喫煙者のダイイングメッセージ #5 煙と巨人のセックス

今年はやたらに映画を観ている。私は長く「趣味:映画鑑賞」を自称してきた。確かに若い頃は近所のTSUTAYAへ通い、棚に並んだソフト(当時はVHSとDVDの過渡期だった)を端から順に借りていくような凶行を繰り返していた。一日中テレビデオ(古代のアイテム)の前に寝転がり、積み上げた映画を脳味噌に流し込み続けていた。暇だったのだ。しかしあれからおよそ20年、年間に観る映画本数は(多少の上下はあるものの)平均的には激減してしまった。年の始めには「今年は最低100本観よう」と決意するものの、年末になってみれば30本か40本、多くても70本というのがここ数年の記録だ。しかも、「懐かしさ」という魔物に誘惑され、鑑賞済みの映画を観返してしまう。『ターミネーター2』は何度観ても面白いからだ。ここ数年、私は新しい感動に出会おうという意欲すら失いかけていた。これ以上いけない。というわけで、今年こそはと一念発起して年明けから配信サービスを中心に観まくっているのだ。基本的には「初見の映画」という縛りを設けており、2月23日現在で既に41本の映画(初見)を観た。このペースで鑑賞していけば若い頃の自分の年間記録を超えられそうだ。

さて、喫煙という文化をテーマにした連続エッセイとしてこういう書き出しをすると「映画の中の煙草」みたいな話になると思うだろう。正直私もそちらの方向にシフトして書こうかな、と数分前には思っていた。煙草が登場する映画は腐るほどある。今年初めて観た映画を例に出すならば、リドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』なんてのは飛行機の中で煙草をスパスパ吸っていて印象的だったし、高校生の時分に観た『アメリカン・ヒストリーX』でエドワード・ファーロングが煙草の煙を吐き出す様はカッコよすぎていまだに真似してしまう。だが、「映画の中の煙草」はおそらく、そういうタイトルの新書が何処かの出版社から出ていてもおかしくなさそうなテーマなので、私は書かない。他人が書いてくれるのならばそれを読んだ方が話が早い。そういえばスタジオジブリの『風立ちぬ』が公開された時には、喫煙シーンについてネット上でも議論が紛糾していたっけ。

私が書きたいのは、「映画を観ながら吸う煙草」についてだ。もちろん現代において、映画館で煙草を吸うなどという暴挙は許されるはずもない。というか、私が物心ついた時ですら都心部の映画館は当然禁煙であり、1991年、『ゴジラVSキングギドラ』でゴジラの吐く放射熱線に見惚れる私の周りに毒性副流煙を吐く大人は居なかった。どうやら1970年代前半には基本的に映画館は禁煙になっていたようである。一方、配信サービスの恩恵を享受しながら自宅で映画を観ている現在の私は、加熱式煙草を吸っている。2時間の映画で6本くらい吸うだろうか。前回の『喫煙者のダイイングメッセージ #4 左手に鎖と鉄球』では加熱式煙草をディスったが、映画鑑賞という両手を必要としない状況においては加熱式でよろしい。そうして、映画を観ながら煙を吐き出していると、何度もフラッシュバックする光景がある。

それは2010年か2011年だったと思う。私が独りで飲み歩くようになった頃であり、常習的に新宿で酒を飲むようになった頃の話でもある。ある小雨の日、自覚的に終電を逃すまで独りで飲んだ私は、適度な酔いが回った足で深夜の新宿東南口を徘徊していた。まるで井上陽水の『傘がない』の歌詞世界のように、当時の私は荒んでいた。「どう言い訳しても大人」に成りきる直前の、心がささくれだっていたお年頃だったのだ。新宿からタクシーで帰れる距離に住んでいたので、いつもならば乗ってしまっていただろう。またはネットカフェや個室ビデオで朝まで時間を潰していたか。しかしその時、私の目が捉えたのは「新宿国際劇場」という紅のネオンサインと、まるで時代に取り残されてしまったかのようなビルだった。その入口には淫靡な文言が踊っている。そう、ピンク映画館だ。

新宿国際劇場は2012年9月に閉館し、建物も解体された。現在は跡地にドン・キホーテが建っている。つまりこの夜私が目にした国際劇場は、時代の波に攫われる直前の姿だったと言える。もちろん当時の私もピンク映画館という存在は知っていた。上野にもあったし、池袋にもあった。だが、入ったことは無かった。私はアダルトビデオ時代の子であり、性的欲求を解消するためのコンテンツを大スクリーンで他人と共有して観るなどというのは狂気の沙汰にも思えた。ああいったものは小さな画面でコソコソと観るものだ。何しろ、昂ぶった性衝動を映画館でどう解消しろと言うのか。何もかも意味不明な施設、と思っていたのに、その夜の私はアルコールが妙なところに入り込んでいたらしい。オールナイトで上映しているというその劇場に足を踏み入れたのだ。シラフだったら素通りしていただろう。入場料がいくらだったのか記憶は無いが、現在主流となっているシネコンのように座席指定があるわけでもなく、入れ替え制でもない。一度入ってしまえば立て続けに流されるピンク映画を朝まで延々と観ていられるというシステムだ。薄暗く異臭が漂うロビーを通過して扉を引く。大スクリーンで女が喘いでいた。

話は逸れるが、最近ではアダルトビデオの進化も凄いところまで来ていてVRゴーグルによる視聴がじわじわと人気を伸ばしているようだ。言うまでもなく私も経験済みだが、まるで目の前に女性がいるようなリアリティにはまったく驚かされる。どうやら性的欲求を解消するためのコンテンツには「リアリティ」を突き詰めていく力学があり、これまで小さな画面で観ていたAVが「等身大の女性の実在感」を再現するVR作品に発展していくのは至極自然な流れだったと感じる。今後は触覚や嗅覚にも訴求する技術が開発されることだろう。ヴァーチャルセックス時代が到来するのは間違いない。恋愛や生殖という行為はまるで喫煙のように時代遅れになるかもしれない。

話を戻そう。大スクリーンで喘ぐ女性。そのサイズは当然のように通常の人間のそれを超えている。私は「セックスがでかい」と素直に思った。なんだその感想は。リアリティもクソも無い。これじゃ巨人用のアダルトビデオじゃないか。恐らくあのサイズで裸体を観ることは今後無いだろう。私はしばらく、立ったままスクリーンに映し出される巨人のセックスを眺めていた。ようやく衝撃から立ち直って席に座ろうと暗闇の中の座席へ視線を移すと、この映画館がとんでもなく古く、異様な空間であることにあらためて気付かされたのだった。座席はコンクリートの床に打ち付けられたベンチのようなものだった。座る前から座り心地が悪いことが分かった。そしてもう一つ、私を驚かせたのは床に散らばる煙草の吸い殻だった。スクリーンと吸い殻。私の中ではラーメンにアジフライが載っているくらい奇妙な組み合わせだった。セックスの僅かな光に照らされた客席を見回してみると、まるで互いの縄張りを主張するかのようにポツンポツンと点在する客達の後ろ姿が見える。そしてその頭からは白い煙が立ち上っていた。「禁煙」と書かれた電光板など目に入らないとでも言うかのように。

私は先客達の流儀に従って、距離を取って座席を確保した。思った通り座り心地は悪い。しかし不思議と身体がぐっと沈み込んだ。断っておくが、現在私は禁煙の場所で煙草は吸わない。が、この時は異様な空間の一部になってしまいたい衝動に駆られた。郷に入れば郷に従え、という言葉もある。無法者の中に自らの意思で足を踏み入れたのならば、無法者に倣うべきだろう。私は胸ポケットから煙草を取り出し、咥えた。少し緊張しながら火を点ける。巨人のセックスが赤く燃える。劇場スタッフが怒鳴り込んでくることはなかった。先客と同じように「帰る機会を失った」という狼煙が、私の口からも立ち上る。そうやって私は、煙草を吸っては床に投げ捨て、ピンク映画を立て続けに観た。白い煙の奥で喘ぐ巨人と、白い煙の奥で展開される意外にしっかりしたストーリーを観た。そして白い煙の奥で夜が終わっていく様をただ観ていた。

「一番好きな映画は?」と問われれば、人は作品名を答えるだろう。私にも「一番好きな映画」として答える作品名がちゃんとある。しかし「一番最高だった映画体験は?」と問われたならば、私の答えは「この夜」である。この時流れた数本のピンク映画のタイトルを私は憶えていない。そして詳しいストーリーも主演女優の名も知らない。だが、私はあれ以上に素晴らしい映画鑑賞をしたことがないと断言できる。それはその後10年を経ても色褪せない。何故ならばそれは、煙草の煙というフィルターを通して観た「夜そのもの」の美しさだったのだから。

前述の通り、新宿国際劇場は2012年に姿を消した。私はたまに新宿駅東南口を出て歌舞伎町まで歩いて行き、TOHOシネマズ新宿で最新の映画を観る。事前にネットで予約しておいた番号を端末に入力すると、レシートのような味気ないチケットが排出され、高いドリンク(そして時にポップコーン)を買い、無臭で清潔で座り心地の良いシートに腰を下ろす。そして高画質で高音質の映画を鑑賞する。映画が終われば全ての観客が席を立ち、映画館は次の塊を飲み込むためにもぬけの殻となり、清掃される。これでいい。これでこそ映画に集中できる。さぁ純粋に映画の感想を語り合おうじゃないか。だが私は、こうした見事にラッピングされた映画体験を重ねるたびに思ってしまうのだ。本当につまらねぇな、と。

一服、失礼。

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