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この儒教文化圏ではこの手法が有効だと理解されつつあると思います。唐突に、7,000万人が投資家になったこの国で、何が「コアコンピタンス」になるか?

記事に書いてあるので、云うまでもありません。

しかし、経済だけでは語れない事も名言しています。
世界史を顧みればわかるとおり、どの地域文化、どの歴史時間軸でも「民意」を無視して合理化した場合、良い結果になりにくいという事です。

アレキサンダー大王であれば、その果てしない探求心とチャレンジ。
ローマであれば、多文化に学びを取り入れ続けた1000年。
ヴェネチア共和国であれば、希少な国土を外交で切り抜け決定的な直接対決を嫌う知恵

■グローバル社会以前から、人間の行動原理は変わっていない。


違うとすれば、「テクノロジー」が「フィロソフィー」にとって替わっただけだ。

まず、確認しよう。

物々交換から、貨幣経済への転換で人間社会はまず、最初のバーチャリズムを始めた。誰もが無意識の合理性に立って。
その時点で「人間たる自然」を捨てている。

大航海時代以降、より混沌とした価値観が蔓延した。
イギリス、スペイン、ポルトガルなどの大西洋沿いの地域は、外洋に出る植民地主義を進める事で、富の蓄積を図った。一方、イタリアやプロイセンなどの地中海の奥または外洋にでにくい欧州の地域との格差は明確だったろう。
ルターの宗教改革でも、資産を増やす事を認め始めた前提があるだろう。中世から近代ヨーロッパの話だ。

その頃、「日本」という概念もあったか定かでないこの国(どちらかと云えば「江戸」だろう「国と云えば藩を指した」)は鎖国していたのだから、日本史をかじったものであれば、「近代」は1900年代くらいからの話で、それ以前は「近世」(江戸時代の封建制度社会)だ。
近世というカテゴリは、世界史で聞いた事がない。近代・現代につながる線上の履歴調査の中で、ぽっかりと浮いている。※現在の教科書を知らないからね。

日本は、そういう「近世という「テンポラリー」がある」
その封建時代の名残が未だに残っている。
平成の大合併という時期があった。その時期、官公庁営業をしていたので、3000あまりの自治体が1000くらいに統合されたことは記憶している。
そのディテールで、稀に聞き及ぶのが「江戸時代」から「明治維新」でやり残された「士農工商」外の民間割合が少しでも多いと合併が困難だったという事だ。

何を意味するか?

明治維新は「民意を反映する改革ではなかった」という明確な事実だ。

薩長閥により、自由民権運動は排斥され主権者は徳川一族からの継承に成功した。それ以降より右傾化した政府は、WW2の敗戦まで続いた。
しかも、その後はさらに厄介だ。

日本政府の首脳たちは、民意など関係ないという態度を根本に持っている。
安倍政権以来、それは活発化し、ついにはこの総裁選でも、傀儡にぴったりの人物を二名ほどセレクトしたように感じる。根拠はない。言論の自由だ。
それに反応があったとすれば、「この勝手な推論は当たっている」と、確認ができるだろう。

さて、冒頭に戻ろう。今ある社会は、短い時間軸の歴史学ですら骨格の解釈ができる。

ひとびとの年金が足りない。社会保障に手が回らない。そんなことは、敗戦後の人口波形を見れば、数十年前に分かり切った事だろう。

今までの政治の怠慢のツケを、如何に国民・市民に払わせるか?その統制プロセスの常套手段はどの世界の歴史でも同じだ。


「隣国」を仮想敵国にしてだ。


そんなことは、ローマの昔から当たり前の手法で使い古されている。

それでも、我々はそれに乗りたがる。なんで?はて?

別に、NISAで結構だ。今更遅いのだから。それなら次世代への義務教育の中に、現代的なあらゆる分野をバランスよく構成しなおさなければならない。

文科省は「学習指導要領」をどのように扱っているのか?
愛国心・道徳心は数値化できるのか?
小学校長の印象で「教員の最終評価」が決まっていたのは、僕が30歳手前くらいで知っている。今どうなんだろう?
(僕は教員でも何でもなかったが、一般社会の常識だった)

だから、学校写真などを黙々と撮影する事は最早我慢の限界だ。ほどほどのお手伝いしかできないだろう。つまり、役所営業とあまり変わらないのだ。

引用した記事の結論を云えば、このセブンアンドアイホールディングスには、バブル時代にあったような大企業特有の隙があったと云えばそれまでだ。
日本のカメラ産業を始め、あらゆる分野の経済・金融的なリテラシーやセンス・テクニックの差は明らかだから、バブル崩壊が必然だったのを忘れていないだろうか?
サブマリン特許。ミノルタも自動車産業もそういう意味で甘かっただろうし、経済戦争で勝てる文化圏ではないのだ。

だから、最初のリンク先のコメンテーターの文章は意味がある。極東アジアのやり方というものがあるという事だろう。


最後に、世界史を履修しない世代が多いと聞く。
主な理由は、自国文化を知らないと海外に説明ができない。らしい。その通りだろう。

しかし、世界史は時系列で地球上で起こっている有史以来の時間軸を横断して解釈する事ができる。
その中で、日本という国の文化的な面と産業面とをバランスを保って俯瞰しなければ、ナショナリズムの台頭はのがえれえない、つまり理性的な判断はできない。

今思えば、政府は明治維新以来からの文脈を強化し続けているのが、今のこの島の実際だと、よく理解できる。

僕は、ローマ史を専攻したかった。それは「なぜ、あのようなユーラシア大陸のような場所で1000年も国家が続いたのか?」という率直な問いだったからだ。それは、「島国のガラパゴス諸島」と比較してはならない。詭弁になるからだ。

またモラトリアムでたんまり遊んでもいいのだが、高等教育で就職斡旋機関に飲み込まれてはもったいない。最近、テレビのニュースで「モラトリアムを楽しいんでください」というアナウンサーのひと声が耳に残った。


本質を大きく外している。バランスを欠いている。

本当は、それが見えてきたら「人類の習性・性癖」が原初から変わらない事を示さないとならない。そうしないと、テクノロジー信仰で自らの首を絞めていく現代社会で「ひと」は本来のありようから乖離していくばかりだからだ。

ここまで、今までの学びから何を参照する事もなしに書き綴った。常に頭にこれらは蓄積されていて、このような引用記事をキッカケに繋がりを開始するのだから。それを一般教養というと考えている。つまり、義務教育レベルの話だという事だ。

それに意味がないというのも意見だろう。
いいだろう。それが「充足や幸せ」であれば。では、いい夢を。