毎日誰かが死ぬ未来

というタイトルをつけてみたが、いや、毎日誰かは死んでいるのだ。有史以来、地球上でただの一人も死ななかった日など一日も存在しないだろう。毎日誰かが生まれ、毎日誰かが死ぬ。当たり前やないか。

しかし、私が言いたいのはそういうことではない。タイトルをもっと正確に書くならば「毎日誰かが死んだことを認識する未来」となる。最近、私は有名人が死んだ年月日を年表にしてまとめるという悪趣味なことをやっているのだが、時系列に沿って並べられた「訃報」を俯瞰していると、ここ数年明らかに「有名人の死」が増えている。密度が増している。この場合の「有名人」とは「死んだことが広く周知される人」というニュアンスととってもらって構わない。実はこの悪趣味な行為は、1851年から2022年に至る170年間を対象に行っているのだが、その密度は上がり続けている。実際に、この年表を作るためにWikipediaで各年の「訃報」をチェックしていると、連ねられる名前は基本的に年々増えていく。

これはいかなることか。簡単な話で「有名人」が増えたのである。

私がこの感覚を初めに抱いたのはモーニング娘。が絶頂だった頃なので、1998-2000年くらいだろうか。芸能人の数が異常に増え始めた時期だったと記憶している。「素人っぽい子」達が次々と見いだされ芸能界へと参入していく。私はテレビを見ながら思った。「こんなに芸能人が増えたら、この子達が寿命を迎える時代には毎日訃報が流れるんじゃないだろうか」と。

実際、この流れは私が認識するより前、とっくの昔から始まっていた。戦後に花開いた日本のテレビ芸能では、まず戦前生まれのスターが生まれていった。そして戦前生まれのスターは戦後生まれのスターを呼び、いわゆる有名人は雪だるま式に増え続けてきたのである。昭和芸能はモーニング娘を産み、モーニング娘は間接的にAKBグループを産み、インターネットはYoutuberやインフルエンサーを産んだ。今日の世界はつまり、「有史以来最多の有名人」を抱える世界であり、明日もまたそれは更新される。

こうなってくると、「訃報」が増えるのは当然である。メディアがまだテレビとラジオしか無かった時代は時間的な制約があったため、「訃報を流すレベルの有名人であるか」という基準判定がなされていた。しかしここにインターネット(SNS)が加わることにより、訃報は「報道判定基準」という枷から解き放たれ、簡単に流されることになる。例えば、20年も前に表舞台から姿を消しアメリカの片田舎で隠居生活を送っていた元脇役俳優の訃報、なんかがSNSで流れてくることがあるだろう。この元俳優はインターネットが無い時代であれば、おそらくテレビでもラジオでも訃報が流されることはなかったと言える。有名人ではなくなったのだから。しかし、現在はそんな「元有名人」の訃報もSNSで散見される。そしてWikipediaに記事があればすぐさま「没日」が更新される。

この流れは今後も止まることはない。AKBグループに所属した数多の少女達が数十年後に亡くなった時にも「元AKBグループの○○さん死去」というニュースはSNSの片隅に流れることだろう。果たして我々は、そんな毎日で正気を保っていられるだろうか?

人間というものは、「死」というものから目をそらすことで正気を保っている面が確かにある。目を逸らさないならば、それはもう宗教に頼るしかない。それくらい「死」は恐れるべきものなのだ。「毎日死を意識させられる未来」が、我々の死生観や社会観にどういった影響をもたらすのか。私はそれがとても怖い。

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