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勝手に逝くなよ。


静謐な鼓動へ、勝手に逝くなよ、とぶっきらぼうにつぶやいて涙した。そんな言い方しかできないのは、これから訪れる深い喪失に対しての防御だったし、言葉がわからなくても心は通じ合っている、と信じていたから。

すると、愛犬は、頭をスクッと持ち上げて後部座席から父母を見て、そのあと隣の私をじっと見た。その眼は、晴れた日の空色でとてもとてもきれいだった。そして、愛犬は、眼を瞑り口をくちゃくちゃさせて大きく長いため息をひとつ零し、逝ってしまった。それは、まるで

いまから逝くから、また逢おうな。

と、旅立ちの言葉を囁いたように見えた。私は、呼吸が止まり上下しなくなった腹へそっと手をあてると、ふわふわして温かかった。その火の玉のような熱は、礼儀正しく私の手を温めてくれた。いつもの当たり前にあったそれを身体の芯まで感じると、嗚咽も涙と一緒に零れ落ちた。

すると、父は車を路肩へ停めて「どうした!」と訊ねた。私は、ゆっくりと父母へ愛犬が逝ったことを伝えると、父は何も言わずにハンドルへ額をつけて肩が小刻みに震えていた。私は、そのとき初めて父が泣く姿を見た。

「いままでよく頑張った。生まれてくれてありがとうな。またな。」

父の涙で揺れる声音は、精一杯の言葉だった。私は、その言葉にいのちの儚さと同等に大切さを感じた。縁あって出会い、共に暮らした愛犬の姿が走馬灯のようにこころを過ぎる。鋭くきれいな晴れた空を想わせるあの眼、ふわふわの毛、大きな前足の硬い肉球、ちぎれるほど振る尻尾──

それから少しして車は発進したけれど、車内では鼻水を啜る音が三つだけ淋しく消えることはなかった。


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食事をいただくときに、いただきます、と合掌しないひとを多く見かけるようになった。特に外食したときに、何も言わずに「美味しそう!」とか言いながら食べはじめるひとがいるが、私はそんなひとに対して牙を剥きたくなる。ガルル、と唸りを上げながら

お前、食べるときには、いただきます、と手を合わせろ!さもないと、お前を喰らうゾ

と、噛みつきたくなる。けれど、私は充分に社会性を身につけた大人だから、そんな野性的で野蛮な行為を控えているけれど、本当は肌の下に獰猛な私がいるのだ。

私は、そんないのちの大切さや有り難みのないひとの目の前で目を瞑り合掌して、いただきます、を執り行い食事を有難くいただく。そして、このひととは二度と食事をしない、とこころへ誓う野蛮な人間なのだ。

ひとが生きていくためには、たくさんのいのちを刈り取って生きていることを忘れてはいけない。それは、人間が背負うべき業だ、と思う。

つまらない自慢話や愚痴を聴きながら食事を終えたあとに、ごちそうさま、と合掌したらそのひとから、お茶しよう、と誘われたけれど、この後に予定があるから、と大嘘を吐いてそこでバイバイした。

来るんじゃなかった。

そう後悔しながら車内でアイスカフェラテを飲んだ。すると、駐車場のすぐ前には公園があり、私の車のすぐ前で小学生くらいの子ども泣いていた。私は、その様子を見ていたら子どもは隣にいる母親へ

「チョロが、死んだから、哀しい。辛い。」

と、大きな声で泣いた。すると、母親が

「哀しいね。苦しいね。けど、お母さんね、またチョロに逢えると思うよ。そんな気がする。」

と、つぶやいた。すると、泣いていた子どもは「いつ逢えるの?」と、訊くから母親は

「今日かもしれないし、明日かもしれないし、一年後かもしれないし、十年後かもしれない。けど、いつか必ずまた逢えるよ。」

と、言うと、その子どもは泣き止み涙を拭いながら

「今日ならいいなあ。それか明日ならいいなあ。逢いたいなあ。」

と、言いながら手を繋ぎ、公園へ移動した。そのあとのその親子がどうなかったわからないけれど、私は、愛犬が死んだときの父の言葉を思い出した。

いままでよく頑張った。生まれてくれてありがとうな。またな。

いのちの儚さと同等の大切さが溢れたような言葉には、また逢える、という希望も含まれていた。その言葉はあったかくて、やさしくて、やわらかくて、つよくて、はかなくて、たまらないほどの愛情と尊敬が滲んでいた。

このいつ終わるのかもわからない道の途中で出逢い、共に生きて、その思い出は私の血肉となっている。そして、弱くて品行方正なフリをした野蛮な私を励ましてくれる。

また逢える。

愛犬の魂は、巡り、また逢える、ということは、砂を掴むような取り止めもないことなのかもしれない。けれど、それでも、私はまた逢いたい。逢ってあの、鋭くきれいな晴れた空を想わせるあの眼に映りたい。ふわふわの毛に触れたい。大きな前足の硬い肉球をなでたい。ちぎれるほど振る尻尾を見たい──

愛するというきもちが、熱い涙へ変換されて流れようとするから、私は、冷たいカフェラテをギューッと飲んで、ごちそうさま、とつぶやき、車を発進させた。











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