味わいよ」

 沈鬱な表情が一瞬だけ晴れやかに輝いた。

「ブラックニッカはいいお酒です。私もそれをハイボールでいただきます。身も心も洗い流したいから」

 男の名はイムザといい、シックなグレーのスーツにソフト帽がよく似合っていた。比較的若いようだがどこか職人気質なところを感じさせた。ただ仕事で行き詰まっているのか、目が落ちくぼみ疲労の色が体全体を覆っていた。

「お疲れのようね」

 イムザはアリスの言葉をきっかけに、ぽつりぽつりと自分のことを語りだした。彼は普段ニッカウヰスキーのある蒸溜所で事務をやっているのだそうだ。ところが最近付近の住民からの苦情がひっきりなしで参っていた。彼の務める蒸溜所が原因で付近一体に黒カビが発生しているというのだ。この黒カビはエタノールを栄養として成長し、陽の光の下でも育つため家の外壁や車などありとあらゆる場所を黒く染め上げてしまう。それが蒸溜所のせいだと住民が苦情を言ってくる。

「黒カビ自体は洗えばかんたんに落とせるから、洗い流して下さいと説明しています。でも本当の問題はそこじゃないんですよ。そのカビに私も侵されてしまったんです」

 イムザが腕まくりすると二の腕に、まるで誰かに腕を掴まれた跡のような黒い斑点ができていた。カビは治療をすればすぐに取り除けるのだが、またすぐに同じような状態になる。しかも手のような痕は徐々に上に向かって移動しているのだそうだ。

「私はきっと誰かに呪われたんだと思うんです。この手のような痕がいつか私の首までやってくるかと思うと夜も眠れない」

「つまり、私にどうにかしてほしくてここへやって来たという訳かしら?」

 アリスに見つめられてイムザがかしこまる。

「実は、仰る通りです。あなたは呪いを断ち切れるという噂を耳にしたので、矢も盾もたまらずこうして窺ったという訳です」

 アリスはバーテンをしているが、実は特殊な能力を持っていた。アリスの右目は相手のエネルギー場を読み取ることができた。エネルギーによる重力場の僅かな歪みをエネルギー場として見ることができるのだ。

 もし、そのイムザが誰かに呪われているのなら、イムザのエネルギー場に負のエネルギー場が絡みついている。その負のエネルギー場を斬霊剣で切り離すことで呪いを解くことができる。

 だが、事はそう簡単ではない。多くの場合呪いというのはその人物のエネルギー場に融合してしまっている。もし完全に切り落とそうとすれば、イムザをイムザたらしめているエネルギー場の多くを一緒に切り落とすことになる。

 つまり呪いを解いた後、前と同じ生活を送れる保障はどこにもない。

「そんなことどうだっていいんです。見て下さい」

 イムザの黒い手の跡は話をしている間にもひとつ、またひとつと増えていた。まるで黒い紅葉が広がるように。

「なんてことだ。さっきより増えている。このままでは私はカビに殺される。早く何とかして下さい」

 理性の限界が近づいているのが表情から見て取れた。

「わかりました。準備します」

 右目にリソースを集中していくと、視界がグレーの砂の海のように変化していった。中央には歪んだ形の大きなくぼみがある。このくぼみがエネルギー場だ。その人が持つエネルギーによって形は様々だ。そして負のエネルギーがあると、くぼみは深い穴を形成する。だが、イムザの場にひとつも穴はない。呪いを受けていることもなければ、イムザ自身負の感情をあまり持ってもいなかった。

「どうなっているの?」

「どうしたって言うんです」

「いえ。それがちょっとおかしいんです。呪いの兆候が全くないんです」

「そんな筈ない。見て下さい。どんどん増えている。畜生。このままじゃあ私はお終いだ。くそう。見ろ。もう右手が真っ黒だ。早く。早く何とかしてくれ」

 突き出されたイムザの右手はカビで真っ黒に染まっていた。その手を動かす度にカビの胞子が煙のごとく立ち上った。

「見ろ。この手を。私は生きながらカビに食われている」

 カビに対する医療行為は全て医者でやって来たはずだ。もし本当に呪われているなら、真っ黒になった腕ごと切り落とすしかない。アリスは斬霊剣をカウンターの下から取り出した。

 イムザの目が大きく見開かれた。鞘から抜かれ黒光りする黒剣の無慈悲な輝きが全ての希望を断ち切っていく。

「止めてくれ。私を斬るつもりか」

 そう言っている間にも黒い触手がイムザを蝕む。黒い手形ははだけた胸にもついていた。こうなったら一番の可能性にかけるしかない。

「あなたの脳を取り出して医療機関でアンドロイドに意識転送すれば元のように暮らせるわ。その身体はもう使い物にならない。助かる方法はそれしかないの」

 膝を付きイムザは真っ黒な手を合わせた。首を左右に振る度に黒い涙が滴った。

「必ず助ける。私を信じて」

 方法はこれしかない。アリスは斬霊剣を大きく振りかぶった。方法を確認する。成功する確率は……。

 僅か。

 しかし他には手段がない。生存確率は僅か。それでも確率が一番高い方法はこれなのだ。イムザを助ける方法はこれしかないのだ。

 イムザは頭を抱えて砂に突っ伏し振るえている。

 斬霊剣を握る手に力を込める。

 だが、取り出し他脳をどうやって搬送する?

 豚肉を入れていたクーラーボックスにつめて病院にかかえていくのか?

 細菌だらけのクーラーボックスをラム酒で消毒するのか?

 それで彼が再生する確率は?

「私からウィスキーを奪わないでくれ。機械になってまで生きたくない。ウィスキーはデータじゃないんだ」

 イムザは黒い涙を流しながら震える声を絞り出した。

 確率の話ではないのだ。アリスの手から力が抜けていく。

 その姿を前にアリスは斬霊剣を振り下ろせなかった。人としてウィスキーを味わうのと、電子ウィスキーで酔った気になるのは同じではない。イムザは人としてありたいと痛切に願っている。力を失った手から剣が滑り落ち砂に刺さった。

「できない。もう私の力ではどうにもできないわ」

「もし私が死んだら、墓にはブラックニッカを供えてくれ」

 イムザが涙で濡れた顔で無理やり笑顔を作った。それは最後の願いであり、最後の微笑みだった。

 やがて黒カビはイムザの首を捉え、両手で締め上げるように黒い痕跡をつけた。イムザの顔が赤黒く変色し、むせぶ口から黒い胞子の煙が吹き出した。そして一気に頭の先まで黒いカビに覆われてしまった。

 やがてイムザは全身真っ黒な塊になりその場に崩れて動かなくなった。真っ黒なカビの塊が蠕動しながらイムザの肉体を陵辱していく。肉という肉を食い尽くし黒い塊は巨大なコロニーを形作りながら人類の叡智をあざ笑うかのように波打ち、蠢きによって歓喜の雄叫び上げながらイムザを見るも無残な残骸へと変貌させていった。

 菌糸によって膨れ上がった黒い塊は内部のエネルギーを食い尽くし、渦巻く黒煙のように胞子を吐き出すと急速にしぼみ始めた。そこにはもう人と言えるものは何も残されていなかった。黒く変色した残骸が、ただ人の痕跡として残っているだけだった。

 アリスはただひたすらに己の無力さを感じていた。そしてイムザのために黒い痕跡の脇に置いてやるつもりでブラックニッカのボトルを握った。

 そこで気がついた。

 アリスに右手に黒い斑点が広がっていた。

 それはイムザの手にあったのとそっくり同じだった。急速に広がり始めアリスの右手を黒く染め始めた。

 アリスは急いでカビを洗い落とそうとしたが、右手をこすった左手にもまた黒い斑点が広がり始めた。その広がる速さは早回しのムービーでも見ているかのようだ。黒い斑点は互いに融合し、オセロのようにアリスのプロテクトスキンという盤面を黒く染め上げていった。

 その事実をアリスは理解できなかった。カビが成長するには養分が必要だ。だがアリスのスキンに養分となる物質は含まれない。それでもアリスが理解できようが、できなかろうが、カビは容赦なくアリスを包み上げていった。

 そして指先から始まって徐々に各身体のパーツからアラーム信号が上がり始めた。その意味するところは体内にカビが侵入しているということ。アラームの数は猛烈な勢いで増えていった。診断と緊急防御処理を何度も繰り替えしたが、何をやっても機能停止を食い止めることはできなかった。視界映像が虫食いのようになり、思考能力が急速に落ちていった。どうしてこうなったのか、原因を特定できないまま、アリスは全ての感覚を奪われ真っ暗な穴蔵に落ちていった。

 次に認識できたのはイムザの存在だった。

 見えるわけでも聞こえるわけでもない。ただ存在としてのイムザを認識した。

 そのイムザが言葉ではない何か、あえて例えるならば意識そのもので訴えかけてきた。

〈私が分かるか?〉

〈分かる。イムザね〉

〈さっきまではイムザだった。だがもう違う。今はアズミだ〉

〈アズミとは誰?〉

〈ジョーに意志を伝えた者だ〉

〈ジョーとは私に斬霊剣をくれた憑き物落としのジョー?〉

〈そうだ〉

〈つまりジョーの師匠ということですね。そのアズミがどうしてイムザになったのですか?〉

〈お前が斬霊剣を使うことを理解していないからイムザとして現れた〉

〈修行はしました〉

〈ならばなぜカビを切れなかった? お前はカビが何なのか分からなかったのだろう〉

〈それは、あのカビが負のエネルギーではなかったからです〉

〈お前は表面しか見ていない。負のエネルギーは正のエネルギーでもある。呪いが必ずしも呪いの形をしているとは限らない〉

〈量の問題でしょうか?〉

〈それだけではない。虚が実である世界も存在するということだ。そしてその世界は見えぬが我々の世界と重なっている〉

〈その重なった世界とカビがどう関係するのでしょうか〉

〈もしその世界で強力な呪いが発動したとしたら、それはこちらにも影響する。呪いは全ての世界に影響を与えるのだ〉

〈呪いが世界を超えて漏れ出るということでしょうか〉

〈そうだ。それは負の形はしていないが、呪いには違いない。呪いが与える影響は計り知れない〉

〈斬霊剣はその形の違う呪いも斬れるということですか?〉

〈お前が正しく理解すれば斬れる。理解せよ〉

〈でもどうやって?〉

 その答えはなかった。代わりにアズミは言った。

〈私はいつでもそばにいる〉

 やがて手足の指先から感覚が戻り始め、最後に視界映像が復活した。カビは消えていた。アリスはいつものビーチバーの前に立っていた。手には斬霊剣。そして足元には黒いイムザの残骸が生々しく残っていた。

 アリスは右目で残骸を見てみた。やはりそこに呪いの兆候が見えなかった。ただ、気に入らない箇所はあった。それは不合理な乱数という人間の特徴に突然現れた規則性のようなもの。これこそが呪い。

 アリスは一文字にその規則性を切り落とした。イムザなんていう人間はほんとうはいなかった。だから躊躇はしなかった。

 黒い残骸は風にさらわれるように消えていった。後には砂の上に置いたブラックニッカのボトルだけが残された。

「ひとつ、修行を終えたということかしら」

 アリスはボトルを引き抜くと空に向かって掲げた。

 カウンターのカビたピーナッツは消えていた。

          終

 

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