放浪の世界

目的地へ向かうことが「移動」ならば、目的地を持たずに移動することが「放浪」なのだろう。そして移動は物理的な座標移動に限らず、目的地もまた、緯度経度で表すことができる場所を指すとは限らない。

私は1983年の日本に生まれた。その頃の日本は既に高度経済成長が終わり、バブル景気による狂乱が始まる直前の時代だった。もちろん物心がつくまで、自分がどのような時代に生まれ落ちたのかなど知る由もなかったのだが。しかし、私は生まれてから30年近く、精神的な大移動も大放浪も必要としない社会に生きてきたと言える。アメリカ合衆国は大国で在り続けたし、資本主義は資本主義で在り続けた。オウム真理教による日本転覆未遂事件という一大事こそ身近で起きたが、結局私は被弾することも飢餓に陥ることも伝染病に苦しむこともなく生きてこれた。それはつまり、目的地が変わることのない時代だったということだ。金を稼いで、消費して、経済を回す巨大なエンジンに微々たるオイルを注入する。生まれた瞬間から私は(そして私達は)、「何者か」によってそれを教え込まれてきた。あらゆる美辞麗句によって見事に刷り込まれてきた。考えてみれば、この目的が死ぬまで大きく変わらなければ、それはそれで幸せなことだっただろう。例えば、戦後復興の真っ只中に生まれ、バブル景気の真っ只中に死んだ日本人が何人くらいいるのかは分からないが、平均的な寿命よりも早く死んだという一点以外は、幸せだったと思う(いや、長生きすることが幸せかどうかすら怪しいものだが)。目的地は変わらず、ただ一直線に走れば良かったのだから。

私は経済の専門家ではないので、どういった個別具体的な出来事がどういった結果を引き起こしそれがどう波及していったのか、という時系列に即した細かい因果関係は解説できない。しかし、それらに言及するまでもなく、現在世界が目的地を失っていることは解っている。それは、そうだ、この文章を書いている2月22日の昼間に外を歩きながら「春めいてきたな」と感じたのと同じように明らかに解っているのだ。インターネットは、世界の黙認事項として長らく隠されてきた「これまでの目的地」が抱えていた問題を次々と明らかにしていく。そして、目的地に向かうことが出来ずに脱落していった者達の嗚咽を文字通り音声として表層に響かせ始めている。今やこの世界は、この社会は、これまで正解とされてきた道を歩くことにすら罪悪感を抱かざるを得ない場所になってしまった。

格差、自然環境、イデオロギー、人権、国家、歴史、疫病、差別。今まで何も考えずに毎日踏み出していた一歩にそれらの影がべったりと染み込み、足は鈍く重くなった。それでもなんとか踏み出す。しかし目的地は分からない。同じ場所をふらふらと徘徊し、徘徊したことによってさらに足は重くなる。ただただエネルギーだけが奪われていく。放浪、放浪、放浪。もう2年も、私の頭は放浪を続けている。そして私と同じように目的地を失った放浪者は世界で増え続けている。それこそ「春めいてきたな」と感じたのと同じように明らかに解るのだ。

以上、映画『ノマドランド』を観た感想でした。

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