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【小説】露草と淡色 第7話

海沿いの遊歩道を歩く。
この道を昔は二人で歩いていたなんて幻のようだと思った。
遊歩道は以前と変わりなく、子ども連れの母親や高齢の夫婦などが散歩しており、平日の午後のゆったりとした時間が流れていた。

仕事帰りのスーツ姿の自分に違和感を感じながらも、歩きながら佳乃は昔のことを思い出していた。

クロマルはとても昂平に懐いていた。
どれくらい一緒にいるのかと聞いた時、「まだそんなに経ってない。」と答えられた。
それでもクロマルを優しく見つめる昂平や昂平にじゃれるクロマルの姿から、二人にはしっかりとした絆があると感じた。

「ちゃんと毎日散歩してるんだね。」
「クロマルはこの場所が好きだから。」

昂平は優しかったが、一緒に過ごす時間が増えて他人に一線を引いていることに佳乃は気づいた。
一緒に居れば居るほど、なぜか距離を感じることがあった。距離が縮まっているようで縮まっていないのだ。

本当は他に散歩する家族がいないのか聞きたかった。
はっきりと聞けたらよかったのだが、佳乃自身、自分のテリトリーに踏み込まれるのが苦手なので、知りたいけれど昂平の領域にも踏み込まなかった。
それゆえ、一緒に過ごした時間に比べて意外なほどお互いのことを知らない。

ただ、その関係が心地よかったのかはわからないが、昂平はよくクロマルを連れて佳乃のところへ顔を出した。
佳乃が宿題をしていたら、授業や教師の話をした。
昂平は勉強も得意だった。佳乃が解けない問題があると、とてもわかりやすく教えてくれた。

「…よくわかった。昂平は先生向いてそう。」
「そう?ありがとね。」

初めは名前で呼ぶのは気はずかしかったが、自然と慣れていった。
確か呼び始めたきっかけは何だったっけ…
そうだ、クロマルだ。
昂平が突然言い出したのだ。

「クロマルは有澤のこと、有澤って名前だと思ってるよね」
「そうだね。」
「もっと仲良くなってほしいから、名前呼びにしようかな」
「???」
「ほら、クロマル。有澤は『よしの』って名前だよ」

クロマルは不思議そうに昂平を見つめた。
クロマル以上に佳乃の方が不思議な顔をしていたかもしれない。
だけど、とても嬉しかった。

「あ、俺の名前は昂平だからね。」
「…知ってるし。」

昂平はいたずらっ子のように笑った。
昂平のことも名前で呼ぶのかと、そのことに気づくと佳乃は恥ずかしくて誤魔化すためにそっけない態度をとった。

「佳乃は表情豊かでおもしろい。」

昂平は佳乃があまり言われたことのない言葉たちをプレゼントしてくれた。
この十年間、思い出すことこそしなかったが、この海に来てどんどんと記憶がよみがえる。

10分程度歩いたところで、いつも佳乃が過ごしていた例の東屋に到着した。

ー誰も居ない。

佳乃は自分がほっとしたのか、がっかりしているのかよくわからなかった。
もしかしたら会える、期待した自分に気がついて罪悪感を感じた。そして、罪悪感を背負えない弱い自分に目を背けたくなった。

高校の時のように、ベンチに腰かける。

今はもう昔のようにテーブルに広げる宿題もない。

そういえば、クロマルは帰り際になるとテーブルの下に潜っては、昂平を少し困らせていたっけ。

懐かしく感じながら覗き込むと、一通の手紙があることに気づいた。

それは外から見えないように、天板の裏に貼られていた。

宛名こそなかったが、昂平からだと確信した佳乃は躊躇せず手紙を取った。

露草が淡く印字された封筒。
外気にさらされ少し乾燥していたが、そんなに時間は経ってないと思われた。

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